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武者震い。というのだろうか。全身が震えていた。
鍵を握る手が震え、思うように鍵穴に入らない。
「あっ」
がちりと音をたてて鍵がはじかれ、床に落ちる。チャリンという音が静かな廊下に響き渡る。しゃがんで、震える指で鍵を掴む。
建物を上がってくる間、人という人に会わなかった。唯一、入り口に立っていた兵士に騎士称を見せたっきりだった。
有希は目の前にある大きな扉を見て、更にあたりを見回す。もしかしたら部屋が違うのではないかと懸念した。
しかし、間違えようのない部屋だった。扉が、一つしかない。
もう一度鍵を握る。ずっと握り締めていたから、鍵まで汗ばんでいる。
かたかたと震える手をもう片方の手で止めようと励む。そしてゆっくりと鍵穴に差し込む。手が震え、鍵と鍵穴がかちかちと音をたてる。
一つ、大きな深呼吸をしてから奥まで差しこむ。奥までざっくりと入った鍵をゆっくりと回した。
カチンと箍が外れる軽い音が聞こえる。静かな廊下に、その音が響き渡る。
有希の吐息の音さえも響きそうなほどに静かな場所だった。
取っ手に手をかける。押すのか引くのか逡巡して、足に力を入れて後ろに引っ張った。
重い扉はゆっくりと、だが確実に開いてゆく。
ようやく有希一人が通れるほどの間が空いて、有希は手の力を抜き、滑り込むように部屋の中に入った。
部屋に入った途端、思い出したかのように貧血が起こった。膝に力が入らなくなり、頭が重い。
「っ……………」
有希はそのまま床にへたりこんで肩で呼吸をする。
日差しの差し込む部屋は酷く静かで、有希のぜいぜいという呼吸音まで部屋に響き渡っていそうだった。
(あたま……いた……)
ギーギーと耳鳴りが聞こえ、頭の真中がキリキリと痛む。痛みが断続的にやってくることには慣れたが、痛みに慣れたわけではない。それに痛みはやってくる度に強く、痛くなる。痛みのやり過ごし方がわからず、頭を抱えてうずくまって唸る。
「う、あぁ……ぐぅっ」
身体中が火照っている。熱いのに、寒い。首筋から全身に鳥肌が立つ。
視界がちかちかと明滅する。痛みから、寒さから逃げようと身をよじっても何もなくならない。
「……ぅぁあああああああああ!」
声にならないうめき声が出る。それなのにその声は自分の耳にすら入らない。聴覚が利かないのだ。
明滅していた視界が、だんだんと黒く染まる。耳鳴りも遠のく。涙がボロボロとこぼれる。荒い呼吸は嗚咽でえづくことによって上手くできない。苦しさでまた涙が溢れる。
(いやだ)
ここで意識を手放したくない。
意地でも立ち上がってやろうと、顔を上げる。目をしっかりと見開いて、部屋の中を睨んだはずなのに、その世界は黒に包まれていた。
(そんな)
何も見えない。何も映らない。確実に目を開けているのに、顔を上げているのに。
何も聞こえない。耳を塞いでいるわけでもないのに、一切の音――自分の声すら自身に届かない。
三半規管が狂い、ぐにゃりと足元が歪んだ気がした。頭もつられて揺れ、そのまま横に倒れた。
床は平たいはずなのに、波打つように揺れていて、酔ったような不快感が胃にくる。
「いやだ……」
ぐずぐずと黒に飲み込まれる。必死にもがこうと足掻いても、どこへ行けばいいのかわからない。
また一人ぼっちになってしまった。黒い不安に飲み込まれないように、からめとられないようにと一生懸命逃げてきたのに、また捕まってしまった。
掠れた声が喉から絞り出される。
(だれか、だれか)
「たすけて……」
「いいわよ」
凛とした声が耳に入ってきた。それから全身黒に埋まった中から腕を引かれる衝撃。引き上げられる感覚。額に当てられるひんやりとした、てのひら。
寒くて奥歯がガチガチと鳴っていた。そんな有希を安心させるように首の後ろにもてのひらが回る。
「バカねぇ。こんなになるまで力使って」
「ヴィ……ヴィ……?」
「そーよ。アタシ、待っててアゲルって言ってなかったァ?」
言葉が耳に入るようになった。しかし、頭が動かず意味が飲み込めない。有希はヴィヴィに言葉を返さず、そのままうな垂れていた。
冷たくてやわらかな手が、身体中のすべての淀んだものを一気に吸い取るような、そんな感覚が駆け抜ける。
体感でものの数十秒。ヴィヴィの手が放される。目を瞬かせると、視界は澄み切っていて、鉛を抱えたように重かった体は驚くほど軽くなっていた。
「ど……して?」
気だるくて、重い感覚は慢性的になっていて、こんな軽やかな身体を忘れていた。
「どーしてって、アンタが言ったんでショ? たすけてって」
手の平大の赤とピンクの布でつぎはぎされたワンピースを纏っているヴィヴィは、肩をすくめて言った。
「それと……ここまで来られたゴホービ」
「ご、ご褒美……」
悪戯ににんまりと笑うヴィヴィは、有希の顎を掴んでくいと上げる。
「そ、アンタにはこれからまだまだ楽しませてもらうから、先行投資ってヤ・ツ」
「意味、わかんない……」
「んなモン今は知らなくていいわよ。――それより、行かなくていいの? アンタの騎士んトコ。そろそろ死ぬわよ?」
くいと顎でしゃくる。
部屋は応接室なのだろうか。白いカーテンが掛かった窓際に大きな机と椅子。そして部屋の真中にソファがあった。そしてその向うには重厚な扉があった。
「――――っ」
心がさあっと冷える。『死ぬわよ』と言ったヴィヴィの言葉は、絶対に嘘ではないとわかる。
「ルカ!」
悲鳴にも似た声が喉から出る。死んでしまうかもしれないという恐怖で膝が笑う。
力が抜けそうな膝をかろうじて動かして走る。激突するように扉に手を付き、その勢いで思い切り扉を押す。
体力を取り戻した身体では、易々と扉が開いた。
開いた扉の向うは、学校の教室と同じくらいの大きさのだだっ広い部屋だった。白い壁と白いカーテンに囲まれ、奥にぽつんと一つ。大きな白いベッドが置かれていた。
「――――っ」
思わず呼吸が止まる。純白に包まれて眠っている、その人物。
部屋の端から見てもわかるほど、その顔は疱瘡で真っ赤に染まっていた。見覚えのある、憎らしいほどサラサラしている金髪が見えなければ――否、そこに居るのが彼だと知らされていなければ、判別すらできないだろう。
「っルカ!!」
喉から声がひり出る。悲鳴じみた声が、しんとした部屋に響く。
ことばが口から出たのと同時に、身体が勝手に前につんのめるような形で走り出す。そして絨毯に滑って転んだ。
べしゃりと柔らかな絨毯に両手を放り投げて激突した。全体に衝撃が走ったと思ったら、頬がずるずると擦れた。
「みっともないわねぇ。ガキじゃないんだから、滑って転ぶなんてアホなこと、この場面でするぅ?」
けたけたと笑いつづけるヴィヴィを無視し、有希は立ち上がる。ベッドサイドに駈け寄る。
「~~~~っ!!」
そこで眠るルカの顔を見て、息を呑んだ。
真っ白なシーツ、真っ白な毛布に包まれたルカは、膿んだ傷口が有希の前で破裂してゆく。遠目には気付かなかったが、あちこち血が出て、枕もシーツも、血で滲んでいる。
(同じだ……)
王妃と同じ症状。十日熱が恐ろしいほどの速さで進行している。
目を背けてしまいたいほど痛々しい姿に、有希の心臓がきゅっと縮まる。
(もっと早く。こうなる前に来れたらよかったのに)
いつか見たときよりも、髪の毛が伸びている。眉にかかる程度の長さだった前髪は、頬にかかるほどだ。
(ごめんなさい)
遅くなって、ごめんなさい。
伝えたい事は沢山あるのに、言葉がのどでつまって上手く出てこない。
「ごめん、なさい」
かろうじて謝罪の言葉だけが出る。しかしその寝顔は答えない。
ベッドによじ登り、身を乗り出してルカを真正面から見据える。真っ白に包まれた金髪と真っ赤な顔。
その両頬に手をやる。――いつからか力を使う感覚が少しだけ制御できるようになっていた。自分の手と、ルカに神経を集中させる。すると途端貧血が起こり、頭がくらりとゆれる。――その感覚も、もう慣れたものだった。
ずしんと身体が重くなる。手足の末端が痺れ、視界がぐらぐらと揺れて、視界がちかちかと明滅する。
ねぇ。呼びかけて、有希の額をルカの額にこつんと当てる。額にルカの血が付くのがわかる。そのまま目を閉じて、話し掛ける。
「――ルカ、早く良くなって」
目を開いても視界が白い。ホワイトアウトしているのか、それとも自身の力が作用しているのか、もうよくわからなくなっていた。
「ずっと、ずっと会いたかったんだよ。ねぇ……ルカ…………きいてる?」
視界が白で染まる。ゆるゆると意識が遠のく。
けれどもそれは、決して不快なものではなかった。