端と隅
「あなたの話を聞かせて?」 彼がたった一人でさまよい続けた旅路を私が話を聞くことで、一歩でも近く寄り添いたかった。
「うん、話すよ、今までのこと。話して僕の今までを君にあげるよ」
「ううん、今までだけじゃなくて。これからの、未来のあなたも私にちょうだい」 彼女はそう言って、彼に抱き着く。彼はその彼女をしっかりと受け止める。
──そして、僕はそれを遠くから眺めていた。
「おめでとう。しっかりと見届けさせてもらったよ、君らの物語を」 僕はその場から目を背け、離れる。別れの言葉は少し前の場面で既に告げていた。これ以上、いても仕方ないだろう。
しっかし、普通の恋愛小説だったなあ。まあ、たまにはこんなのもいいか……。いや、そういうのばかり最近は読んでいるような気さえする。まあ、どうでもいいか。
とにかく彼らはやり遂げたのだ。大変な人生の一幕を乗り越えて、無事に結ばれたのだ。今はそれを祝福し、僕はあとがきを読み、ふ~ん、と思い、この本を閉じるに限るさ。
この本を手に取って頂き、ありがとうございました。
──ふう、僕は刊行日と、何版何刷かを確認すると本当に本を閉じた。いい話だったな、だけどそれだけだ。もちろん、語り手である彼女の置かれた家庭環境は酷いものだったし、何より彼女の頬に目立つ火傷跡があるという設定は本人にとって苦痛そのものだったろう。でも、そんな奴らいっぱいいる。ありふれた設定であり、目を張るものではないと僕は感じた。僕は酷い人間だ……。
さて、次はどこに行こうか? 最近はこういうのばかり読んでいる気がする、と先程思ったばかりだが、この本を取る前は純文学の小説を読んでいたのだった。分厚くはないが、段落替えがあまりされていない、ビッシリと文字が並んだ小説だった。でも、その著者独特の言い回し、表現の仕方は、とても丁寧且つ目の付け所に意表を突かれた物語だった。
ただ、登場人物たちに接触を試みようとは思わなかった。文字を追い、物語に浸りながらも端で行く末を見守った。大衆文学ならともかく純文学の登場人物たちに関わるとややこしくなる。もちろん、例外はあるが。
僕は室内を見回す。買って読んでいなかった本は大分少なくなった。ここ最近は読書ばかりしているからなあ。
ん? 僕は平積みにされた本の中からある一冊に目が留まる。それは大分前に買ったエロ漫画だった。普段はエロ漫画を買わない僕だが、この一冊は表紙の絵に一目ぼれして買ったのだった。
日の当たらない、日影の路地でこっちを振り返るように見る一人の少女。彼女は黒縁の眼鏡をかけ、赤のジャージに赤のショートパンツという出で立ちだ。髪は黒髪ショートヘアで柔らかそうだ。ボーイッシュでもある。少女と僕は言ったが、十九か、十八、いや、二十歳を越えているのかもしれない。
この子がセックスするのだろうか? まあ、エロ漫画だからするのだろう。じゃあ、いったい誰とするのだろうか。かわいい子だから、彼氏とするのかしら。年下年上? 何となく、雰囲気からか年上好きの様な気もする。
気になる……。なら、読めばいい。次の僕の旅も無事決まった。僕はビニール包装を解き、表紙を一瞥してから、ページを捲った。
漫画は短編集だった。全7話で構成されており、各内容に繋がりはない。僕は物語の中をゆっくりと闊歩し始める。
物語に起承転結はなかった。いや、セックスの始終が起承転結を表しているのかもしれない。そんな風に思った。あまり時系列というものを意識せず読める。物語はいずれも短い一場面を切り取ったようなものだった。
だけど、その一場面には色んな感情が込められている。遊び心、欲望、やるせなさ、愛、?、青春、生きづらさ……。
表紙の少女が登場したのは5話目だった。表紙と同じ赤ジャージに赤のショートパンツ。違ったのはリュックを背負っていることと立派なヘッドフォンを身につけていること。
夜、狭い路地で少女は佇み、ヘッドフォンで音楽を聴いている。何を聴いているかはわからない。描かれていないからだ。きっと、少女にはティナ・ターナーやジャニス・ジョプリンよりもニーナ・シモンが似合う。なんとなくそう感じた。
やがて少女は挙動不審な少年に話しかけられる。二人は約束をしていたらしい。やはり彼氏か、と思ったがどうもおかしい。物語の端で話を聞いていればどうやら、二人はSNSで知り合ったらしい。
「お兄さん、ちゃんとお風呂入ってきた?」 少女は少年に話しかける。少年はあせなく返事をし、チラチラと少女に視線を送る。少女は少年の口内も確認した後、少年の家へと移動する。僕は後ろをついて行く。
少女は少年のことを「お兄さん」と呼んでいるが、僕には少年にしか思えない。それだけ僕が歳を取ったということか。まだ二十代前半なのだけどな、と僕は少し落ち込む。
少年の家で少女はお金を受け取り、「んっ、確かに。時間は一時間半ね」と確認をする。タイマーはセットされ、カウントダウンが始まり、少女は「はい、どうぞっ」と手を広げる。
だけど、少年は手を出せない。少年の事情を察した少女は優しく、少年に何をすべきか、一つ一つ教えていくのだ。少年が果てそうになると少女は絶妙なタイミングで静止し、少年が落ち着くまでそっとその身体を抱きしめてあげていた。ぎこちないその行為はやがて少年が果てることで終わりを迎える。少女はすました顔で「気持ち良かった……?」と訊ねるのだった。そして少女はその場を去っていく。最後の場面に少女はいない。読者の僕よりも先に物語を去ったか……。
後味は決して悪くない。でもなぜか、こう、心に引っかかるものがある。優しくも寂しいピアノの音色にそっくりだと僕は思った。
この物語をなんと言ったらいいか、なんと例えたらいいか、僕にはわからなかった。
僕は物語の冒頭へと戻る。少女の真意が知りたかったのかもしれない。そんなのお金を貰っているのだから、ただの売春だろう。そう考えられるかもしれない。お金を貰っているから、少女は少年に愛想よくしてあげた、所謂営業スマイルだ。
だけど、なぜか僕にはそれだけじゃないような気がしていた。
冒頭へと戻って来ると少女は少年を待って、暗い路地で佇みヘッドフォンで音楽を聴いている。ここじゃない。ここで接触を試みても少女は勘違いをするだけだ。やがて少年が現れ、二人は移動を始める。僕は再び後ろをついて行く。
少年の家に入り、恐らく少年の部屋であろう場所で少女はお金を受け取る。何となくだが、今だと思った。
「やあ」 僕は物語の端から顔を出し、二人に呼びかける。二人は驚いた顔をしていた。
「えっと、おうちの人?」 少女は僕を指差し、少年に訊ねる。
「し、知らないよっ! だ、誰だよ。勝手に家に入って来て。そ、そうだ、警察」 少年は今の自分の状況を忘れているのか、大きな声を上げる。
「無駄だよ。僕はただの読者だからね。安心して、何もしないから……。僕はただ、あなたに聞きたいことがあったんだ」 僕は少女に視線を投げかけつつ、そう言った。
「わたし?」 少女は自身を指差し、すました顔を僕に向けた。
「そう」
「なんかわからないことだらけだけど、さっき読者って言った?」
「言いました」
「わたし、物語の中の人間ってこと?」
「まあ、そうなるね。でも、物語だろうが、現実だろうが、そう変わりはない。人は皆、物語の中で生きているようなものだからね」
「そう、かも……」 僕の説明を聞いた少女は全てを鵜呑みには出来ないが、少しは納得したようだった。
「今、部屋の端から現れたし……、少し変わった人だってことはわかる」
「端くれです。そう呼んでください」
「わかった」
少女は名乗らなかった。最初に物語を通しで読んだ際に気づいていたが、少女は最初から最後まで名前を名乗ってはいないのだ。つまり、そもそも名前の概念が少女にはない。
そのやり取りを少年は意味がわからないと言った表情で聞いていた。少しかわいそうだ。
「君、安心してくれ。読者はあくまで読者だ。物語に何ら害をもたらすことは出来ない。読者がもし、物語に害をもたらすことがあったなら、それはもはや、似たなにかにすぎない。わかりやすく言えば、二次創作だ。その場合、害とは言えないかもしれないけどね……」 僕は必至で少年に説明をする。だけど、少年はそれどころじゃなさそうだ。当たり前と言えば、当たり前なのだが。
「まあ、とにかく僕がここで何をしようと、君は君の目的を果たすことが出来るってことだよ。僕は最後まで物語を読んできた。だからそれは保証できる」
「ねえ、物語を最後まで読んできたって、わたしと、このお兄さんのセックスを端くれさんは見てきたってこと?」 黙っていた少女が口を開いた。
「そう、いうことになるね」
「そう……。一瞬、わたしたちのセックスを観賞するのならあなたにもお金を払ってもらおうと思ったけど。端くれさんはお金を払ってわたしたちの物語を買ったってことになる。じゃあ、お金は貰わない。楽しみ方は人それぞれだけど、あなたって特殊」
「かもね……」 少女は理解が早かった。読者として、特に登場人物に接触を図ろうとするものにとってそれは大いに助かることだった。
「それで? わたしに聞きたいことって」
「なんて言ったらいいだろう……。まあ、なんだ。あなたはなぜ、そんなことをするのかなって?」 駄目だ、これは僕の聞きたいことじゃない。質問の仕方が間違っている。
「そんなこと、か……。生きるため。他には? もうおしまい?」 少女は少し、がっかりした様子でそう言った。
「そんな答えが聞きたいわけじゃないんだ。何と言うか、実は、僕は物書きの端くれ、なんだ。だけど、最近、全然書けなくてね。どうしたものか、と思ってたんだ。そこにたまたま読んだエロ漫画にあなたがいた。こんなヒロインいいなって思ったんだ。でも、残念ながら僕にはあなたが何を考えているか、わからなかった。だから、ここに来た」
「そっか、わたしエロ漫画の登場人物なんだ。って言うか、端くれさんって小説家なんだ。小説家もエロ漫画なんて読むんだね」
「違うね。あくまで物書きの端くれ、だよ。だから端くれ。まあ、たまに読むね。官能小説なら川上宗薫が好きだけど……」
「よくわからないけど。言いたいことはわかった。あなたはわたしの容姿に惹かれたってこと。このお兄さんみたいにわたしとセックスしたいって思ったってこと。端くれさんは美化して言い訳しているだけ。そうとは思わない?」
「否定はできない。でもそれだけのために、僕はここには来ない」 本心だった。どうか、この気持ちが少女に伝わってくれることを僕は祈った。
「なるほど、わかったよ。でも、端くれさんの質問には答えられない。わたしはやっぱり、生きるためにこういうことをしている。街の隅でもいい。生きていくために……」
「隅、か……」 これが少女の本心なのかもしれない。いや、僕が読み取れない何かがまだあるのかもしれない。なぜ、ここまで魅力的な少女を生み出せるのか。何が魅力の根源なのか、それが僕は知りたかったのだ。
「そう。あなたは端、わたしは隅……。似ているけどまったく違う場所。そこでわたしたちは息をしている。なぜか? そこでしか生きられないから。海と川に似ているね。淡水魚と海水魚、なんだよ」
「その意見には賛同するよ。でも、異例はある。サケやアユ、スズキなんかのね、どっちでも生きていける、両側回遊の魚」
「そうね。そういう人たちはわたしたちと違って生き方が上手いの。わたしたちには到底真似できない」 少女のすました顔が少しだけ崩れたように僕は感じた。少しは歩み寄れたのだろうか。
「知りたいことは知れた?」
「まあ、だいたい……。これで小説が書けるか、どうかはわからないけれど」
「じゃあ、端くれさんに一つ課題。せっかくわたしに話を聞きに来たんだから、このことを小説にして。書いてもわたしは読まないけど……」
「──わかった。頭がおかしくなる小説になりそうだ。誰が読んでも理解出来なさそうな……」 僕は困惑しつつ、了承した。物語の登場人物に接触を試みるのは僕の読書の楽しみの一つだ。だけど、そのことを小説にしようと思ったことは今までになかった。そんなことをしても、果たしてそれが小説と言えるのか、わからないからだ。
「いいと思う。読書感想文だと思って書けば?」
「そうするよ。じゃあ、僕はもう行くよ。色々とありがとう」
「いいえ、わたしは何もしていない」 少女は首を傾げ、僕に向かって手を振った。バイバイ、か。遠慮気味に僕も降り返す。
「君も邪魔したね。時間をくれてありがとう。じゃ、楽しい時を」 少年は最後の最後まで意味がわからない、といった表情のままだった。僕は物語の端に戻った。
──ふう。僕は本から顔をあげる。そしてそっと本を閉じた。会いたくなったらまた、会いにいけばいい。ページを捲ればいつでも登場人物たちには会うことが出来る。でも、そこに読者に対する記憶はない。読んでから数年が経過し、再度物語に浸った時、読者もまた抱く気持ちは異なる、かもしれないのだ。
僕は本を傍に置く。
「まあ、約束だからな」
僕は気が進まないままに筆を取った……。