1-8 輝きを、もう一度
「ふ〜! コツ、掴めてきたかも」
夢中になると、あっという間に時間が過ぎていく。
気づくと陽は西に傾いて、下校の時刻まであと少しとなっていた。
架暖が3ボールシャワーに挑戦してから、15分が経過していた。
最初の時よりも安定した軌道で、リズム良く投げることができている。
惜しくも20キャッチには届かなかったが、短時間での成長を実感するには申し分ない収穫だった。
「ありがとね、ボール貸してくれて。めちゃ楽しかったよ!」
「私も楽しかったです! 初めてジャグリングをした時のこと、思い出して……」
月紫は架暖からボールを受け取ると、大きく息を吸って、ゆっくり吐いて。
それから真っすぐ前を向いて、口を開いた。
「……本城さん。私、あなたとジャグリングがしたい。クラブパッシングのステージに、一緒に立ってほしいんです……!」
「くらぶ、ぱっしんぐ?」
架暖には聞き馴染みのない単語だ。
横歩きのカニさんが通り過ぎていく、そんな光景が架暖の脳裏をよぎった。
「複数人でクラブを投げ渡し合う、トスジャグリングの一種です」
「それを……あたしと?」
「はい。私、本城さんのボールを見て確信しました。あなたとなら、きっと、息が合う。だから……」
――それはまるで、運命の告白のように。
月紫は顔を紅く染めながら、震える唇を動かした。
「是非、ジャグリング部に、入っていただけないでしょうか……?」
架暖の顔を直視できずに、月紫は深々と頭を下げる。
それは月紫にとって、紛れもなく、一世一代の勇気を振り絞った勧誘だった。
その覚悟を、架暖は真摯に受け止めてから、こう言った。
「ごめんなさい! ちょっと、考えさせて」
それを聞いて、ヘニャヘニャと肩を落とす月紫。
緊張の糸が切れた様子はまるで、水分を失って萎れた草花のようだ。
――しかし、そんな落胆も束の間。
「明日には、必ず返事をするからさ。待っててもらえる……かな?」
「え…………」
月紫の瞳に、再び希望の光が射し込んだ。
架暖は続けてこう言った。
「この選択はあたしにとっても、深山さんにとっても、大切なことだと思うから。ちゃんと考えて答えを出したいんだ」
「ごめんなさい、私としたことが早とちりを……。もちろん、お返事は明日で構いません!」
「ありがと!」
架暖は柔らかく笑って、ぴょんと跳ねる。
「では、明日の放課後。中学校舎の中庭で、お待ちしていますね」
月紫は年相応の少女らしい表情で、はにかんだ。
その日の夜のこと。
架暖は目を瞑って、今日の出来事を思い返していた。
絶え間なく降り注ぐシャワーの飛沫を、顔面で受け止めながら。
――弾ける水音は、ホワイトノイズによく似ている。
その音に包まれている間の、意識が世界から切り離されるような感覚が、架暖は好きだった。
月紫との出逢い。ボールの感触。初めてのジャグリング。再び感じた熱い拍動。
……そして、彼女がかけてくれた言葉の数々。
雑念が洗い流されてゆくにつれて、心に浮かぶ靄の輪郭が明らかになっていく。
「あたしに、できるのかな…………」
不安がないかと言えば、嘘になる。
架暖にとって、ジャグリングはまるで未知の世界だ。
反射神経が活かせるとはいえ、全てが上手くいくとは到底思えなかった。
不運が重なれば、ソフトボールの二の舞いになる恐れだってある。
新たに選んだ夢の途中で、さらなる挫折を味わうことになるかもしれない。
――だとしても。
きっと大切なのは、できるかどうかじゃない。
あたしが心から、やりたいと思えるかどうかだ。
架暖はシャワーの水を止めると、片脚ずつゆっくりと湯船の水に浸した。
そのまま肩まで体を沈めて、大きく息を吐く。
――もう自分の気持ちを騙すのは、これで終いにしよう。
血潮に宿る、内なる熱が教えてくれるから。
本城架暖はこの道を、進みたいと願っているのだと。
浴室を漂う白い湯気が、風に揺られて薄くなってゆくのを、架暖はじっと見届けるのだった。
翌日。
雲ひとつない晴空に、放課後を告げるチャイムが鳴り響いた。
藤沼友香里はこの1週間ずっとそうしてきたように、後ろの座席を振り返った。
――机に突っ伏しているお寝坊さんを、叩き起こしてあげないと。
しかし、その憂慮は不要に終わった。
本城架暖と目が合ったのである。
「……わっ!」
友香里はオバケでも見たかのように、思わず椅子から飛び上がった。
「どしたの? あたしの顔、何かついてる?」
「大丈夫、気にしないで」
友香里は肩をすくめると、安堵の息を吐きながら目を細めた。
「やっと目が覚めたのね、お寝坊さん」
「なに言ってるの。今日は寝てないし」
「――知ってるわよ」
架暖に冗談や皮肉が通じないことも、友香里は織り込み済みである。
「そうだ、聞いてよ友香里! あたしね、入る部活決めたんだ」
「ふーん、良かったじゃない」
架暖の表情を見れば聞くまでもない、という風に澄まし顔をする友香里。
その口許からは、隠しきれない喜びが滲み出ていた。
「問題です! 本城架暖は、いったい何部に入るでしょ〜か?」
「もう。もったいぶらずに教えなさいよ」
「えへへ、それはね――」
それから程なくして。
中学校舎の中庭では、ジャグリング部の上級生たちが、体験用の道具を部室から運び終えたところだった。
いよいよ今日から、本格的に部活動がスタートとなる。
とはいえ新入部員が自分の担当道具を決め、自分用のものを購入するまでは、引き続き貸し出しが行われる。
「よいしょ……っと」
副部長の璃玖が、体験用のディアボロが入ったカゴを降ろして一息つく。月紫と茉姫もそれに続いた。
茉姫は中庭をグルリと見回すと、満足そうに頷き微笑した。
「――来てくれたみたいね、新入生」
その声を聞いて、月紫も茉姫の視線を追いかける。
中庭には中学生部員の他に、入部希望者と思しき新入生が2人集まっていた。
初々しい雰囲気からして、どちらも中学1年生のようである。
昨日勧誘をした架暖の姿は、まだ見えない。
月紫は落ち着かない胸の内を悟らせないように、部活の準備を再開しようとした――その時。
「すみませ〜ん! 遅れました!!」
元気いっぱいの声が中庭に響く。
月紫が振り向くと、そこには手を振る彼女の姿があった。
「本城さん……!」
月紫の頬が思わずほころぶ。
架暖は競歩の如き早歩きで、月紫の所まで近寄った。
「中学校舎で迷子になっちゃって……。でも、もう大丈夫!」
自信満々に胸を張る架暖。
その表情からは、月紫が昨日感じていた迷いが、綺麗さっぱりと消え去っていた。
「あたし、決めたよ。高校から新しいことにチャレンジするって」
本城架暖が再び情熱を生み出すための、新たな夢。
それは受験のように、必要に迫られての目標ではなく。
ましてや、他人の目を気にして選んだ未来でもない。
「心から自分がやりたいと思ったことに、全力で取り組みたいから」
――そうすることでしか、この心の渇きは、きっと癒せない。
だからこそ架暖はこの選択に、青春を懸けると決めたのだ。
「深山さんと一緒に、ステージに立つ。それが今のあたしの、新しい夢」
「はい…………!」
月紫は瞳を潤ませて、力強く頷いた。
他の部員たちが見守る中、架暖は月紫の手を取ると、真剣な表情で告げるのだった。
「だから、あたしにジャグリングを教えて! あたしと、ジャグリングをしてください――!」
そんな眩しい決意表明を、月紫は真正面から受け止めた。
「勿論です、本城さん! 分からないこと、何でも聞いてくださいね。私が全身全霊サポートしますから。これから、よろしくお願いいたします!」
架暖は月紫に手を引かれるまま、中庭の中央へと誘われる。
春の陽光に照らされた2人の姿は、まるでキラメキを纏っているかのように、烈しく輝いていた。
「ようこそ、ジャグリング部へ」