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誰かが有希を呼んでいる。
肩を揺さぶられる。
酷く身体がだるくて、まだ眠り足りない。
寒くて眠くてたまらないのに、誰かは有希を無理矢理覚醒に導く。
「ん……」
何故まだ寝かせてくれないのだろうと恨み言の一つでも言ってやろうかと目を開くと、至近距離にラッドの顔があった。
「……!?」
「あぁ、よかった」
驚いて身を竦ませると、ラッドはほっとしたように息を吐いた。
一体何が起きたんだろうと二度瞬きをする。ラッドに肩を持たれ、上半身を起こされている体勢であることに気付く。
そして次いで、王妃を治して、そのまま気を失ったということを思い出す。
「そうだ、王妃様……」
ベッドサイドに手を伸ばして起き上がろうとしたところで、するりと腰に回った手が有希を抱き起こす。
「ありがとう」
「いえ」
ベッドを見ると、王妃は眠っていた。
向かい側には医師が二人、王妃を見つめている。
「上手く、いったの?」
一歩、二歩。よたよたと歩き王妃の顔元を覗き込む。おずおずと手を伸ばして頬をなぜる。チルカの時と同じように、赤黒いかさぶたがぽろぽろと剥がれ、下からはふっくらとした肌色が見えた。
(よかった……)
ほぅ、と息を吐く。呼吸が安定しているようで、規則正しく腹部が上下している。
「きっともう、だいじょうぶです」
「貴女は一体何を――」
医師達が有希を見る。驚愕と畏怖の混じったその視線が痛い。
それは、いつか有希を化け物扱いした人たちの視線とよく似ていた。
「ラッド」
ベッドに片手を付いたまま、もう片方の手を差し出す。意図を察知したラッドは有希の手を取り、抱き上げる。
「はい。治療は終わりました。すみませんが彼女の体調が優れないのでこれにて失礼します」
「は、はぁ……」
もう踏ん張らなくて良いのだと思ったら、全身から力が抜け、くったりとラッドの胸にもたれる。部屋の扉をメイドが開ける。扉が閉まると、ラッドは小さな声を有希に掛けた。
「……ご苦労様でした」
「まだだよ。――次はルカ。おねがい、いそいで」
言葉を紡ごうにも、身体が酷く重たくて、寒くて、眠くて、今にも意識を手放してしまいそうだった。
「おねがい。はやく」
もし今意識を失ったら、このまま起きられないかもしれない。
酷く寒かった。凍えた指先にはもう感覚がない。口の中は乾き、呼吸も浅いものしかできない。
「おねがい」
かすれた声も、絞り出すようなうめき声にしかならない。
「――っ少し揺れますよ」
ラッドが走り出す。自身を支えきれない身体には力が入らず、頭がガクガクと揺れる。
そして揺れたのも数秒。突然ラッドが急停止する。
「ふざけんじゃないわよ」
怒気を孕んだ聞き覚えのある声が聞こえる。
首を動かして、無理矢理目をこじ開ける。そこにはいつか見た、薔薇の魔女が仁王立ちしている。
「……ヴィヴィ?」
「ユーキ様、お知り合いですか?」
「なにしてくれたのよってアタシは言っ・て・ん・の!」
「……なにって」
「アンタ、あの女の十日熱治したでしょ。ヒトの楽しみ奪うのやめてよねぇ。――あのクソ女が息絶えるのを楽しく眺めてたっていうのにさぁ」
「っ王妃様になんて――」
「アンタはちょっと黙ってて」
ヴィヴィが指をパチンと鳴らす。すると、ラッドの身体がかちんと固まった。
「ねぇユーキ、アンタ、自分が何やったかわかってンの?」
こくりと頷く。大仰な溜息を吐かれる。
「……しばらく見ないうちに、自分の目的すら忘れたワケ?」
「忘れてなんかない! ――今からルカのところに行くの」
大きな声を出したから貧血を起こしたのだろうか。視界がぐらりと揺れる。気の強いまなざしも、焦点が合わず睨み返すことができない。そんな状態に気付いたのか、ヴィヴィの声が弾む。
「――へぇ。力、発現したんだ? 今そんな姿だから勘違いしたのかしら――でも、カラダに合わないみたいね。そりゃそうよね、あんた本当はチビのままだし」
けたけたと笑う声が聞こえる。
「…………おねがい、ラッドを元に戻して」
ヴィヴィと会話することすら、体力を使う。
「カラダに合わないのにずうっと力使ってたの? バカね、そんな具合悪くして……死ぬわよ?」
「いいの、あたしがやりたくてやったんだから」
「っそ。相変わらずイイ子ちゃんね。殊勝なオコトバに吐き気がするわ」
「ヴィヴィ、おねがい」
「アタシがアンタのお願いなんて聞くと思う?」
すっぱりとそう言い切られてしまう。
「楽しみを人から奪っておいて、アンタはアタシにお願い事。――はいそうですかーなんて聞くワケないでしょ?」
視線が有希に刺さる。視線は感じるが、ヴィヴィがどんな顔をしているのかわからない。――もう、ほとんど視界が白んでいて何も見えない。
「でも……そうねぇ。見逃してあげてもいいわ」
「え」
「あの贄の王子ン所に行くんでしょ?」
(贄?)
「まさかアレがアンタの騎士だとは思わなかったけど。――騎士まで助けてあげたっていうのに、本当に恩知らずね。……まぁいいわ。とにかくアタシはあの王子の所で待っててあげるから、早く来なさいね」
足音が聞こえる。両頬にひんやりとした――ヴィヴィの手が添えられる。至近距離に来たからか、ぼんやりとヴィヴィの顔が見えた。
「もっとも、来れれば、だけど」
ヴィヴィの顔が楽しそうに歪む。
「え? なに?」
「アタシの楽しみを邪魔してくれたんだから、その分楽しませてよね」
ぱちんと音が鳴る。ざあっという音と共に、目の前が真赤に染まる。それが薔薇の花弁だということを、有希は経験で知っていた。
聞きたいことが幾つもあった。
何故ここにヴィヴィが居るのか、何故王妃の所に居たのか。王妃が死ぬのを眺めていたっていうのはどういうことなのか。ずっと聞こえていたあの笑い声はヴィヴィのものなのだろうか。贄とは、どういうことなのか。
そのすべてを聞く事ができなかった。なぜなら、有希が次に目を開いた時、有希は緑の匂いに包まれる場所で横たわっていた。
「……ぅ……ん?」
何が起きたのかわからず、むくりと起き上がる。どのくらい寝ていたのだろう。少しだけ身体が軽い。視力も若干戻っているようで、曇りがかっているが、視界は良好だ。
咽るような青い匂いと、日差しのやわらかな暖かさを感じる。
「ここ……どこ?」
よろよろと立ち上がる。まだ本調子ではなかったようで、貧血を起こして膝が地面を叩く。
(……いたい)
痛いのに痛いと言う気力もない。今度こそは倒れまいとゆっくりと立ち上がる。
(――――?)
「……ら…………ろう」
さわさわと木々が揺れる音に混じって、ぽちゃんという水音が聞こえた。それから、人の声。
(ひとがいる!)
ぼそぼそと小さな声が聞こえた。有希は笑う膝を叱咤して、声の聞こえる方へと歩く。
ここはどこなのだろうか。あれからどのくらい時間が経ってしまったのだろうか。
視界は晴れやかではないし、足も思うように動かない。よろよろと少しずつしか進めない。そのもどかしさに前傾姿勢になる。
距離にして、ほんの数メートルだが、有希にとっては何百メートルの感覚だ。
「――――ねぇ、ティーファ」
「ぎゃあ!?」
足元にあった――きっと木の根だろう。何かに躓いて、たたらを踏む。踏ん張りきれたと思ったのに、足がもつれて踏み出すことができない。
「っ誰だ!?」
「っわぁ!」
倒れる、と思った時には遅く、べしゃりと地面に頬をこすり付けていた。
「――っここは王族以外立ち入り禁止区域だよ。何用があって立ち入ったりするんだ?」
(気付かれた。いや、気付いて欲しかったんだけど。えと、えと、なにか言わないと……)
みっともない姿を見られてしまったと、羞恥で顔が赤くなる。慌てて身体を起こす。そしてその場所に居た人物を見て、凍ってしまったように動けなくなってしまった。
(オルガ……)
どこか見覚えのある泉の前に、その王子は立っていた。