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カツンと聞こえたそれは、とても控えめな音だった。
小さな音は恐ろしいほど静かな部屋に響き渡る。
「――っ!」
驚きで指が強張った。ぴくりと動いたのでルカの瞼を軽く掻いてしまった。
振り返って、扉の奥の扉を見遣る。
カツンと、もう一度音が響く。
(そうだよ……ルカに見惚れてる場合じゃなくて……)
自嘲するように内心で毒づき、更にはっとして首を振る。
「そ、そもそも、見惚れるとかじゃ、ないし」
ぽそぽそと誰にいう訳でもなく言い訳をする。
(ど、どどどどうしよう。ベッドの下もだめだし、この部屋……何も無いんだもん)
ただ広いだけの部屋に、あるのは真っ白なベッドとカーテン。カーテンは白のレースで、その中に隠れるということも出来ない。
「……メンデ。居るんでしょう、ラッドル・メンデ。もう良いでしょう? そろそろわたくしも入らせて?」
女の声が聞こえた。どきりとして扉を凝視してしまう。扉はカツカツと、急かすように叩かれている。
「ねぇ、約束の時間はとうに過ぎているわ。どうして迎えに来てくださらないの?」
責めるような、しかしそれでいて優雅だというのが、扉越しに篭っていても理解できる。
(貴族の……人?)
有希の中ではそのくらいしか思いつかない。
しかし何故。どうして。
(ラッドの事を知ってる……迎えにって……どういうこと?)
はじめからこの部屋に来るつもりだったのだろうか。それもラッドが迎えに行くというのはどうしてだろう。
「あら、鍵が開いているわ。中にいらっしゃるのなら開けてくださいません?」
そのまま黙っていると、焦れたような声が聞こえる。
「ラッドル・メンデ! 貴方がルカートに会わせてくれると言うから、わたくしは人払いさせたのですよ? あなただけ、あなただけルカートに会うだなんて、卑怯ですわ! ――もう!」
ずず。と、引き摺る音が聞こえる。――扉をあけようとしているのだ。
しかし、重い扉を引くにはあまりにも非力なのだろう。振り絞るような声が廊下に響く。
(ど、どどどどうしよう!)
困惑に拍車が掛かり、ルカの目じりに溜まった涙をふき取る。――何故か他人には見せたくなかった。
そしてベッドから降りて布団を直す。もう唸っていない、穏やかな寝顔を確認する。
(よかった……)
たとえ夢にうなされていたのだとしても、あんな苦しそうな顔は見ていたくなかった。
(それに、兵でもなさそうだし)
ずずずと音を立てて開いている扉に目を遣る。一旦動いたら、その慣性で開けやすくなったのだろう。扉は人一人通れるほどに開いた。
先ほどの有希と同じように、少しの隙間からするりと部屋の中に入って来た。
深いパールベージュのドレスが揺れる。早足で動いたために裾がふわりと揺れる。剥き出しの肩には同系色のストールが掛けられている。 薄青の長い巻き髪も同時に揺れる。白い肌に薄青がとてもよく映えていた。
(うわ、美人……)
ベッドの横に佇んで、侵入者を眺めていた。侵入者はラッドの名を呼びながらきょろきょろとあたりを見回し、そして扉の奥で立っている有希と目が合う。
「……あら。ラッドは居ませんの?」
「え」
侵入者は有希の隣のベッドに気付くと、迷いなく優雅にそちらに歩む。
「それから、本日はわたくしがルカートの寝返りを打たせると言ったはずだけれど?」
責めるような口調で有希を睨んでいる。つり気味の黒色の瞳が、まっすぐに有希を捕らえている。
現状を把握しようと、頭をフル回転させる。
ラッドが何がしかの手をつかって、ルカの部屋に入るメイドを払ったと言っていたではないか。それは、今有希に向って歩いているこの美女が絡んでいるということではないだろうか。
(でも、何て言ってお願いしたんだろう)
ラッドが侵入者に何と言ったのか、有希には皆目見当がつかない。
「……聞こえませんでしたの? わたくしはあなたに下がるように言ったのですよ? ラッドはまだ来ていないのでしょう――ラッドル・メンデが今から医者を連れてこの部屋に参ります。申したように、本日の仕事はわたくしが行います――下がりなさい」
年は二十代中頃だろう。侵入者は高圧的に有希を見下ろす。その言動にいささかむっとしたが、説明をしてくれたお陰でラッドが侵入者に何と言ったのか、おおむね見当がついた。
「あたしがその医者です。ラッドには……戻ってもらいました。――あの、失礼ですがあなたはどちら様ですか?」
侵入者は一瞬、きょとんとした顔で有希を見た。何か納得したのだろうか。嘲るような笑みで侵入者は言った。
「そういえば"奇跡の娘"は辺境な地から来たと聞いていたのをわすれていましたわ。――わたくしはシエ・レーベント。ルカートの主ですの。わかりましたらば態度を慎みなさい?」
「はぁ…………ッハァ!?」
高圧的な剣幕に思わず生返事をし、逡巡して気付く。
(ルカの、主ぃ!? そんなのありえないでしょ。だってルカの主はあたしだし)
有希よりも頭一つ分ほど背の高いシエを見遣る。黒曜石のように艶やかな黒い瞳も有希を見下ろしていた。何かを思案するように口元に手を遣る。その手に嵌められていたものに、有希は目を奪われた。
「なん……で?」
シエの手――小指に、見覚えのある指輪が嵌められていた。紫色に光る、銀の指輪。
それは紛れもなく、紫の騎士を持つ者が嵌める物。
「――あぁ、だから言いましたでしょう? わたくしがルカートの騎士だと」
「いや、だって!」
(ルカの主はあたしで!!)
心の中で叫ぶ。それは口にしていいものなのだろうか。言ったとして証明できるものは何一つない。唯一証明になるものは、目の前のシエが何故か持っている。
「だって……他の人と契約してる……のに」
うろたえてしどろもどろになる。有希が主ということは事実なのに、指輪を持たれているという事だけでひどく心許なかった。
「あぁ。魔女ですわね。――あの魔女は死にましたわ。今はわたくしが主人ですの」
シエは何事も問題がないかのように言う。
(……なによそれ)
魔女が死んだ。それは有希が死んだということなのだろうか。有希はこの場に居るというのに。
混乱した頭は働かない。シエは焦れたように言葉を続ける。
「そんなこと、貴方には関係のない話でしょう――早くルカートを治してくださいません?」
「え、あ……」
「あの魔女が死んで清々しましたわ。あの魔女の所為でこうやってルカートが苦しんでいるんですもの」
「…………どういう、ことですか?」
「あぁ、貴方のような方は騎士とは無縁ですものね、知らなくても恥ずべき事ではないわ」
ふふと蔑むように笑うと、シエは微笑みを称えて謳うように話す。
「貴方、騎士と主人の間に必要なものはなんだと思って?」
突然の質問に、え、と口篭もる。
(必要なもの……)
そんなものあるのだろうかと、有希とルカ、ヴィーゴとセレナ、ティータとナゼットの組み合わせを思い浮かべる。ふと、セレナが発していた言葉を思い出す。
「……一生付き合っていくっていう覚悟?」
「そんな瑣末な事ではないわ」
一々馬鹿にするような物言いに、不快感で眉にシワが寄る。
「主従の契約を交わすと、騎士は全体的な肉体能力が上昇致しますわ。それがどの程度上昇するかも個々で違うんですの。貴方、それが何を基準にしてかわかって?」
騎士との主従契約について、まだ知らない事があったのかと驚きを隠せない。能力が強固になるのも、一律おなじ程度、もしくは色号での違いなのかと思っていた。
知らないと首を振ると、シエは満足気に笑む。そして瞳を潤ませうっとりと語る。
「想う気持ち、ですわ」
「…………はぁ」
確証のなさそうなものではないかと拍子抜けしてしまう。
「好意が欠片もなければ騎士は普通の人間となにも変わりませんのよ。主人が騎士を想えば想うほど、騎士は強くなりますの」
うっとりと陶酔するようにシエは語る。何に気が向かったのだろう。瞬時に酔いしれる顔から、敵意剥き出しの顔に変わる。
「ですからあの魔女がいけないんですの! あの魔女がルカートを利用しようと無理矢理契約させたのに違いないですわ! 魔女が微塵もルカートの事を想って居ないからこそこのような事が起こりましたのよ! もしあの時既にわたくしと契約してましたらば、ルカートがこんな目に遭わずにすみましたのに!」
どきんと、心臓が跳ねる。
「…………なに、それ」
「……それでも、魔女には感謝しなければならないところもありますわ。あの魔女が居たからこそ、ルカートはまた契約できるようになったんですもの。――それよりも、ルカートの治療はまだでして? 奇跡の娘の力というのも、噂で誇張されただけの粗末なものなのですの?」
「………………って……さい」
「――今、何と仰って?」
「出てって下さいって言ったんです!」
心臓が早鐘を打っている。激しく流れる血脈は有希の涙腺を刺激する。
あっけに取られた顔で呆然としているシエの肩を掴み、ぐいと押す。
「治療の邪魔です! 出てってください!」
突然の行動に驚いたシエは、傾いた体が倒れないように後退してゆく。寝室からシエが出るのを見届けて、有希は両手を離す。そして二つの部屋を繋いでいた扉を閉めてガチャリと鍵を掛けた。そのまま扉に背を預けて、ずるずると下に落ちる。
「何ですの突然! ここを開けなさい!」
憤慨したようなシエの言葉が扉に掛かる。扉を叩かれるかと思ったが、貴族にはそんな習慣がないのか、彼女自身に習慣がないのか、罵倒の言葉が耳に入ってくるだけだった。
しかし、その罵倒の言葉も、声が聞こえるという程度の認識で、何を言っているのかは分からない。分からないほどに、混乱していた。
「……想いの度合いで変わる? なにそれ。想えば想うほど強くなるって」
うわごとのように言葉が紡がれる。
『あの魔女がいけないんですの!』
恨めしいシエの声が耳に入る。自分を責められているようで、心臓がきゅっと締まって身がすくむ。
想いの度合いで騎士の能力が変わる。
ルカは騎士でありながら十日熱に感染した。
そして治る事なく、悪化の一途を辿っていた。
『魔女が微塵もルカートを想って居ないから』
「なによそれ」
頭でリフレインされる言葉に返事を返す。
視界に入るのはベッドの足とシーツ。そこで横たわっている人物は視界に入らない。視界に入ってなくて良かったと、束の間の現実逃避をしてしまう。
今彼の姿を見たら、消えてしまいたくなるに違いない。
(だって……)
自分なら彼を治療できると意気込んでいた。今はそう思った事を心の奥底から恥じたい。
「ルカが十日熱に感染して治らなかったのは……あたしのせい……」
ルカが十日熱に感染していれば、再会できる。そうラッドは言っていた。理想の形と違えど、こうしてルカの顔を再び拝むことが出来た――なのに、胸が痛む。
「なんなのよぉ」
もしルカの十日熱が治っていたならば、また別の形で会うことができたのかもしれない。
しかしそうはならなかった。
その原因は、有希自身にあったのだから。