第八話 夏の終わりに日は翳る
合評会が終わって二週間ほど経った、夏休みのある日。俺は職員室までの道のりを辿っていた。
家だとなんだかんだ気が散って集中できない。部室だと誰もいないだろし、静かで良さそうだ。
「失礼します」
入口で声をかけて中へ入る。室内にいた先生はまばらだった。俺は自分の担任である安藤先生が机についていることを確認して、歩き出した。
「先生、おはようございます」
パソコンに向かっていた先生に声をかけると、先生は顔を上げて「おぉ、一ノ瀬か」と声を上げた。
「部室の鍵を借りたいんですが」
「文芸部室のか? それならさっき橋口が来て持って行ったぞ」
「えっ」
先生の回答に俺は思わず声を上げた。てっきり誰も来ていないと思ったのに。
「分かりました、ありがとうございます」
俺が先生に一礼すると、「あんまり根詰めるなよ~」と頭上で先生の声がした。
「おはようございます」
部室についてドアをゆっくり開けると、奥の席で橋口先輩が一人机に向かっていた。
「お疲れー」
橋口先輩はこちらを見ずにそう口にすると、シャーペンをノートに走らせた。
俺が扉を閉めて鞄を机の上に置くと、ようやく橋口先輩は俺の方を見た。
「あれ、一ノ瀬くん? ごめんね、沙織かと思ったんだ」
「大丈夫です。柳井部長も今日来てるんですか?」
「うん、今補習してるけどね」
「補習……。なんか部長よく補習とか先生から呼び出しされてますね」
橋口先輩は俺の言葉に肩をすくめて答えた。
「沙織、課題とか結構サボるからね」
「なるほど……」
なんとなく目に浮かぶ。
「でも橋口先輩一人っていうのも珍しいですね。大沢先輩とかはどうされたんですか」?」
「家の用事があるんだって。他の人は知らないけど……。元々自由参加の日だしね」
確かに、と俺は頷いた。棚から自分のノートを取り出して脇に置いておき、鞄の中から夏休みの課題を引っ張り出す。橋口先輩の方を見ると、ノートの他にこの間の合評会の部誌も広げていた。
「……どうかしたの?」
知らず知らずの内に先輩の方を凝視していたのだろう。先輩が不思議そうな顔をして尋ねた。
「いや、てっきり課題かと思ってたので、何をされてるのかと気になって……」
「あぁそういうこと。この間の合評会の意見を纏めてたの」
「そうなんですか」
真面目だなぁ。
そんなことを思いながらも、しばらくの間それぞれの作業に集中する。
もうすぐ一区切りつく、といったタイミングで橋口先輩がふと口を開いた。
「そういえば一ノ瀬くん、合評会はどうだった?」
その言葉に俺はうっと言葉を詰まらせた。
「なかなか鋭い意見が多くてとても参考になりました……」
言葉とは裏腹な気弱な声音に、橋口先輩は苦笑した。
「まぁ色んな意見を取り入れるのは今後の作品作りに役に立つと思うよ」
橋口先輩はそう言うと再びノートに視線を落とした。こっそり部誌の中を覗くと、俺のとは比べ物にならないくらい色々なことが書き込まれていた。
俺もまだまだだな……。
帰ったらもう一度あの時の部誌を見直してみよう。
そう心の中で決めて再び課題の設問に向かう。ここの公式はなんだっけ……。
そんなことを考えている内、橋口先輩は部誌をパラパラとめくって何かを考えている様子だった。
そしてあるページを開くと手を止めてじっと部誌を見つめた。
「ねぇ、一ノ瀬くん」
そして、穏やかな声音で俺を呼ぶ。
そのいつもとなんだか違う雰囲気の先輩に、俺も思わず手を止めて先輩の方を見た。至って真剣な目で真っすぐ俺の目を見ている。
「ど、どうかしましたか……?」
先輩の気魄に若干押されつつもそう尋ねた。
「あの時……合評会の最後に聞かれたこと、心には色んな感情があるのに、何故暗い部分に焦点を当てたのかっていう質問。あの時様子がおかしかったけど、なにかあったの?」
「——っ」
橋口先輩の言葉に俺は返すことが出来なかった。この間の合評会の時もそうだったが、何か触れてはいけないことを思い出してしまいそうになるのだ。
「……」
橋口先輩は変わらず真っすぐ俺の目を見ている。またも俺の背中を冷や汗が伝い落ちて気持ち悪い。
「……っ」
何か言わなければ。必死に頭の中で言葉を探していると入口のドアが開かれた。
「いやぁごめんごめん、遅くなって。思ったよりも補習時間かかっちゃってさ」
扉の向こうから部長の呑気な声が聞こえてきて、俺は内心ほっとした。橋口先輩の方を見ると、表情を変えずに部長の方を見ている。
「……あれ? どしたの、この空気。なんか邪魔しちゃった?」
俺たちの間に流れる空気に違和感を抱いたのか、俺と橋口先輩を交互に見ながら言った。
「……ううん、なんでもないよ。大丈夫」
「そう。ならいいんだけど」
部長はそういうと、棚のノートに手を伸ばした。
それからは補習の様子など、他愛もないことで二人の話は盛り上がっている。俺は未だ早鐘を打つ心臓を落ち着かせたいと思い、財布を手にして立ち上がった。
「ちょっと、ジュース買ってきます」
「はい、行ってらっしゃい」
先輩たちの声に見送られて、俺は部室を後にした。
まだまだ日差しは強く、残暑は続きそうだった。




