【コミカライズ】パン無双令嬢!?~恋、焼きあがりました~
「ふん! ふん! パン生地さん、いい感じに育ってきたわね。でも、まだまだよ。もっと粘りなさい、ふん!」
青い瞳に栗毛のポニーテールを揺らす十六歳の伯爵令嬢――クロエ・グレヴィは自身が通う学園の厨房でパンを捏ねていた。
生地はもっちりと強く粘り、ほのかに発酵の香りを漂わせている。
働かざる者、食うべからず――という信念のもと、この国では貴族の令息令嬢であっても手に職を持つのが当たり前。
クロエの生家であるグレヴィ家は異世界より召喚された聖女を祖先に持ち、聖女は異世界のパン職人だった。
クロエが住むこの国の伝統的なパンの皮は鎧のようにバリっとしていて、全体に歯ごたえのある硬めのパンが主流。長期保存に向いているが、スープや飲み物がないと飲み込めない種類が多い。
一方で異世界のパンは日持ちはしないが、ふわふわで甘みがある種類が多い。アレンジの幅も豊富。聖女が持ち込んだ発酵技術のお陰だ。
あまりの美味しさに感動した国王が、グレヴィ家に異世界パンの味を守ることを厳命するほどの至宝の食べ物が異世界パン。
聖女のひ孫であるクロエは伝承者のひとりとして、今日もパン職人としての腕を磨いていた。
すると厨房に望んでいない客がやってきた。
「クロエ、いい加減やめないか!」
怒りの形相で開口一番責め立てたのは、侯爵家の跡継ぎセルジュ・ブラトン。政略的に結ばれた、クロエの婚約者だ。金髪碧眼で、容姿はそれなりに良い方だ。
しかしクロエは、興味なさげな視線を向けた、
「あら、セルジュ様。パンはもっと捏ねないといけませんのよ? やめるわけにはいけませんわ」
「違う! 彼女への嫌がらせだ」
セルジュは、隣にいる可憐な女生徒の肩を抱いて訴えた。
女生徒は男爵令嬢オデット・カバネル。甘そうなストロベリーブロンドに、緑の瞳、可愛らしい顔、主張された立派な胸を持っている。
現在のセルジュのお気に入りの女の子だったな、と思いながらクロエは「はぁ」と空返事をした。
婚約者いわく、クロエはオデットに対して暴言を吐いたり、練習していた刺繍のハンカチをめちゃくちゃにしたり、階段から突き落とそうとしたり、随分と悪事を重ねたらしい。
もちろんクロエにそんな記憶はなく、コテンと首を傾けた。
「とぼける気か。これほど醜い嫉妬はないぞ!」
「いえ。とぼけても、嫉妬も一切しておりませんが?」
至って真面目です――という表情で返せば、気の短いセルジュの顔は一気に赤くなった。
「お前はまたそうやって、馬鹿にしたような目で俺を見やがって! 可愛い顔だからって許されると思うなよ! その顔で父上に婚約解消できないように頼んでいるくせに」
「いえいえ。婚約解消できずに困っているのはこちらなんですが。仲間ですね」
「お、お前っ……どこまで馬鹿にすれば済むと」
「あら、大変! 早く生地をまとめて濡れ布巾を被せてあげないと乾いてしまうわ」
「聞けぇぇぇえ!」
クロエはセルジュを無視して手早く練っていた生地を綺麗に一塊にまとめて、ふんわりと濡れ布巾を被せた。発酵が終わるまで時間がかかるため、その間にパンの中に入れる具材の準備に取り掛かかる。
今日は農園の管理をする幼馴染の令息から、もぎたてフレッシュな林檎をたくさん分けてもらったので、それを使ったパンを作る予定。
綺麗に皮をむいて、砂糖とレモン汁と一緒に鍋に入れてフィリングを作り、生地で包むのだ。
ふわふわのパン生地から出てくるゴロッとしたフィリングを想像しながら、林檎を手に取った。
「あぁ、爽やかな香り。大きめに切ってシャキシャキ感を残すのが良いかも」
「クロエ、貴様ぁ! 無視するとは……オデットが可哀想だと思わないのか!」
「セルジュ様ぁ~オデットはとても悲しいですわ。ぐすん」
オデットがポロリと涙を流し、ポロリと落ちそうなほど開いた胸元をセルジュの腕に押し付けた。
メロン級のサイズにクロエが感心したそのとき、オーブンがブザーを鳴らして焼き上がりを知らせた。
「フランスパンが焼けたようね。ん~香ばしい匂いがたまらないわね。さすが聖女様のレシピは最強だわ」
クロエはオーブンから異世界パンのひとつ『フランスパン』を取り出し、完璧なふくらみと焼き目を見て恍惚の表情を浮かべた。
オーブンと室温の温度差で、フランスパンの皮はパリパリと音を鳴らし、その身をしめていく。
「おぉ! 良い香りだな。そのパンでフレンチトーストってやつを作ってくれよ。新商品として売り出そうとしている、この桃のソースをたっぷりかけて食べたいんだ」
厨房に追加の来客だ。
艶のある黒髪に太陽の恵みを受けた日焼けした肌、空のように澄んだ水色の瞳のをした幼馴染の令息マティアス・アベラールが、たくさんのジャム瓶を入れたバスケットを抱えて厨房に入ってきた。彼が林檎をくれた農園を管理する伯爵家の跡取り息子だ。
パン造りを家業とするクロエの生家と原料を提供する農園のマティアスの生家の関係は親密で、物心ついたころからの顔なじみ。
マティアス自ら農作業をしているため、腕まくりをした袖からでる腕は逞しい。
そんな彼を見たクロエは表情を明るくさせた。
「素敵じゃない! フレンチトーストと桃のソースなんて、贅沢な組み合わせね。ふふふ、卵液に浸すのに時間がかかるけど良いかしら?」
「いいよ。クロエのことならどんなことでも、いくらでも待てるよ。君のパンは最高だからね」
「嬉しいわ。マティアスが好きな、卵が濃い目で作るわね」
クロエとマティアスは顔を合わせて笑顔を咲かせた。
けれども今、厨房にいるのはふたりだけではない。
「マティアス・アベラール! またお前か。今は僕らがクロエと話しているというのに邪魔するな」
「はぁ!? 先にクロエの邪魔してるのはどちらだったかな?」
笑顔から一転、マティアスはギロリとセルジュを睨んだ。
セルジュはビクッと肩をはねさせるが、オデットの前で格好をつけたくて、何とか体面を保とうとする。
「き、ききき格上である侯爵家の僕を睨むとは、将来後悔するぞ。いいか、僕の父上は――」
「マティアス~余りそうなフランスパン持って帰る?」
「もちろん! ありがとう、クロエ」
「だから貴様らはどうして僕の話を聞かないんだぁぁぁあ! これも全部このパンのせいだ!」
セルジュはついに林檎に負けないほど顔を赤くして、作業台に載せられていた発酵待ちのパン生地を床に叩きつけた。
ふんわりと丸かったはずのパン生地は、スライムのように床に広がって沈黙した。
「私の……パン……可哀想に……」
クロエは慌ててパン生地を拾うが、一度床に落ちたものは使えない。守れなくてごめんね……と謝りながら鉄板に載せていく。
パン生地は、できるなら焼いてから捨てる――『焼き捨て』のが基本。焼いたあとは家畜の餌にしたり、堆肥化してから畑に撒くなど、最後まで面倒をみてパンを供養するのがパン職人というもの。
「やだぁ~汚いわ」
焼き捨てを知らないオデットは食べるために焼くと思ったらしく、蔑んだ眼差しでクロエを見ながら、セルジュの腕にぎゅっと抱き着いた。
「まったくだ。しかし、これでもうパンはない。そろそろ僕の話を聞いてもらおうか」
プツン、とクロエの頭の中で糸が切れる音がした。
ふんと鼻息荒く仁王立ちするセルジュに対して、クロエはニッコリと笑みを向ける。
「えぇ、そうですわね。ところで、オデット様は何人目でしたっけ?」
「何がだ?」
「セルジュ様の恋人です。私の記憶では……九人目か、十人目なのですけれど」
「きちんと付き合ったのは……」
付き合ってないけれど、遊んだ相手はいるらしい。しかも恋人にカウントしないクズぶり。
そんなセルジュは指を折って数えていき、両手をパーにして出した。
「運命の十人目だ。様々なレディたちと出会ってきたが、オデットこそ僕の運命の……真実の愛の相手だ!」
「それは良かったです……わ!」
クロエは鉄板に載せていたパン生地を持ち上げ、力強く鉄板に叩きつけた。そして拳をつくり、捏ねるときよりも激しくパン生地を殴りつけていく。
「ふふふ……来たわ。ようやく来たわ……この日が来たわ!」
クロエとセルジュの婚約は、セルジュの父親である騎士団長ブラトン卿の熱烈な要望――という名の圧力の末に結ばれたものだった。
グレヴィ家の異世界パンのレシピは門外不出で、なおかつ王城に献上するのが精一杯。貴族であっても、簡単に定期購入ができない。予約注文しても、手に入るのは一か月先という人気を誇る。
ブラトン卿は週に一度、騎士の食堂で出される異世界パンの虜になったひとりで、毎日食べたいと思っていた。
そこで「クロエを嫁に取れば、毎日作ってもらえる」と考え付き、実行に移したのだ。
当初からセルジュの浮気性を嫌ったクロエと、父グレヴィ伯爵は縁談を拒否。
それでもブラトン卿は諦めきれず、毎月のようにグレヴィ家に打診をし続けた。それでもグレヴィ家が抵抗し続けるので、ブラトン卿はある条件を提示を提示してみせた。
ひとつ、セルジュの浮気が分かった時点でブラトン卿が破局するように裏で手を回す。
ふたつ、浮気をしないようにセルジュを再教育する。
みっつ、それでももしセルジュが浮気を続け、累計十人になれば婚約は解消。賠償金もクロエに用意する。
グレヴィ伯爵家より格上のブラトン侯爵家が食い下がって、条件をつけると妥協を見せたのだ。ここでグレヴィ家が折れなかったら、何をされるか分からない……そんな気迫があった。
貴族社会で生きていくため、圧力に屈する形で縁談を受け入れることになったが、そう――ついに十人を超えたのだ。
ブラトン卿が、クロエの知らない間にもみ消した件もあり曖昧だったが、今回はセルジュ本人が認めている。
クロエはもう我慢する必要がなくなったのだ。
「ふふふ……おーほほほほほほ!」
高笑いが止まらない。
セルジュとオデットはぎょっとして、クロエを狂気の魔女を見るような視線を向けている。
一方マティアスはジャムの瓶が入っているバスケットを置いて、ニッコリ微笑みながら指の関節を鳴らした。
「クロエ、手伝おうか?」
「まだ不要よ。引導は自分で渡したいの。危なくなったら助けて」
「承知」
マティアスが拳を下げたことを確認し、クロエは小麦粉が入ったボウルを掴みながら、セルジュを見据えた。
青い瞳の奥に憤怒の炎を宿す。
「これまでの私の恨みとパンの無念……晴らさせてもらうわ」
そう言ってクロエは、小麦粉を投げつけるようにセルジュにふりかけた。
白い粉がバフっと舞う。
「きゃあ~ゴホゴホ、げふ、おぇ」
「ゴホッ! 貴様ぁ、僕とオデットになんてことを」
真っ白になったセルジュは怒りのまま拳を振り上げる。女にかまけて訓練をさぼっていた彼は細身だが、一応騎士見習い。
普通の令嬢なら力の差を前に怯むが、クロエはあえて踏み込んだ。
パン生地が乗った鉄板を盾に、セルジュの拳を受け止める。
セルジュの拳はパン生地に沈み、衝撃は吸収された。それどころかパン生地が拳に纏わりついて、二度目の攻撃まで封じられてしまう。
「守ってくれてありがとう! 私のパン生地」
「くそっ」
「本当は酵母を使いたいけれど、発酵にかける時間は、あなたには勿体ないわ」
次に時短の救世主ベーキングパウダーを振りかけ、間髪入れずにボウルに入っていた水も浴びせる。
セルジュの顔は粉類と水でねちょねちょになってしまい、目を開けることができない。
「汚いぞ!」
「それは私の手段が? それともセルジュ様のお顔?」
懸命に袖で顔を拭くセルジュの懐に更に踏み込んだクロエは、思い切り腰を捻り、拳を彼の腹にのめり込ませた。
「ふん!」
「ぐぁ! ご、ごほっ! クロエ、こんなことしても良いと思ってるの、か!」
力いっぱい殴ったが、それでも騎士候補生。まだ倒れてくれない。クロエは絶え間なくパンチを繰り出すことにした。
「もちろんよ、ふん。国王陛下にセルジュ様のせいでパン作りに集中できないと、ふん! 相談したら、ふん!」
「うぐっ」
「これまで我慢した分、ふんふん!」
「くぅっ」
「婚約解消の条件が揃えば、復讐しても良いって許可が出ているんだもの。ふん! ふんぬぅ!」
セルジュは顔を腕でガードするのが精一杯で、反撃に出られない。
「なん、だこのパンチの、重さっ、と速さはっ! 女の拳じゃ、ねぇ……っ!」
「当たり前じゃない。毎日パンを捏ねているのよ! ふん、ふん! いつもはパン生地に私のストレートを受け止めてもらっているけれどぉっ、今日はあなたに駄目にされたからぁっ、責任取って代わりになってぇっ、もらうわよぉ、ふぅん!」
むしろ普段はパン生地が傷まないように加減していたが、騎士候補で復讐の相手なら加減は不要。積年の恨みをぶつけていく。
「僕は……パン生地……扱い、か――」
ついにセルジュは耐えきれず、床に膝をついて腹を抱えるように丸まってしまった。体を丸め、息も絶え絶えで震えている。
丸めたパン生地は寝かすのが基本。クロエは近場にあった雑巾をセルジュの頭に放り投げた。
「その粘りとコシのなさはパン生地以下よ――さて、次はあなたね♡」
標的を、セルジュの後ろで腰を抜かしているオデットに移す。
「あなたのご立派な胸を見ていると、メロンパンが作りたくなってきたわ。メロンパンって知ってる? 格子状に焼き目がついてるんだけど……あなたのメロンもそうしたら、もっと美味しく見えると思うの」
「ひっ」
オデットは慌てて立ち上がり、逃げようとする。
けれどもクロエがオデットの足元目掛けてパン生地を投擲。見事ヒットし、踏みつけたオデットはヒールを滑らせて転倒した。
「痛い……や、やめて」
「えー、感謝してくれませんの? あなたへの嫌がらせの話、嘘から実話にしてあげようと思ったのに」
ただオデットがセルジュと乳繰り合うだけなら、浮婚約解消の条件が揃うだけだから歓迎できたが、冤罪は見逃せない。
「ク、ロエ……オデットの言うことが嘘だと言うのか……ちょうど二週間前の放課後、二階から彼女に水をかけてきたというのは」
腹を押さえながらセルジュは、雑巾を頭に載せたままクロエを見上げた。
クロエはエプロンから手帳を出して、パッと開く。
「その日もここの厨房でパンを焼いてましたわ。使用状況は管理人に聞けば証明できます」
「くっ……なら、一週間前の昼休みの時間、オデットの刺繍の作品をズタズタにしたのは?」
「その日は学園をお休みして、王城でパンを焼いていましたわ。陛下に頼まれたことですので、どうぞ陛下にご確認を」
「では昨日、朝一の人の少ないときを狙って、階段から突き落とそうとした話は――」
「昨日の朝はパンの開発に夢中になりすぎて、遅刻しましたの。門番と先生に確認したら良いですわね」
クロエには嫌がらせをする時間などない。結婚したくない相手が、着々と勝手に浮気して婚約解消の条件を整えているのだ。
むしろ応援していたくらいで、邪魔なんてしない。パンを焼いて待つのが一番。
「ということで、オデット様は本当に嫌がらせをされたかもしれませんが、無実の私に罪を着せようとしたのは事実。セルジュ様はパン生地でしたから……オデット様はパン生地に重ねる、メロンパンのクッキー生地にでもしましょうか」
クロエはメロンパンに模様をつけるときに使う、鉄製のラティッシュカッターを両手に持って、クロエの胸元を見下ろした。
押し付けられたら絶対に痛いやつだ。
「ご、ごめんなさい! もうしません!」
「嘘を告げた相手はセルジュ様だけ? 吹聴したりは――」
「してません! 騙したのはセルジュ様だけです!」
オデットの告白に、セルジュはショックを受けたような表情を浮かべた。
クロエはふんと鼻を鳴らす。
「なら今回は見逃すわ。でも次、なにか私の邪魔をしたら……そのメロン、カットしてあげる♡」
「は、はぃぃぃい! ごめんなさい!」
「オデットォォォオ」
オデットはたまらず逃げ出した。
それをセルジュが白いドロドロの姿のまま追いかける。
「セルジュ様からも、きちんとブラトン卿に報告してくださいねー!」
ふたりの背に向かって、クロエは一応念を押しておく。
そうして、ふぅと一息つきながら荒れた厨房を眺めて、「やりすぎた」とクロエは反省した。これは掃除が大変そうだと苦笑しながら、片付けようとしゃがんでパン生地を拾う。
すると、マティアスがクロエと同じように隣でしゃがんだ。
「あーぁ、家畜や畑行きなんて勿体ないな。クロエのパンは美味しいから、俺が食べたかった」
そう言ってマティアスは散乱した小麦粉を手で集め、鉄板の上に片付けていく。
「マティアスの手まで汚れてしまうわ」
「クロエこそ暴れて疲れただろ? お前は休んでおけ」
マティアスの優しさが心にしみると同時に、こんな素敵な彼の前で見せた自身の姿が恥ずかしくなっていく。
「……男の人を殴ってしまったわ。引いた?」
「まさか! 見ててスカっとしたさ。良い腕っぷしだったと思うよ!」
「――マティアス!」
ニカッと笑ったマティアスの笑顔に、クロエの胸はきゅんと高鳴った。
セルジュの性格からして婚約が解消されるのは確実だったものの、一時的でも阿呆の婚約者でいることがクロエは嫌でたまらなかった。
婚約当初、セルジュは可愛らしい容姿のクロエを気に入っていたが、なんせ浮気野郎なので手が早い。
牽制していたもののついに抱き着かれ、耳元で破廉恥なセリフを言われ、吐きそうになったクロエはある日、泣きながら夜会会場から逃げ出した。パンがなければ、ただのか弱い令嬢(自称)なのがクロエなのだ。
それでも執拗に追いかけてくるセルジュに困っていた時、助けてくれたのがマティアスだった。
物陰に隠れるために抱きしめられ、耳元で「我慢してて」とマティアスに囁かれたが、セルジュのように吐き気は誘発されなかった。
むしろ気持ちはパンの発酵のように温かく膨らみ、それが「恋」だと気付いたとき、焼きあがったパンのようにキツネ色に焦げた。
けれどもクロエには婚約者セルジュがいたため、思いを告げることはできない。遅すぎる恋の自覚に後悔しながら、ずっと胸の内に秘めて過ごしていた。
それも今日で終わり。
問題はマティアスの気持ちだ。確かに彼は殊更クロエに優しいが、ずっと昔からこうなのだ。すでに家族愛の領域に踏み込んでいる可能性もあり、そんな状態で求婚すれば玉砕間違いなし。
ただ諦めるつもりはない。今は意識してもらえてなくても、ここはパン生地のように粘り強く、オーブンのような熱い心で、いつか愛の湯気をあげるのよ――とクロエは密かにやる気を出した。
そんなクロエの決意を知らないマティアスは、おずおずと問いかける。
「なぁ、クロエは婚約解消が正式に成立したあと、どうするんだ?」
「そうね。お見合いしたい人がいるから、お父様に相談するわ」
「は? どこのどいつだ。また変なやつじゃないだろうな」
「す、素敵な人よ。誰よりも私のパンをいつもおいしそうに食べてくれてね。しかも驚くほどたくさんの量をね。その食べてくれる笑顔を見ていると、こっちが焼き立てパンみたいにふんわりと温かい気持ちになってね……えへへ」
しっかりとマティアスのことを思い浮かべながら、素直に告げた。
さすがに本人に気付かれちゃうかしら――と照れるように言ってみたのだけれど、マティアスの手にあったパン生地は握りつぶされ、ボタッと床に落ちた。
「マティアス!?」
「そいつは……俺よりもクロエのパンを食べているのか?」
マティアスの声は低く不機嫌で、クロエを見る瞳の奥は熱が込められていた。
こんな視線、向けられたことはない。
「どうして怒っているの? 私、何かした?」
「……嫌だ」
「え?」
「……俺が、クロエの一番じゃなきゃ嫌だ」
苦しげに告げられたマティアスの言葉は、明らかなヤキモチだ。
クロエの心のオーブンがチーンと音を鳴らした。
「マティアスだよ。私がお見合いしたい相手……」
「は?」
「私、マティアスが好きなの……気付いたときには、もう婚約してて。ずっとバレないように、変わらぬ幼馴染の振りをしていたけれど、本当は前からずっと好きだったの」
クロエは一度言葉を切って、息をたっぷり吸いこんでマティアスに告げた。
「マティアス・アベラール様、一生私のパンを食べてくれませんか?」
マティアスは水色の瞳を見開き、その瞳から綺麗な雫を落とした。
「食べる……いくらでも食べる。年とって、喉詰まらせて死んでも、クロエのパンなら本望だ」
「お、大げさじゃない?」
「小さいころからアプローチしてたのに、クロエは俺を幼馴染以上に思ってくれてなくてさ、気付いたら最低野郎の婚約者になってて、どれだけ悔しかったか分かるか? それだけ俺の心と胃袋はクロエに掴まれているんだ。好きだ……ずっと前から、クロエが大好きだった!」
「マティアス!」
クロエは生地が握りつぶされたままの、彼の手を包み込んだ。
「作るわ。あなたのためにたくさんのパンを。どんなのが良いかしら……甘いの? しょっぱいの?」
「甘いのが良い……」
「うん! とびっきり甘いパンを焼き上げるわ♡」
こうしてセルジュとの婚約解消が成立したと同時に、クロエとマティアスは婚約した。
セルジュの女性問題は有名で、クロエは非難されることもなく、新たな婚約はたくさんの人から祝福された。
晩年、クロエは果物を使ったパンの職人として歴史に名を残すことになった。異世界パンの生地の良さを守りつつ、果物の甘味を最大限に活かしたバリエーション豊かなパンは貴族たちを魅了した。
そのパン作りを支えたのはもちろん、マティアスが育てた果実。
当時の国王も虜になり、国中の話題となった。
クロエの没後、食べられなくなれば国の大損失に繋がるとして、国王はグレヴィ家だけではなく、アベラール家にも異世界パンレシピの伝承を命じたほど。
果物のパンはクロエとマティアスの愛の結晶として、レシピと共に語り継がれることになった。
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