98
どのくらいの時間、うな垂れていたのだろうか。
背中を預けている扉の奥からはもう声が聞こえない。諦めて出て行ったのか、それとも開くのをソファに掛けて待っているのか。いずれにしろ、しばらくシエの顔は見たくなかった。
背中からずるずる落ちたので服の裾がめくれ、太ももが外気で冷える。
(ルカ……)
のっそりと立ち上がり、ベッドサイドに腰を掛ける。有希の体重でベッドが少しきしんだ
ルカは未だ眠っている。先ほど苦しそうに顔を歪めていたのが幻だと思えるほどに、健やかな寝顔だ。
「……ごめん、なさい」
胸が痛い。
「出会わない方が良かったのかも…………契約するのも、あたしじゃなくて、あの人の方が良かったのかもしれない」
だってあんなに綺麗で、あんなに高貴な人だ。
何も持たない有希とは比べること自体が間違えている。
「そしたら、ルカはこんな苦しい思いをしなくてもよかったのに」
手を伸ばす。頬に手を添えて、親指で頬を撫ぜる。中途半端に頬に付いていたかさぶたは簡単に剥がれ、綺麗な肌色が目に入る。
「あたしが居なくなれば、あの人に想われて……こんな風に苦しむ事はなくなるかなぁ」
返事はない。ルカの顔をのぞき込む。睫はぴくりとも動かず、ただ規則的に胸元が上下しているだけだ。
窓から差し込む光が橙色に変わっていく。
じわりと滲んだ涙が頬を伝い、ルカの頬にぱたりと落ちた。
「あたしの……せい」
ぽつりと呟く。
「そ。アンタの所為」
ヴィヴィの声が部屋に響く。その途端、どこから現れたのか、真っ赤な薔薇の花弁が部屋中に舞う。
「――っヴィヴィ!」
けたけたと笑う声が響く。風も吹いていないのに薔薇の花弁は躍るように舞い上がり、舞い降りる。
声は八方から聞こえる。まるで薔薇の花弁全てがヴィヴィだというように、有希の周りを花弁が舞う。
瞬きを一つする間にそれらは全て消え、ルカを挟んだ反対側のベッドにヴィヴィが有希に背中を向ける格好で座っていた。
「あーあ、面白かった。その腐抜けたカオったら! 笑い堪えるのタイヘンだったわぁ」
首だけ回して有希を見る。にやりと笑った顔は愉楽という言葉がとても似合う。
「騎士を病気にさせた挙句に契約の指輪まで他人に取られてぇ。主失格なんじゃないのォ? 絆も何もあったモンじゃないわねぇ」
「……っ」
まさにその通りで返す言葉が見つからない。有希は苦悶の表情を浮かべて俯いた。そんな有希を気にするでもなく、ヴィヴィは言葉を続ける。
「で、アンタはどうするわけ?」
突然の質問にはっと顔を上げる。ヴィヴィはもう笑みを浮かべておらず、至極真面目な顔をしている。言葉の意味がわからないでいると、次いでヴィヴィが言葉を重ねる。
「アンタはアタシの邪魔をした」
「――っそれは!」
ヴィヴィが原因だと知らなかったし、目の前で苦しんでいる人を放っておくことも出来なかった。なによりも、ルカに会う為にしたことだった。
「別にどぉでもいいのよ。タダ、その為にアタシがやろうと思っていたことが成し遂げられなかった」
「やろうと思っていたって……王妃を……?」
「王妃? そんなの取るに足らないコトじゃないわ。アタシが言ってるのはねぇ、この世界のコトよ」
「世界?」
思わずきょとんとしてしまう。突然話が壮大に飛躍して、うまく理解できない。
「そう。世界は争いで混乱し、侵略と暴虐がはびこっている。殺し、殺され、また殺して。――数え切れないほどの血が流れる。そうやって世界の均衡はぐずぐずと崩れてきている」
世界は戦争にまみれている。血が流れ、悲しみが溢れ、幸せなことなど何一つない。目の前のヴィヴィもまた、戦争に心を痛めているのだと思うと親近感が湧く。笑みかけると、ヴィヴィが反応してにんまりと笑った。その笑顔に有希はぎくりと身をすくめる。あの顔には見覚えがある――ヴィヴィが悪戯事を考えているときの顔だ。
「っていうことでユーキ、ゲームしよっか。今回はちょっぴりハードなゲーム。――この世界が崩れるのが先か、ユーキが均衡を取り戻すのが先か」
「…………なにそれ。冗談だったら笑えないよ」
「冗談? それこそ冗談デショ。アタシは常に全力で本気よ」
飽きたのよ。ヴィヴィは声高らかに言う。
「やらなきゃいけないことがあった。別にアタシがやらなくてもイイっていうのに。それでもやってた。飽き飽きしてた。そんなときに邪魔が入った――だから、やる気がなくなった」
わかった? と問いながらにんまりと笑む姿は可憐だ。それなのにどうしてちっとも可憐に見えない。ただ冷ややかな恐さがあるだけだ。
「アタシは別に構わないの。この世界が壊れてどうなっても」
「壊れるって……なんか抽象的すぎてわかんない……」
ヴィヴィはあははと笑って、身体をくるりと反転させ、ベッドに両手をついて顔を有希に近づける。
「アリドルの全ての山の火山活動が再開される。それから魔物が出る。最近小物はちょくちょく山なんかに出てるらしいけど、そんなんじゃ比べ物にならないくらいの魔物が」
「魔物……」
一度だけ聞いたことがあった。この世界には極稀に魔物が現れると。聞いたことはあったが、魔物の絵を見たわけでも実物をみたわけでもないのでやはり想像がつかない。
「龍が起きて魔物が蔓延る。――この世界は始まりに戻る。簡単に言えばそういうこと。まっさらになってもう一度やり直し」
おどけたように言う。
「龍……」
魔物の話をちらと聞いたときに、龍の存在なんて聞いただろうかと頭をひねる。そしてあまりにも簡単に話すヴィヴィに、段々と苛立ちが募る。
何を考えているのかわからない。何をしたいのか、どうしてそんなことを言うのか。問えば答えてくれるだろうか。
「……どうして?」
「どうしてって、さっき先行投資したデショ」
「先行、投資……?」
「アタシはアンタを助けてあげた。だからアンタにはアタシを楽しませる義務がある。それからアンタもアタシの邪魔をした。だからアンタに拒否する権利はない。そぉゆーコト」
呆然としてしまう。なにがそういう事なのだろうか。
ヴィヴィを楽しませる義務。邪魔をしたその代償。だからといって、世界を掛けたゲームをしろだなんて、冗談にしては笑えない。
突然言い渡されたことが理解できず、思考が空転する。
(世界が……壊れる)
そもそも壊れるということ自体、想像が湧かない。魔物が出ると聞いても理解ができない。日本に居るとき、温暖化で地球の氷が溶けてまた氷河期がやってくるという話を聞いたことがあった。しかしそれは『壊れる』とは違う気がする。
(始まりに戻る)
この世界のはじまりとは、何なんだろうか。
ヴィヴィは何か大切な事を有希に伝えているはずなのに、有希はそれを満足に汲み取れずにいる。
「…………どうして?」
「飽きたからって言ったデショ。だからユーキ、一生懸命頑張って、アタシを楽しませてちょうだい」
「……そんな」
習っていない公式を使う計算問題を出されたような、やらなければいけないのにその方法がわからない。
どんどん気分が落ちていく有希と裏腹に、ヴィヴィはもの凄く楽しそうだ。
「アタシはユーキ好きよ? 馬鹿みたいに素直で、愚かしいほど何も知らなくて。そんな可愛いユーキちゃんがたまらなくダイスキよ? だから、ガンバッテね。世界を賭けたゲーム。けっこうスリリングで楽しいと思うわ、ユーキ」
高らかにヴィヴィは言う。瞳をキラキラと輝かせ、いきいきしている。
こうなってしまったら、きっとどうすることもできない。絶望的な気分を抱いたまま、有希はヴィヴィを見つめることしかできなかった。
「…………一人でやるには大きなゲームだな」
ひどく、聞き覚えのある声が聞こえた。
その声を求めすぎて、幻聴なのではないかと疑ってしまいそうな程に、懐かしい。
体が金縛りに遭ったように強張って、上手く動かない。
かろうじて視線だけ下方へ向けると、先ほどまで穏やかな顔を浮かべて寝ていたその人物は、白金の睫毛に縁取られた蒼穹の瞳を瞬かせている。
(…………どうして)
人はあまりにも驚くと、動けず声も出ないらしい。
ルカが目を開けていた。その瞳は狂おしいほどに懐かしい。
ぎこちなく身動ぎし、起き上がる。有希はどうすることもできず、自分に背を向けて起き上がったルカを呆然と眺めていることしか出来なかった。
けれどもその蒼穹と、有希の視線は絡まない。ルカの視線の先には、ヴィヴィが居る。
「アラ、――起きてたの? 人の話を盗み聞くなんて、王子サマがそんなことしちゃっていいの?」
何ヶ月も言葉を発していなかったとは思えないほど流暢な言葉が耳に入る。
「問題ない。遅かれ早かれ知ることになる」
「あらそ。……どうやって知るのかチョット興味わくわぁ。ユーキは喋らないかもしれないわよぉ? どうやって詰問するの? 拷問? それとも色仕掛けぇ?」
「……どうでもいいだろう。――そのゲームとやらには、二人で参加してもかまわないのか?」
「奇特な物好きが居れば、の話ね。――好きにしたらいいんじゃなぁい?」
「そうか」
「アタシね、図太くなったユーキに、少しだけ期待してる」
「――そうか」
「それじゃ、アタシは高みの見物でもさせてもらうわね」
二人の会話が一切耳に入らない。声は聞こえるのに、言葉の意味が飲み込めない。
ルカは有希に背を向けている。ヴィヴィと対峙している後姿しか見えない。
「あとは二人でよ・し・な・に! じゃ。楽しみにしてるわねぇ!」
ヴィヴィが笑む。ぱちんと音が聞こえて、ヴィヴィは真っ赤な薔薇の花弁になってひらひらと消えていく。
濃密な薔薇の香りが部屋を包み込む。
花弁が消えてからも、有希は微動だにできずにいた。元は白かったのだろう、緋に染まった服は、所々に白さと赤黒さがちりばめられている。その赤さが、有希の心臓をきゅっと締め付ける。
「…………」
静寂が満ちる。風の音も、町の声も、なにもかも聞こえない。――ただ、有希の鼓動の音だけが耳に響く。
やっと。
やっと逢えた。
生きている、動いている――起きている。
唐突に涙腺が緩む。鼻の奥がツンとして、瞼に熱が篭る。
「…………冷えるな」
沈黙を解いたのは、ルカだった。
「どうやら俺は、長いこと眠っていたらしいな。――お前にも、多大な手間を掛けさせたようだ」
背中は振り向かない。振り向かないが、有希は首をぶんぶんと振る。
「そんなことない! そんなことないよ! あた、あたしが……っ」
あたしが悪かったんだから。その言葉を言おうにも喉がひくついて言葉が出ない。涙がボロボロと零れ、上手く呼吸が出来ない。
「――――ルカ」
掠れた声で小さく呟くと同時に、目の前の人物が身をよじり、ベッドが軋む音が聞こえた。
赤、白、金と――――碧。
それらが全て有希の視界に入った瞬間、目の前が薔薇の花弁で一杯に染まった。