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一体自分が、何をしたというのだろう。
何かをした報いで、ここに居るのだろうか。
オルガは驚きに眼を見開き、そして瞬時に腰元の剣の柄に手をかけた。
「!? お前は……」
「あっ……えぇと……」
びくりと肩が跳ねる。背筋にぞわりと悪寒が走り、一歩後退く。――が、転んで座り込んだままだったため、上体が反り返る程度だった。
オルガと目が合う。あからさまに眉をひそめられる。
「……お前には、母様の治療を頼んだはずだけどねぇ? この泉に来いだなんて僕言ったかなぁ。人払いはしてあるはずだけど?」
硬い金属が擦れる音と共に、オルガが剣を抜く。片手で構え、冷ややかな目で有希を睨む。有希は自分に向いた刀身にぎょっとして、また一歩後ろに下がる。スカートが草に擂れる。
「えっと! あの、あたし……」
声が震える。焦りと驚きと疲労で頭がまわらない。そもそも、何故自分がここにいるのか――そもそも、どこなのかすらわからないのに、居る理由を言えというのも無理な話だ。
座り込んだまま、わたわたとあたりを見回す。
まだ夕刻になるには時間があるのだろう。やわらかな日差しを受けた草原が、十畳ほど、大半を占める泉を囲むように群生している。その周りにはそれよりも丈の高い木が茂っている。
泉は城に面していて、こちらもきらきらと光っている。
『人払いはしているはずだけど?』
オルガの言葉にはっと目を見張る。
(今オルガが言ったこと……それなら、王妃のことも知らないはず)
不安定に反り返っていた身体を元に戻す。
(騙せ。――だいじょうぶ、騙せる。騙してみせる。嘘じゃないし)
きゅっと唇を引き結んで、頭を地面に押し付けて平伏してみせる。そして一気にまくしたてる。
「あ、お、見苦しい姿をお見せしてすみません。やっとお姿を見つけたので、慌てて転んでしまいました! 王妃様の治療が終わりまして、その報告を一番にオルガー王子にお伝えしたくて、あちこち捜していましたらここまで来てしまいました。立ち入り禁止区域に入ってしまって、本当にごめんなさいっ」
既に地面に近い頭を、更に地面に近づける。額を草がくすぐって少し痒い。突然頭を動かしたので軽いめまいを起こしている。
目を閉じてもぐるぐると頭が廻るのに辟易しながら反応を待つ。
どのくらい時間があっただろう。ほんの数十秒もないだろうに、何時間も待っているような気分にさせられる。
「――――そう。それは感謝するよ」
また金属のこすれる音が聞こえる。剣を鞘に戻したのだろう。有希はオルガに見えないように、ほっと息を吐いた。
(でも、なんだろう。違和感……)
なんだかもやもやとして落ち着かない。体調が悪いからなのだろうかと思ったが、ここ最近はずっと不調だったのに今更かと一蹴し、思考をめぐらせる。
「……ここにお前が現れたのも、そういうめぐり逢わせなのかな」
頭上から声が降ってくる。どこか頼りない声が。
(めぐりあわせ?)
おずおずと頭を上げる。そしてオルガの表情に息を飲んだ。
(これ、誰!?)
目を疑いたい衝動にかられる。目の前で立っているのは間違いなくあのオルガだ。しかし。
(なんでそんな顔)
有希がいつも見ていたのは、何かへの憎悪にたぎる、黒曜石のように何も見透かせない瞳。全身から滲み出る、冷ややかな空気。
それなのに今のオルガにはそのどれも見当たらず、あいまいな顔で笑っている。
驚きのあまり呆けている有希を尻目に、オルガは懐に手を入れる。そして何かを掴んだ手を差し伸べ、有希に受け取るように言った。どうしたらいいのかと戸惑っていると「母様に会いに行くから早くしてほしいんだけど」と言われ、慌てて立ち上がってオルガに寄る。
おずおずと手を伸ばすと、有希の手のひらにほの暖かいものが渡された。
(あ、騎士称と鍵だ)
有希の手のひらには、淡い紫銀色の騎士称と、細かい細工が施された金色の鍵が乗せられていた。
「これはこの棟の一番最上階奥の部屋のものだよ。――そこに居る子も治してやってあげて」
「……え?」
紫の騎士称、それから部屋の鍵。その先に居る人の治療。
(それってルカのこと、だよね)
「でも……どうして?」
ルカもオルガも、お互いがお互いを憎んでいるようにしか見えない。それなのにどうして、有希に騎士称を渡すのだろうか。
有希の疑問を理解したのか、片側の口角が上がる。
「どうして? わからないことを聞くね。お前は治癒能力を持っているんだろう? なら患者がいるのなら治癒するものなんじゃないのかい」
あからさまに見当違いの返答をされ、思わず眉をひそめる。
「そんなことお前が気にすることではないよ。過ぎた関心は身を滅ぼす――それとも、滅ぼされたいのかな」
そう言うと、剣の柄に手を伸ばす。慌てて有希はあとずさる。
「いぃいいえ! めっそうもないです!」
「なら早く行きなよ」
(……あ)
また、自嘲気味な笑み。
「…………どうしてこうなったのか、僕も知りたいくらいさ」
「え?」
「お前には言ってないよ。――もしあの子が起きたら、お前の思うようにしなさいと言ってくれるかい?」
「思うようにって……、それって」
「お前が興味を持つようなことではないよ。お前は僕に言われたまま、そのまま伝えるんだ。わかったかい?」
「あ、は、はい」
騎士称と鍵をきゅっと抱きしめる。くるりと踵を返して、建物の入り口を捜そうと一歩踏み出す。
「――それから、もし誰かに呼び止められたら、その騎士称を見せればいい」
「は、はい」
騎士称をぎゅっと両手で抱きしめる。
オルガが少しおかしいかったことや、どうしてあんな所にいたのか等、気にならないといえば嘘になるが、なによりも今、ルカへの足がかりを手に入れた事がなによりも嬉しかった。やっと、本当にやっと、ルカに会えるのだという確信が持てたような気がした。
体調は未だ優れないが、足取りは自然と軽く、速くなってゆく。