1-5 その出逢いは、運命
ザッ、ザッ、ザッ、ザッ。
誰かが駆け寄ってくる足音が、架暖の意識を現実へと引き戻す。
架暖が顔を上げると、ソフトボール部員の姿が目に入った。
フェンスまで飛んでいったボールを拾いに来たらしい。
――もし、あたしの身体が万全の状態だったなら。
自分も彼女たちと共に、グラウンドを駆けていたはずなんだ。
苦い思考が架暖の内で蠢いて、灰色の心に影を落とす。
どんな顔をしてソフトボール部員と向かい合えばいいか、今の架暖には答えを出せなかった。
……早く、ここから立ち去りたい。
その衝動のままに、架暖は勢いよく地面を蹴った。
グラウンドを抜けて、部室棟を通り過ぎ、道が続く方へ脇目も振らずに風を切る。
時間の感覚を忘れるほど、ただひたすらに架暖は走り続けた。
――この脚は、まだ動く。
あたしは、まだ走れる――!
課せられた試練に対する、ささやかな抵抗。
それが彼女なりの証明のカタチだった。
しかし、どれほど遠くまで行けたとしても。
今を生きる者たちは皆、現実から逃げ出すことはできないのだ。
「痛っ……!!」
鋭い痛みが、架暖の右脛の内側で弾ける。
生命を否定し、嘲笑うかのような激痛。
架暖はよろよろと壁に手を付き、その場にうずくまった。
「……何やってんだろ、あたし」
頬を伝う惨めさが平静を取り戻させる。
花弁を纏ったつむじ風が、架暖を包み込むように渦を描いた。
身体の歪みから生まれた綻びは、いつしか身体の一部になっていた。
無視をしようと試みても、思い切り走るだけで容易く顔を出す。
それは枷であり、楔であり、そして呪いでもあった。
本城架暖という少女から、夢を奪いとった運命の悪戯。
想いの力だけでは、この不条理は塗り替えることができない。
その現実を、架暖は誰よりも理解していた。
退部届を出したあの日、叶わぬ夢は諦めたつもりだった。
行き場をなくした情熱を注ぐにあたり、受験勉強は丁度良い受け皿となった。
勉学に没頭している間は、余計なことを考えずに済む。
フィールドを変えても、驚異的な集中力は遺憾なく発揮された。
その努力が実って、架暖は難関校の凪浜学院に合格を果たしたのである。
――それで、良しとしたはずだった。
逆境に負けることなく、その苦痛を昇華して確かな結果を掴んだのだから。
架暖は己の選択を後悔していない。正しい判断をしたと、今も強く確信している。
だからこそ、架暖は分からなかった。
埋めたはずの心の穴から、今になって溢れ出すこの感情が何なのかを。
……いや、きっと本当は分かっていたんだ。
言い訳をして、見て見ぬ振りをしてきたから。
自分が可哀想な子だと思われたくなくて。
薬にならない心配をしてもらいたくなくて。
聞き分けの良い強い人間を無心で演じて。
そのたびに、心の表面は摩耗して。
血と涙を失って、渇き続ける一方で。
あの日から、ずっと、心のどこかが満たされないでいた。
それは、架暖が押し殺してしまっていたから。
――哀しみという名の、胸の痛みを。
「あたし……悔し、かったんだ…………っ!」
架暖は溢れ出した感情の流れに身を任せて、ひとしきり頬を濡らすのだった。
それからしばらくして。
架暖は心細さを感じながら、見慣れない通路を歩いていた。
――まさか、学園内で迷子になるなんて。
やみくもに走った結果、辿り着いた場所はどうやら中学校舎の裏手側のようだった。
凪浜学院は、都内の狭い敷地内に収まるよう建てられており、その構造は複雑に入り組んでいる。
まだ入学して間もない架暖には、高校校舎までの最短経路を知る由もなかった。
来た道を戻ることのないよう、敷地の縁に沿って校舎裏を進んでゆく。
「……あれ?」
ふと視界の片隅に人影が映って、架暖は足を止める。
それは、見覚えのある少女の立ち姿だった。
肩に届きそうな非対称の黒髪。切れ長の鋭い目。雪のように白い肌。
汐崎颯。架暖のクラスメイトだ。
――どうして彼女が、こんな所に?
高校入学組の彼女が、中学校舎裏に何の用事があるんだろう?
架暖の中で小さな疑問が芽生える。
颯は夢中で、校舎裏の一角を覗き込んでいるようだった。
瞬きも惜しむくらい真剣に、熱い視線を向け続けている。
架暖は声をかけようとして、まだ目が腫れているかもしれないと思い留まる。
しかしながら、底なしの好奇心を抑えられるのは一瞬で。
結局、架暖の足は自然と、颯の方へ向かっていた。
「ねぇ、汐崎さん……だよね?」
「――――っ!」
颯は突然名前を呼ばれ、静電気に触れたみたいにビクリと身を震わせた。
流れるように振り返って、架暖と向き合う颯。
その瞳からは、つい先ほどまであった熱は消え失せ、冷たい色だけが沈殿しているようで。
初めて架暖が教室で見かけた時と同じ、クールでドライな汐崎颯が、そこに立っていた。
「なに見てるの?」
架暖の純粋な問いかけに、颯は一瞬喉を鳴らした後、一言だけ呟いた。
「――リバースカスケード」
「り、りば……かすたぁど?」
聞き慣れない単語に首を傾げる架暖。
「………はぁ」
颯は小さく溜め息を吐くと、それ以上何も言うことなく、その場から早足で立ち去っていった。
「なんだったの……」
行き場をなくしたモヤモヤだけが取り残される。
一度芽生えた好奇心を放っておくなんてこと、架暖にできるはずもなく。
先ほどまで颯がいた場所に立つと、物陰から奥の様子を覗き込んだ。
颯を夢中にさせるほどの「何か」に、期待を膨らませて。
――舞い上がる桜吹雪。
その向こうに、架暖はキラメキを観た。
ひとりの女子生徒が陽光に包まれている。
スタイルの良い体躯。儚げな瞳。
編み込まれた栗色の髪は、解けば背中まで届きそうだ。
彼女はしきりに両手を動かし、ボールを空高く投げ上げている。
それも1個ではない。ひとつ、ふたつ、みっつ、よっつ……いつつ。
驚くことに、5個のボールを同時に操っている。
架暖は自慢の動体視力で、それらの軌道を追った。
右手から左手へ、左手から右手へ。規則正しく同じ高さで投げ続けているようだ。
幼い頃に観たサーカスで、ピエロが披露していた曲芸。
その記憶と目の前の現実が、架暖の中で一本の線で結び付く。
――ジャグリング。まさか、こんな場所でお目にかかれるなんて。
誰かのためのステージではない、飾り気を感じさせないトスの繰り返し。
しかし、そんな彼女の真っ直ぐな姿が、架暖の瞳にはとても眩しく映るのだった。
――なんて綺麗なんだろう、と思わず唇から声がこぼれる。
春の日差しを反射しながら軽やかに舞うボールたち。
彼女の周りだけ光が踊っているような、奇妙な感覚に包まれる。
世界がゆっくりと視えるのは、逸る心臓が熱を帯び始めたからだろうか。
架暖は我を忘れて、目の前の非現実的な光景に溺れていた。
――彼女と、目が合うまでは。