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有希はもう一度、見覚えのある大きな建物を見上げた。
ここの門番からぞんざいに扱われたのはそう遠くない昔だ。そして、この中で過ごした一日は、とてもとても遠い昔のように感じる。
「……とうとう、かぁ」
感慨深げに見上げる。
ラッドから朗報を受けてから、五日が経っていた。
アドルンド王妃が、十日熱かもしれないものに感染したとの連絡が入ったのだ。
『一応、王宮には王宮仕えの医師達がいますが、十日熱には特効薬がありませんからね、少しでも評判のあるものは手中に入れておきたいのでしょう。――なんにせよ、これで王宮に入ることができます』
そして昨日、有希達はアドルンド王都に着いた。
ラッドの家に一泊し、そして本日。王妃が発疹したと有希に呼び出しがかかった。――医師たちが匙を投げたのだ。
セレナとヴィーゴはラッドの家で待っている。ヴィーゴに渡された薬は、左手に握った鞄にしっかりと入っている。
「では行きますよ」
隣に立つラッドを見上げる。首が痛くなるほど身長が離れていた青年ではない。そして有希自身も、あの頃と違う出で立ちなのだ。指輪の嵌ったてのひらが重なる事もない。
目の前の扉が、音をたてて大きく開く。
幾人もの人の視線が、ラッドと有希を襲う。
あまりに不躾な視線に困惑し、伺うように見上げると、ラッドは平然と歩いている。
どのくらい歩いているのだろう。踏み心地の良い絨毯は、どれほど歩いても足に負担がないようで、それに緊張もあいまって時間の感覚をも鈍らせる。
上り、下り、黙々と歩くラッドのすこし後ろを、大股に歩く。
大股で歩いているためか、だんだんと呼吸が荒くなる。有希が肩で息をしはじめた頃、ラッドが立ち止まる。
「こちらが謁見室です。陛下も病床に臥せっているために、オルガー様が謁見を行っております。……何を言われても、興奮してつかみかかったりしないようにしてくださいね」
(オルガー……)
胸元がじくりと痛む。痛みをやりすごそうと、目を閉じて深呼吸を一つする。
「……だいじょうぶ」
「オレが喋りますから、ユーキ様は下を向いて黙っていてくださいね」
「うん」
王宮に来る前にラッドと交わした言葉を反芻する。
『いいですか、ユーキ様。王妃様が十日熱に感染したということはですよ。王宮の十日熱が激化したということです。わかりますか?』
『うん……?』
『その顔はわかってないですね。いいですか? 端的に言うと、ルカ様が十日熱に感染する確率が上がったいう事です』
『――っ!?』
『どうして気付かないんですか。――あぁ、先が思いやられるなぁ』
『ご、ごめんなさい』
『いいですか、オレたちの目標は、ルカ様に会うことです。そして、ユーキ様は十日熱に関しては治すことが出来る。わかりますか?』
『っそれって! ルカが十日熱に感染すればいいって事?!』
『ご名答です。ユーキ様はその力で王妃を治す。そしてしばらくするとルカ様も十日熱に感染する。――するとどう出ると思いますか?』
『もう一度あたしに呼び出しが、かかる……』
『そういうことです。できるだけその前にお会いできるようには努力してみますが、一番有力な候補だという事を覚えていてください』
(でもその可能性は、低い)
ルカが十日熱に感染するとは限らない。いくら衰弱しているからといっても、ルカは有希の騎士だ。騎士は丈夫なのだ。
それでも、感染してもらわねば困るのだ。
有希は胸元をきゅっと掴む。
もし、王妃を救う事ができなかったら。ルカが感染しなかったら。感染したとして、有希が治す事ができなかったら。
そう考えると緊張と不安で、体からさあっと血の気が引く。
指先が冷たくなり、ぶるぶると震え出す。胸に振動が伝わる。
(もし、なんて考えちゃだめ)
「これからなんだから」
有希のその呟きは、厳しい扉が開く音にかき消された。
扉はゆっくりと絨毯をこすりながら開いてゆく。視界の端で、一生懸命扉を押している人の足が見える。
扉が完全に開ききると、声が飛んできた。
「お入り」
声が響き、有希の肩がぴくんと跳ねた。電流が走ったような痛みが胸に起こる。
「ユーキ様」
行きますよ。囁くような声が聞こえ、小さく頷く。しかし、痛みを堪えるために眉根を寄せているので、顔を上げる事ができない。
「ユーキ様」
せかすように言われ、有希は俯きがちに立ち上がる。そして下方にあるラッドの足を見ながら進む。赤い絨毯を踏みながらいくらか歩くと、ラッドは足を止め、その場にで方膝を付いて頭を垂れる。
それにならい、有希も両膝を絨毯に付け、膝より前に両手を置いて頭を垂れた。胸元は断続的に痛みつづけている。鼻の頭やこめかみに脂汗が吹き出る。見えはしないが、ラッドが顔を上げるのがわかった。
「――お呼びに預かりました、ラッドル・メンデにございます。此度は治癒能力を持つ娘を連れてまいりました」
朗々とした声が響く。それに冷淡な声が反響する。
「話は聞いてるよ」
「はっ」
ラッドが頭を下げる。
「持ってきたという薬も、劇物が入っていないか調べさせてもらう。いいよね?」
「もちろんにございます」
「それから、わかっているだろうけど、母様になにか危害を加えるような素振りをしたら、その命は無いものだから」
「そのようなことは致しません」
「――そう」
挨拶のように、淡々と話がすすむ。それは話というよりも、確認作業のようにしか聞こえない。
有希は俯きながら、未だ胸の痛みに顔をしかめていた。
「――そういえば、そこの少女の顔を見ておきたい。母様の命の恩人になるかもしれないからね」
「かしこまりました」
謁見室がしんと静まる。そして有希の背中に視線が刺さる。
首筋を汗が通り、その感覚にぞわりと鳥肌が立つ。
「ユーキ様」
ラッドが小さく囁く。しかし、その言葉を聞き入れている余裕がない。
胸が痛くて痛くて、絨毯に当てている手が震えている。
(止まれ、止まれ)
胸の痛みに対してなのか、震えに対してなのか。唇を噛んで痛みをやり過ごそうと眉根を寄せる。
(大丈夫、絶対、だいじょうぶ)
思い切り息を吸い込む。目を閉じて、体一杯に酸素が巡るのを実感する。そして鼻からふんと吐いて、ゆっくりと顔を上げる。
――もう、手は震えていなかった。
顔を上げた先にあったオルガーの姿は、いつか見た姿とさほど変わりはなかった。
黒い髪、黒い瞳。組まれた足。頬に当てられてた手。
荘厳な部屋に居ても何ら遜色の無い、優雅な出で立ち。
「へぇ、お前が」
口角を上げて笑う視線に射抜かれ、いっそう胸が痛む。
(――っやっぱり、だめだ)
視線を下げ、また俯く。俯いた瞬間に目から涙が零れ落ちる。手の甲にぱたりと水滴が落ちる。
ラッドに釘を刺されたのに、怒りで頭が沸騰してしまいそうだ。
(言っちゃう)
無意識に手が伸び、口を覆う。何も言わないようにと無理矢理口を塞ぐ。口が覆われる事で息が荒くなり、涙はいっそうこぼれた。
何故戦争を起こすんだ。
何故のうのうとそこに座っているんだ。
何故自分の母親だけ救おうとする。
ひとごろし。あの子の母親は殺したくせに。酷い。ひどい。非道い。なんで。なんで。狂ってる。狂ってる狂ってる狂ってる。
あの黒い瞳が。憎悪に沈んだあの瞳が。押し留めたはずの憎悪を無理矢理有希の中から引き出す。
喉の奥が引きつったように鳴る。
言葉にならない憤怒が、ただただ涙となって零れ落ちる。
胸の傷が痛いのか、心が痛いのかわからない。ただ涙が零れ、罵倒の言葉が出ないように口を塞いだ。
「失礼します!」
途端、横から手が伸びて引き寄せられ、有希は体勢を崩し、ラッドにもたれかかる形になっている。ラッドはそんな有希を隠すように、ぎゅっと抱き寄せた。
「このような振る舞い、殿下のお心に不快な思いをさせてしまい、申し訳ありません。――実は、昨晩何者かが彼女を夜襲しまして、それから人と目を合わせる事が出来ないのです」
「……そんな事、僕の耳には入っていないんだけど」
「は、王妃様の事でお心が穏やかではない殿下に、これ以上心労を掛けさせたくありませんでした。……それに、事はメンデ家で起きましたこと。大事にすべきでも無いと思いまして、口外はしておりませんでした」
「そう。――母様を良く思っていない者が手を出したのだろうね。なら心痛を労うとともに、王宮に部屋を用意しよう。王都に逗留している間はそこで過ごすと良い。そうすれば、メンデ家みたいに襲われることはないだろうから」
「……寛大なお心遣い、感謝いたします」
ラッドは有希を抱きかかえながら話を続ける。ラッドの過ごす部屋も用意するという事、それから診療の時間等を話し、会話が終わる。
「それでは、失礼致します」
そう言うと、ラッドは有希の脇に片手を差し入れ、口を押さえたままの有希を立ち上がらせる。もう涙は出ていないが、小刻みに震えている。
有希を慮りながら、数歩歩いたところで、オルガが呼び止める。
「あぁそうだ。一つその子に聞きたい事があるんだけど」
有希は背中から廻ったラッドの腕に抗う事が出来ず、もう一度オルガに対面する。視線を落としたまま、目の前にある階段を凝視している。
「その子……魔女の呪いは解けるかい?」
「呪い、ですか?」
応えたラッドが有希を見遣る。
(そんなの、やったことない)
力なく首を振る。泣いた所為か、酷く頭が重かった。何かを考えようにも思考は動かず、ただぼんやりとしてしまう。
「…………そう」
ラッドがもう一度頭を下げ、そして歩き出す。有希はラッドに支えられるままに歩く。
謁見室の扉が閉まる音が、やけに大きく聞こえた。