蕎麦屋の若い兄ちゃんが、急に俺の蕎麦を掴んで食いちぎってるんだが!?
昼休み。
サラリーマンが食事処を探して足早に歩いている。
既に食べ終え楊枝を咥えたサラリーマンからは、様々な匂いが漂っていた。
引退した蕎麦屋を引き継いだ男がいた。
大学卒業後から八年の修行。
ようやく独り立ちを許された。
暖簾分けとはいかなかったが、それでも男は自分の店を持つことに、とても感動を覚えていた。
「いらっしゃい!」
男が威勢良く声をかける。暑苦しいねじり鉢巻きは、修行元の親方の真似だ。
「外の張り紙を見たのですが」
アルバイト急募。
一人で切り盛りするつもりが予想以上の集客に、男が急いで張り紙をしたのは昨日の事だった。
とてもありがたい悲鳴。男は笑顔で奥へと促した。
「へえ、愛ちゃん今まで飲食店の経験多数なんだ」
「何故か大抵クビになりましたけど」
「ん?」男が目を丸くした。
「え?」愛ちゃんが、何か? といった顔をした。
昼の部を終え、面接が行われたのは厨房の脇にある控え室。型の古いアナログテレビ、そしてちゃぶ台と座布団が数枚あるだけだった。
女子大生の肩書き、そして飲食店でのアルバイト経験有り。
男は直ぐさま働いてもらうよう働きかけた。
「明日からいいかな?」
「はい」
深々とお辞儀をし、愛ちゃんは手を振って出て行った。
配膳下膳に一人増えただけで、男の労働配分が格段に楽になった。
これでそば打ちに集中出来る。男に更なるやる気が満ちた。
「ねえ、お姉さんオレたちと遊ばない?」
菊練りの最中、テーブル席からそんな声が聞こえた。発せられたのは人相の悪い男達からだった。
何を考えてるんだ。男は軽く舌打ちをした。
「店長に確認してきますね」
後腐れ無いように責任者に投げる。か弱い女性の護身術だ。
男はやれやれと肩を回す。
「店長! 遊んできて良いですかー!」
男はずっこけた。
あの若い輩よりも信じられない発言をする愛ちゃんのきらきらとした顔を見て、男は言葉に困った。
「バイトが終わったら、ね……それと俺のことは親方と呼んでくれ」
男は腰に手を当てた。
今まで呼ぶ側だった八年。ようやく今度は呼ばれる側になるときが来た。
男は胸が躍る気持ちで愛ちゃんの呼び声を待った。
「親方店長がダメだってー!」
男はまたしてもずっこけた。
若者達は残念そうに「ハハ、そう……」と、苦笑いをして食事を続け、愛ちゃんは笑顔で空いたテーブルのかたづけをしていた。
男は当初、夜の部もやろうと考えていた。
そば一つでは食ってはいけないと思い、夜は酒を中心に肴を出そうと考えていた。
しかし蕎麦は盛況で軌道に乗り始めており、男は夜の部については保留とした。じつにありがたいことである。
「お昼行ってきます!」
愛ちゃんが客足の弱い時間にふらっと出掛けた。
「近くで蕎麦食べてきました!」
男は開いた口が塞がらず、愛ちゃんは笑顔で「まあ、親方のそばの方が一枚上手ですね」と両手の人差し指で男を指差した。
「そ、そうか。ありがとう」
男は段々と愛ちゃんを理解しつつあったが、その突拍子もない言動に冷や冷やとさせられていた。
「こんにちは」
店を閉めようと思った矢先、一人の白髪混じりの女性が店の入口を開けた。
「おっかあ……!」
「ちょっとあなた!」と、その女性が杖をついた男性を手招きした。
「親父……!」
「近くまで来たんだけどね、道に迷っちゃって」
「ふん、大学を出してやったのにこのざまとはな……」
男の父親は杖を強く鳴らしながら店の奥へと入ってゆく。母親がその後ろを笑いながらついてゆく。
「くだらん……」
「まぁまぁ」
男は大学を出て以来、両親と顔を合わせてはいなかった。
店を始める時に葉書を出したが、こんないきなり訪れるとは。
男は緊張のあまり、蕎麦包丁を握る手にいつもより力が入る。
「いらっしゃいませ」
愛ちゃんがお冷やを差し出した。
怪訝な顔の父親に、笑顔の母親。
「おまちどうさまです」
愛ちゃんを奥に引っ込め、男は自分で配膳をした。
蕎麦を見て母親が手を打った。
一口食べ、ぱあっと笑顔が咲いた。
「おいしいわ」
「ふん、食えたもんじゃないな」
そう言いつつ二口目を口にした父親を見て、母親は笑顔で男に目配せをした。
ようやく、少しだけ恩返しが出来た気がする。
男の心のもやもやが少しだけ晴れた。
たとえそれが自己満足であろうと、今の男はそれが唯一出来る恩返しなのだから。
「美味しかったわ。ありがとう」
「……」
母親が暖簾の向こうへ。外は夕焼けがよく映えた。
父親は何か言いたげに男の顔を見たが、ため息一つだけをついて、頭を暖簾に向けた。
「あなた」と、外で母親が何かをせかした。
「……またこの辺に来て、どこの店も空いてなかったら、そしたら仕方なく来てやる」
「親父……」
「……だから、それまで店を潰すなよ」
最後の最後に男の顔を見た父親だったが、それがどんな顔をしていたかは、男には分からなかった。
暖簾をよけた先から夕陽が眩しく照らしつけ、男の網膜を焼き付けたからだ。
「ありがとう」
二人が去った後、男は一人頭を下げて呟いた。
暖簾をしまい奥へと向かうと、愛ちゃんが一人蕎麦を打っていた。
「あ、親方お腹空いたから蕎麦どうですか?」
素人のをか? と、喉から出かかった言葉を呑んだ。
愛ちゃんの傍らに置かれたには、見事な菊練り。
男は無言で愛ちゃんの所作を見つめた。
蕎麦は均等な細さ。
ゆで時間はジャスト。
教えた覚えはない。
男はその一つ一つを何処で覚えたのか。不思議で仕方なかった。
「あ、親方の見て覚えたんですよ?」
「──!?」
「はい、出来上がり~」
出された蕎麦は見た目は男の物と瓜二つ。
つゆはいつの間にか持参した水筒から注がれていた。
「自宅で作ってみたんです」と、嬉しそうに声を高くした。
「──!!」
男は一口食べ、そして絶句した。
「あ、結構いい感じ」
結構ではない。
男は自分のよりも、愛ちゃんの蕎麦の方が美味いと感じてしまった。
「あー美味しかった。じゃ、店長また明日~」
呆然とする男をさておき、愛ちゃんは店を出た。
この後友達とカラオケに行くようだった。
「……嘘だろ?」
男は自信を失った。
数日後、男は店を閉めた。
修行元の親方にド・ド・土下座をしてもう一度一からやり直すことにしたのだ。
「豊さん何で戻ってきたんスかね?」
「シッ! あんま大きい声で言えねぇけどよ」
厨房で食器を洗う弟子二人が、男の方をじろじろと見つめながら声を潜めた。
「なんでも、女子大生に味を盗まれちまったんだとよ」
「……は?」
一拍置いて、弟子はハニートラップを想像した。
若い娘に手を出してレシピを盗まれたのだと。そう考えたのだ。
「いらっしゃい!」
店に客が来た。
「親方アイツです!!」
男が暖簾をくぐったばかりの愛ちゃんに指を差して叫んだ。
「えっ? あ、親方!!」
厨房に緊張感が走った。
愛ちゃんは笑顔で手を振り、椅子に座ってメニューを見ている。
「何しに来たんだ」
「えっ、お蕎麦を食べに決まってるじゃん」
「また味を盗みに来たのか?」
「やだなぁ親方ったら。あ、そうだこの前向こうのおそば屋さん行ったんだけど、つゆにアレ入ってたよ? 美味しかったな」
と、愛ちゃんと男の会話を聞きつけた親方が、ぬっと巨体を揺らしながら現れた。
ねじり鉢巻きが様になっており、威厳を感じる目つきをしていた。
「お嬢ちゃん。あまり店の秘密をペラペラと喋るもんじゃねぇぜ」
ぎろりと鋭い視線が愛ちゃんに向けられた。
しかし愛ちゃんはけろっとしている。
「……こっそり俺だけ教えてくれ。蕎麦奢ってやるからよ」
「……は?」
親方から飛び出た衝撃の一言に、男は開いた口が塞がらなかった。
「うん、いいよ!」
愛ちゃんが笑顔でうなずき、親方と共に厨房へとはけていった。
「…………」
男は言い難い感情を抑えきれず、隣のテーブル席に座っていたオッサンの蕎麦を鷲掴みにして、自分の口へと押し込んだ。