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唐突に意識が覚醒した。まるで二度寝をしてしまって、明らかに間に合わない時間に起きてしまったことに気付いている覚醒によくにている。
なにが起こっているのかわからないぼんやりとした頭ではなく、自分の置かれている状況を的確に認識してからの目覚め。
「――っルカ!」
がばりと起きる。その瞬間、軽いめまいが起きる。それでも確認しなければと両手を伸ばす。ルカの居た辺りに手を這わせると、ざらざらした肌の感触があり、それが有希の指に触れるとぼろぼろとはがれてゆく。
――かさぶたが、はがれているのだ。
「…………よかった」
掠れた声が出る。まだ白んでいる視界の中から、自分の指先から広がる肌色の皮膚を探す。その顔は未だ起きる気配はないが、少なくとも死ぬ事だけはなくなったのだという安堵がある。
「なんで、あんな……」
あんな十日熱、一体誰から感染したんだと毒づいて、へなへなとルカの上にもたれかかる。有希頭が丁度腹部のあたりに乗っているのだろう。呼吸のたびに上下するその振動が心地よく、そのまま眠ってしまいそうになる。
「当たり前じゃない。王妃と同じモノやったんだもん」
ヴィヴィの自分が発端だというような口ぶりに、有希の目が驚愕で見開かれる。顔を上げ、後ろを振り返る。大きなベッドの足元で寝そべっているヴィヴィは、にんまりと笑った。
「なん……で?」
掠れた声が出る。どうしてこんな酷い事をしたのだ。どうしてそんな所業をして、罪悪感も感じず、平然としていられるのか。
(こんなの、酷いよ)
ヴィヴィはベッドから降り立つと、蔑むように有希を睨む。
「なんで? んなモン、制裁に決まってるじゃない。あのクソ女は呪詛を使ってアタシを殺そうとした。だからアタシはそのまま返した。そうしたらヘンな十日熱に感染することになった。それだけの話よ」
「じゅ、そ?」
「あぁ、アンタなにも知らないんだっけ。呪いよ。人間はアタシ達みたいに言葉に力がないから、犠牲が必要なの。古来から伝わる魔術の一種よ」
呪い。犠牲。贄。――それから、ヴィヴィがクソ女とのたまる王妃の所業。
「ルカを……生贄に……」
「だっから何度もそう言ってるデショ!? 自分の騎士を贄に使われそうになったのに、その相手を治すアンタが理解できないわ」
「でも王妃が……なんで」
(何で、ルカを)
そぉねぇ。ヴィヴィが顎に手をやり、小首をかしげる。
「アタシを殺したい。けれど自分では敵わない。そうだ、呪い殺そう! でもそれだったら贄が必要だ。それも高貴な贄が。そう考えたんじゃないのォ? そして気付く。――あぁ、あのイラナイ子達を使おうって」
「なに、それ……」
「あのクソ女以外の子供でしょうね。実際もう一人の贄は死んだわよ。一回目はアタシも不意を突かれたから、慌てて返した時にはあのクソ女は上手く逃げてたのよねェ」
「もう一人……?」
(そういえば)
随分前に、アドルンド第三王子が十日熱で亡くなったという話を聞いた。
「もしかして」
有希の考えた事を悟り、肯定するようにヴィヴィは頷いた。
(かわいそう)
振り返り、ルカの顔を覗き込む。赤黒いかさぶたにまみれた顔は安らかな顔をしている。規則的な呼吸で上下する胸を見ると、とてつもないやるせなさに襲われた。
もう、こういう風に呼吸すらできないようになってしまった犠牲者が居たのだ。
「……どうして、贄にまで仕返しがくるの? そんなの、あんまりじゃない。だって……その人たちは何も悪くないのに。何もしてない、むしろ被害者なのに……こんな」
「アンタやっぱり馬鹿ね。何もしてないって訳ないじゃない。自身の身体全部を使ってアタシを呪おうとした。本人の意思に関わらずにね。それが事実でそれが全て。――もしかしたらアンタが知らないだけかもしれないわよ。この騎士も、もしかしたらアタシを心底憎んでいたかもしれないわよ。そしたら贄になるのだって本望でしょうに」
「ルカはそんなこと!」
「ハイハイしないかもしれないわね。甘ったれのユーキちゃん。――アンタ、わかってんの?」
「え?」
突然胸倉を捕まれ、引っ張られる。首の後ろがきゅっと締まる。
十歳ばかりの体格に見合わない力で有希を持ち上げる。そして有希を見据えてにっこりと微笑んだ。
「アタシを殺そうと考えてたそのクソ女を、アンタが助けたってコト」
紫色の瞳が濃く揺れる。それが怒りから来ているものだと判ったが、気付くのが遅すぎた。底冷えする笑顔を称えたまま、ヴィヴィは喋る。
「……ぁ」
「……でもまぁ、丁度いいのかもしれないわね。このままだと悪化するし、アタシそこまで面倒見てあげる気もなくなったし。一世一代の大博打っていうのもアリかもしれないわね」
「な……に、が?」
「またそうやって聞く。アンタはなんでもかんでも聞いてばっかね」
「ご、ごめん……なさい」
ヴィヴィが一体何を考えているのか、何について話ているのかさっぱり見当がつかない。
ただ判る事は、直接の原因は王妃だが、ヴィヴィがルカを危険な目にあわせたということ。有希が王妃を助けたことでヴィヴィの溜飲は下がらないこと。そして、ヴィヴィが有希に対して怒っている事。
どう謝罪したらいいだろう。そんなことばかり頭を巡る。
詳しくはわからないが、王妃はルカを危険に晒した。何故。と思うけれども王妃に対して憤りも憎しみも湧かない。ただただ疑問符だけが上がり、何故そんなことをしたのかを知りたかった。
(でも……もし王妃のしたことを先に知っていたとしても、見捨てる事はできなかっただろうなぁ)
「……アンタ、考えてる事全部顔に出てるわよ」
「えっ」
「はぁ。なんておめでたい頭なのかしら。本当に脳ミソ詰まってる?」
襟首を捕まれていた手が緩む。膝立ちになっていた状態から、すとんと座りベッド尻をつく。
「アンタがビビんない通り、アタシはそんなに怒ってないわ。――確かに、アタシを殺そうだなんて言語道断なんだけど、クソ女を殺そうと思えばいつでもできるわけだし」
「……え?」
「アタシはね、アンタがビビって『あたしどうしたらいい?』って聞いてくるの待ってたんだけど……知らないうちに図太くなったわね。開き直るだなんて」
くねっと身体を揺らし、有希の真似をする。
「ひ、開き直ってなんか……」
「開き直ってるジャン。後悔してないみたいだしぃ?」
ヴィヴィは何を思いついたのだろうか。にんまりと笑う。そして口を開きかけた瞬間、はっとした表情になり、突然後方を振り返る。
「誰か来たわね」
「え!?」
有希は驚いて開いている扉を見る。その更に奥にある扉は、ぴくりとも動いていない。
ヴィヴィはちらと振り返りルカを見やる。そしてまた、扉を見遣る。
「……面白いモノ持ってるわね。あの子」
有希を見てにんまりと笑い、指をぱちんと鳴らす。その瞬間、ヴィヴィは大量の薔薇の花弁となり、はらはらと散ってしまった。
「ちょっと! ヴィヴィ!」
薔薇の花弁を睨んで叫ぶ。薔薇の花弁は段々と透明度を増し、最後は透けて消えてしまった。辺りには濃厚な薔薇の香りが漂うだけだった。
「え、え、えぇ!?」
慌てふためいてあちこち見回す。
一体誰が。何で。何のために。
「鍵が閉まってて誰も訪れないハズなんでしょう!?」
『寝返りを打たせるためにメイドを遣っている』
ラッドの言葉が蘇る。メイドかもしれないと思ったが、ラッドがメイドを買収したと言っていたではないか。
オルガが兵をこちらに向わせたのだろうか。
「……まさか」
そうだとしたら、あの態度も演技だったのだろうか。体調が優れなくてよく考えられない頭だったが、オルガがどこか弱っているような気がしたのに。――初めて、オルガの本質のようなものに触れられた気がしていたのに。
「ど、どどどどうしよう、ルカ!」
慌てふためいてにじにじとルカの顔の横あたりまで移動する。キングサイズよりも大きいベッドは、顔のすぐ横に座り込んでも、まだスペースが沢山ある。
ルカの顔を覗き込む。肩を揺さぶって見るが、穏やかな寝顔は変わることがない。
「あ、ベッドの下!」
もぐってやり過ごそうと光の速さでベッドを降りる。そして真っ白なカバーを捲り上げて、有希は絶望した。
「……なんで全部木で覆われてるのよ……普通ベッドの下って収納スペースでしょぉ?」
ベッドの下は、重厚な飴色の木で覆われていた。
雑にカバーを下ろし、もう一度ルカの肩を揺さぶった。
「ねぇルカ! ルカ! 誰か来たんだけど!」
がくがくと首が左右に揺れる。そのたびにどこかで擦れたかさぶたがポロポロと首元に落ちる。
「……だめかぁ」
ふぅと息を吐く。そして扉を見遣る。――扉が開きそうな気配はない。
「ヴィヴィは誰か居るって言ってたけど……入ってこないね」
挙動不審に慌てていた間で結構な時間も掛かっただろうに、扉はぴくりとも動いてない。
「ねぇルカ、誰が――」
言いながら視線をルカに遣る。そして有希の心臓がどきんと跳ねた。
「っルカ!?」
ルカが眉をひそめてうなされている。そして小さく呻き声をあげる。
「――――ッ」
「ど、どどどうしたの!? え、なに? だいじょうぶ!?」
とにかく起こさなければ。揺すろうと肩に手を伸ばした。
「……さま」
「え?」
切なげに歪んだ顔。その表情に見覚えがあった。
『どうしても、あなたが消えない』
いつだったろう。ひどく酩酊したルカに遭遇したときのことだ。ルカは有希を誰かと間違えた。
『ルカと、呼んでください』
初めてルカの名前を呼んだ、あの夜のことだ。
「……ルカ」
ルカは苦しそうに顔を歪める。左右に首を振ったので、長くなった前髪が顔を覆っていた。
「だいじょうぶ……?」
返事はないだろうとわかっているが、声を掛ける。顔が見えないので、手で髪を払う。
「……ぇ、さま。ど、して……」
「っ!!」
髪を横に分けたまま、有希の手がぴたりと止まる。否、身動きが取れなくなった。かさぶたに覆われた目じりに涙が溜まっていた。
驚きからか、唐突に心拍数が上がる。身体中がむず痒い感覚に襲われる。
(なに……)
ひどく落ち着かない。文字通り心臓がどきどきと言っている。殆ど白に近い睫が涙で濡れている。
いつもいつも綺麗な顔だと思っていた。おとぎ話に出てきそうな容姿だと。
いまさらその美しさに――それもかさぶたにまみれた顔でいるときに気付くだなんて。
「やだ……」
なにに対しての否定の言葉なのだろうか。自分でもよくわからない。わからないけれど、言わなければと思った。言わなければ。言わなければ、認めてしまう。
「泣かないでよ……」
片方の手は髪を梳いたまま、空いた手で目じりの涙を拭う。
親指でやさしく触れる間中、ずっと鼓動は高鳴ったままだった。
今まで何の躊躇いもなく触れていたのに、何故か萎縮してしまう。自分が触れていいものなのか。ルカは起きていないのに問い掛けたくなってしまう。
ルカはうわごとのように小さな声で呟いている。否、有希の知らない『誰か』を求めている。
途端、心臓の奥。胃のあたりに不快感が広がり、きゅうっとしめつけられる。
「…………誰の名前呼んでるの? あたしは……ユーキだよ……」
どこか苦しそうに唸るルカにつられ、有希の顔も苦しく歪んだ。