序章
……詰んだ。
壁際に追い詰められた私は、裏切った男を睨みながら唇を噛み締めた。
いや、彼は私を裏切ったのではない。はなから味方ではなかったのだ。
つまり、私がまんまと騙されただけのこと。
何のことはない。
正体が露見したスパイに待っているのは、拷問の末の死のみ。
そんな気は微塵もないが、もしも私が祖国の情報を洗い浚い吐き出したとしても、拷問を回避できる訳ではない。
どんな拷問にも耐える自信はある。そういう訓練は一通り受けている。
しかし、奴らが拷問の末に私を殺すのが決まっているのならば、あえて死の前に苦痛を受ける必要はない。
私は隠し持っていたナイフを、己の左胸に突き立てた。
祖国の情報の、ほんの一端も、貴様らになどやらん。
驚いた顔で私を見つめる目の前の男に、私は中指を立てた。
☆ ☆ ☆
そんな記憶が、がっつりと頭にこびりついた状態で、私は再びこの世に生を受けた。
今の私の名は、レティア・フリートウッド。
テスタロッサ王国のフリートウッド公爵家の長女で、今現在十七歳。
このテスタロッサ王国の隣には、冷戦状態にあるガヤルド王国がある。
今の私になる前、つまり前世での私は、そのガヤルド王国の国王直属組織ムルシエラゴの諜報員だった。
このテスタロッサ王国の内情を探るため、ステラ・カプリスという偽名で王城のメイドとして潜入していたのだが、貴重な情報源として正体を隠して近付いたシルバラード公爵家の長男ルドルフに正体を見破られてしまい、祖国の情報を守るために自害したのだ。
それが、今から十七年前の話。
どうやら私は死んですぐに転生したらしく、当時十七歳だったルドルフは、現在三十四歳となり、家督を継いで公爵を名乗っている。
十七年間、冷戦状態は変化がない。
同時に、水面下でテスタロッサ王国がガヤルド王国を侵略しようとしている状況も変わりない。
武力自体はガヤルドの方が僅かに上だ。しかし、戦争となると地形や食料など、様々な要因で勝敗が決まる。
正面から戦争を仕掛けると分が悪いテスタロッサは、機を伺っているのだ。
特に、今代のテスタロッサ国王に代替わりしてから、ガヤルド侵略の動きが顕著になってきている。
戦争だけは回避せねばならない。
冷戦状態になる前、両国は長く戦争していた。
それにより民は疲弊し、このままでは共倒れになると判断し、先代国王の代である三十年前に停戦を宣言することになったのだ。
前世の私は、戦争時代も経験している。
庶民だったため、幼い頃から食べる物に困る毎日。
父は戦場に駆り出されて死に、母は農作業で働き詰め、やがて病気になり薬が手に入らず呆気なく死んだ。
十五歳にして天涯孤独となった私は、半ばヤケクソで戦場に出る事を志願した。
そこで私は、天賦の才を発揮する事になる。
それまで気付かず生きてきていたが、実は身体能力と判断能力に長けており、敵の隊にするりと忍び込み、将軍を討ち取るまでになったのだ。
そして、国王直属組織ムルシエラゴの隊長の目に留まり、スカウトされた。丁度その頃、停戦条約が締結され、冷戦状態になったのだ。
諜報員としての訓練を一通り受けた私は、テスタロッサ王国の王城にメイドとして潜り込む事に成功した。あとは先述の通りだ。
ちなみに、フリートウッド公爵家とシルバラード公爵家は、共にテスタロッサ王国内の三大公爵家として名を連ねている名家だ。
この身分があればこの国の諜報などし放題なのだが、今の私はムルシエラゴの諜報員ではない。
それでも、私が戦争を望まない気持ちは変わらない。
今の公爵令嬢という立場であれば、仮に戦争が始まっても、テスタロッサが負けない限り私が食べる物に困る事はないだろう。
しかし、両国の民は間違いなく飢えるようになっていく。そんな光景は、二度と見たくない。
今の私の立場上、できる事は限られているが、私は私なりに、戦争回避のために動かねばならない。
それが、レティア・フリートウッドとして生を受けた私に課せられた使命なのだ。
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