92
ふらふらと促されるまま風呂場へ行く。メイドに脱がされるまま服を脱ぎ、腕を引かれるまま湯船に突っ込まれる。
普段なら熱いと言って出てしまいそうな温度の湯に浸かっていたが、かえって今の有希には丁度良かった。
循環していなかった血液が、血管が開くと共に巡っていくような気がした。
新しい着替え――薄水色のワンピースに着替えた頃には、寒気もどこかへゆき、幾分か落ち着いたような気がした。
――ざわついていた心も、ひどく凪いでいる。
部屋に戻ると、しかめ面をしていたセレナの顔がほころぶ。
「ユーキちゃん、大分顔色よくなったわ」
セレナは有希の前で膝立ちで有希の頬を撫ぜる。
「そう? ならいいんだけど」
ヴィーゴが、何か椀を持っていた。そしてそれを有希に飲むように言って差し出す。
「気休めにしかならんかもしれんが、一応」
「――ありがとう」
不思議と甘い匂いのする青緑色の液体――を飲む。えぐい青臭さと甘味に目を白黒させたが、なんとか飲み干す。
後味の悪さに若干涙目になっていると、ヴィーゴの大きな手が有希の頭を撫でた。
「……ユーキ様」
「うん、今いく」
「ねぇ、ユーキちゃん……」
セレナが見上げた姿勢のまま有希に手を伸ばす。
「セレナ」
ずっとずっと考えていた。幾度も幾度も考えては悩み苦しんだ。これからするべきこと。
「それにヴィーゴさんも」
二人を見つめる。
「リビドムからここまでずっと、面倒を見てくれてありがとう」
頭を下げることはできなかった。頭を下げたら、頭の重みで倒れてしまいそうだった。
「あたしの力が、少しでも役に立ててたんだったら、嬉しい」
セレナが息を呑みこむ。
「ユーキちゃん、いつから――」
「つい最近。ラッドに教えてもらったの。……セレナとヴィーゴさんがどういうつもりであたしと一緒に居てくれたのかわからないけど――あ、もちろんリフェに頼まれたんだっていうのもあるんだろうけど。それでも、沢山わがまま聞いてもらって、沢山よくしてくれて、あたしはやさしい二人が大好きで、一緒に日々を過ごせて、本当によかった」
半端に伸びたままのセレナの手を握る。
「な、なに言ってるのユーキちゃん、私達、まだユーキちゃんと一緒に居るつもりよ? ルカート王子にも話しなきゃならないことあるし……」
沁みるほどに暖かい手が、有希の手を握りかえす。
「それになんだか…………お別れの言葉みたいで嫌だわ」
察してくれたことが嬉しかった。このまま今の有希の気持ちのすべてが伝わればいいのにと思うと、笑みが零れる。
「ッユーキちゃん!」
「……嬢ちゃん」
声に振り返ると、ヴィーゴがひどく苦しそうな顔をしていた。
「――すまない」
「謝らないで。あたしはちっとも後悔なんてしてないんだから」
ヴィーゴと視線がからむ。懺悔をするようなその瞳に、安心して欲しくてたまらない。
「もしもこうなることを、もっと早くから知っていたとしても、あたしは同じことをしていたと思う。だから、自分を責めないで」
歩み寄り、ヴィーゴの手を握り締める。
「ルカが目覚めたら、ちゃんとリビドムの人たちの話、聞いて貰えるようにお願いするから。絶対に、セレナとヴィーゴさんと話をする機会作ってもらうから」
ラッドを見る。有希の視線を追うように二人は振り返る。ラッドは恭しく頷く。
「お約束いたしましょう」
「じゃぁ、大好きなセレナ、ヴィーゴさん、いってきます」
「待って、ユーキちゃん!」
セレナの手が伸びる。しかし、いつの間にか有希のすぐ傍に来ていたラッドがそれを払い落とす。有希はメイドに手を引かれ、部屋を出た。
「……これ以上、刺激を与えないで貰いたい」
「っふざけないでよ! こんなの――」
扉が閉まる。
『こんなの、あんまりよ』
悲痛な声が、めまいを誘った。
ラッドに手を引かれながらゆっくりと歩く。視界が上手いように利かず、身体も一歩一歩踏みしめるように歩かなければそのまま膝から崩れ落ちてしまいそうだった。
「――ルカ様の部屋は突き止めました。後宮の最上階です。……それから、入る算段も整えました」
「……そう」
「毎日決まった時間に、ルカ様の体勢を変えるんですけど、夕刻の当番のメイド達に心付けをしておきました」
結構大変だったんですよ。ガードが硬くて。そうぼやくラッドに、労いの言葉を掛ける余裕すらない。
(さっきはよくすらすら言えたなぁ)
今はただ、左右の足を出す事で精一杯なのに。
他の事を考えたからだろうか。右ひざに力が入らずにかくんと崩れる。しかしまるでそれをも予測していたかのようにラッドの腕が伸び、有希はいつの間にか横抱きにされていた。
「どうやらこっちの方が早く着きそうです。ご容赦下さい」
「…………」
「返事する気力すらない。……ですか」
その通りだったので返事をしないでいると、硬い声が聞こえる。
「……彼女達のガードが硬かったのには理由がありましてね。ルカ様、十日熱に掛かってるんですよ。王妃様と同時期に」
心臓がどきりと跳ねる。きゅうっと締め付けられるように逸る心を宥め、ラッドに視線だけで続きを促す。
「寝返りを打たせるためのメイドから貰ったのか、それとも人為的に感染させられたか、定かではないですけど。公に出さないという事は、このままルカ様を病死させたいんでしょうね」
ラッドの言葉からも、ひしひしと怒気が伝わる。その証に、有希を抱いている腕に力が篭った。
「王妃様は医師に看せ、ルカ様は放置ですよ。口止めの為か、毎日のようにメイドは入れ替えられ、担当したメイドはどこかに消える――胸糞が悪い」
有希も激しく同感だった。一体この国は、オルガは、ルカをどうしたいのだろうか。
「……ラッド」
「なんでしょうか」
「あたし、絶対ルカを治すよ」
「…………ありがとうございます」
そのまま、無言の時間が流れる。
有希はラッドに運ばれるまま、目を閉じる。身体のどこにも力が入らず、ラッドの動きに合わせて身体が揺れる。
次に目を開いたときには、ラッドの足は止まっていた。
「お待ちしておりました」
「治癒能力を持つ娘をお連れした」
ラッドが腰を低くし、腕を下ろす。有希に降りろということだと気付き、ゆっくりと足を降ろす。体勢を崩さないように、立ち上がるまでラッドが肩を抱いていてくれた。
「こちらがお預かりしていた薬と、白湯です。王妃様は今起きていらっしゃいます。――我等も同行させていただくが、構いませんか?」
「ああ、構わん」
「では――皇后様、失礼致します」
二人の医師が扉を開ける。入った部屋はとても広く――学校の教室一つ分ほどの大きさの場所に、大きな天蓋付きのベッドが真中に鎮座していた。
有希はラッドに肩を抱かれたまま歩く。何度かラッドの足を踏んだが、何も言われなかった。天蓋のカーテンをめくり、更に中に入る。
(……酷い)
肩を抱いていたラッドの手がぴくりと動く、ラッドもその有様に驚いたのだろう。
「……おはつにお目にかかります。皇后様」
「………………」
ベッドに横たわる人間に、有希は声を掛ける。
(疱瘡が出たのは、昨日のことだったはず――)
目の前に横たわる王妃は、かつての姿の想像も出来ないほど、身体中が疱瘡で埋め尽くされている。
「失礼します」
有希は手近にあった王妃の左手を持ち上げる。こちらも疱瘡で真赤になり、随所が膿んでいた。
(……っていうより)
驚きで目が冴える。尋常ではない勢いで、有希の目の前の左手に新たな疱瘡が生まれ、そして膿んでゆく。
「なに、これ」
「……皇后様の十日熱は、通常の何倍もの速度で進行しておられるのです」
その言葉に耳を疑う。
(何倍もの速さって、そんなのありなの?)
目の前の王妃が小さく呻く。それは本当に小さな呻きで、それがそのまま、王妃の生命力のようだった。
今にも消えてしまいそうで、今にも尽き果ててしまいそうで。
「ラッド。薬はいらない」
有希の背後で薬の用意をしているラッドを振り返る。そして目線でちらりと医師達を見遣る。ラッドは有希の意図を的確に理解したようで、一瞬だけ瞳が揺れる。
「すみませんが、診察中ですので、一旦天蓋から出てください」
「いやしかし、我らは皇后様を……」
「我々が居ると、彼女の気が散ります」
医師二人の背中を押すラッドが振り返る。有希と目が合うと微笑んだ。感謝の気持ちを込めて一つ頷く。それだけでくらりとめまいが起きる。
――時間がない。
有希はすぐさま振り返る。何かの生き物でもはびこっているような王妃の皮膚は、目を背けたいほどグロテスクだ。
「……今、治しますから」
聞こえているのかいないのか、王妃はまた一つ呻く。先ほどよりも小さな、か細い声だった。
有希は瞳を閉じて、大きく深呼吸をする。
ゆっくりと目を開ける。白くかすんでいた視界がクリアになった。そして人のものとは思えない程に疱瘡で包まれた左手を手に取り、きゅっと握る。
膝を付き、重ねた手に額を近づけ、祈るように呟く。
「……絶対、治しますから」
目を閉じる。閉じた瞼の奥からでも、手が発光しているのを感じる。じんわりと暖かい光が、有希の手から広がる。
――ずっと聞こえ続けていた笑い声が、ぴたりと止んだ。