1-1 眠れる子猫
「おーい、架暖。架暖ってば!」
不意に、架暖の耳元で大きな声がする。
「ほら、起きなさい。もう授業終わったわよ」
「う、うにゅ…………?」
本城架暖がノソノソと腕枕から顔を上げると、目の前には藤沼友香里の呆れ顔があった。
「いま、何時……?」
「時計くらい自分で見なさいって」
架暖は寝ぼけ眼を擦り、教室の壁に掛けられた時計を見遣る。
時刻は15時を回っていた。6時間目の授業は、知らぬ間に終わってしまっていたらしい。
――でも下校するには、まだ早いな。
架暖はそう判断すると、再び腕枕の上に顔を沈めた。
「もうちょっとだけ……ムニャムニャ」
「ちょっと! 二度寝する気!?」
友香里は力いっぱい架暖の肩を揺さぶった。
「入学式から1週間。見て見ぬふりをしてたけど、もう我慢の限界だわ!」
「寝る子は育つんだよぉ。成長のジャマしないでよ〜」
「いいえ、今の架暖は成長どころか停滞の真っ最中よ」
「停滞期……? あたしダイエットはしてないよ?」
「それは羨ましい……じゃなくて! 私のよく知る本城架暖は、どんなことにも全身全霊、全力投球の挑戦者だったじゃない!」
「うーん、そんな時期もあったかもしれない、ような気がする……」
「それが今は何? 野生を忘れた猫みたいにフニャフニャして……。本当にどうしちゃったのよ?」
「燃え尽き症候群ってやつ? 受験で全エネルギーを使い果たしたから、今は充電期間なの」
架暖と友香里はこの春、同じ中学から私立凪浜女子学院の高等部に入学した。
凪浜学院は都内で名の通った進学校で、その歴史は創立24年と比較的新しい。
昔ながらのお嬢様学校という雰囲気ではなく、生徒の自主性を重んじる自由な校風で知られている。
中学時代にクラスメイトだったふたりが、高校のクラスまで一緒になったのは、実はそう驚くことではない。
高校1年の全6クラスのうち、4組までが内部進学組、残りの2クラスが高校入学組と別れているからだ。
内部進学組は中学の間に先取り学習をしているため、高校入学組は1年間かけて別カリキュラムで追いつく必要がある。
そのため高校入学組のふたりが同じ1年5組になれたのは、ちょうどコインで表が出るくらいに自然な結果なのだ。
それよりも、狭き門である高校受験の枠に、ふたり揃って合格したことの方が何倍も運命的といえる。
「まあ……受験は確かに大変だったわね。特にあんたはC判定からのスタートで、よくやったと思うわ」
「ふへへ…………。もっと褒めていいよ」
「でもね! あれだけ頑張って掴み取った夢の高校生活を、どうして満喫しないワケ?」
信じられない、とでもいうようにヒンヤリとした眼差しを向ける友香里。
「高校でやろうと思ってたこと、何かないの?」
「うーん、特には……」
「なら、どうして凪浜受けたのよ。架暖の家からだと電車で結構かかるでしょうに」
「それは……友香里の第一志望だったから。一緒の高校、行きたかったんだもん」
「は!? 何それ、初耳なんですけど!?」
「あれ、言ってなかったっけ」
「……ほんと、妙なところで思い切りいいんだから」
友香里は溜息を吐きながら、右頬を指先で掻いた。
「とにかく! このままではマズいって、危機感を持ったほうがいいわ。勧誘期間を寝て過ごしていたら、帰宅部まっしぐらよ!」
「うーん。部活、かぁ…………」
歯切れの悪い返事をする架暖に対して、申し訳なさそうに俯く友香里。
そんな友香里の姿を見て、慌てて架暖は質問を返す。
「友香里はハンドボール、続けるんだよね」
「え、えぇ。このあと体験入部に行ってくるわ」
「友香里の豪速球なら、高校でも活躍すること間違いなしだよ! あたしが保証する」
「……あ、ありがとう」
急に褒められたので、友香里は目をパチクリさせて頬を赤らめた。
「じゃあ私、もう行くわよ。二度寝はダメだからね!」
「は〜い」
小走りに教室を後にする友香里。
足音が遠くなり、残響も聞こえなくなった頃。
架暖はひとり、寂しげに微笑んだ。
「……あたしの分まで、頑張って」