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紫の瞳  作者: yohna
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  なんだかとても、良い匂いがした。


 学校帰りによく買い食いした、肉まんやあんまんのような――小麦を蒸したような匂いが鼻腔を刺激する。

 すると空腹を忘れていた胃が突然収縮をはじめる。

「……ん」

 椅子に座ったまま寝ていた。いつの間にまた意識を失ったのかと自覚する。

 とろとろとした眠気は尾を引き、また瞼を下げて眠らせようと有希を誘惑する。

「あら、起こしちゃったかしら」

 肩から何かが落ち、ひやりとした空気がやってくる。視界の端で、ブランケットが落ちて椅子に絡まる。

「でも丁度良かったわ。食事持ってきたの」

「……セレナ」

 セレナは有希の向かいに座っていた。そして有希と目が合うと、ぷっと吹き出す。

「やだユーキちゃん、おでこに机の後が付いてる」

 くすくすと笑うたびに、高いところで括られている薄紫の髪が揺れる。

 そんなセレナをぼんやりと見る。

(……なんにもないように)

 何事もないように振舞っている。

 有希は額を手でさすりながら自嘲の笑みを浮かべる。

(違う、セレナは今までどおりなんだ)

 変わってしまったのは有希なのだ。気付いていなかったことに気付いてしまった。

「食事。持ってきたんだけど、ベッドに行って寝る? それともベッドで食べる?」

 心配顔で覗き込むセレナに、ぎこちなく笑いかける。

「どっちにしたってベッドなんだ」

「そう。ユーキちゃんは私と話してても、食事中でも寝ちゃうからね。――ベッドに移動しましょ?」

 心配顔で笑みかけるセレナに首を振る。

「寝ないから、ちゃんとここで食べるよ」

「あら、そう?」

 そう言うと、セレナはテーブルの上にトレイを載せる。そして蒸したパンを一つ、有希に差し出す。礼を言って受け取り、頬張る。

(信頼……)

 ラッドの言葉が未だに頭にこびりついている。

(信頼、しちゃいけないの?)

 目の前のセレナは、有希が食事を摂っているのを見ながらニコニコと笑っている。

 ここ数ヶ月、ずっとずっと一緒に居た。それなのに。

(どうして黙ってたの? どうして教えてくれなかったの?)

 問うように見つめると、セレナが首を傾げる。

「どうしたのユーキちゃん、あ、もしかして味薄かった?」

 有希は小さく首を振る。

(言って、もしあたしをいいように使いたかっただけだって言われたら?)

 もしかしたら、知ってしまったがために有希に対する態度が変わるかもしれない。

 今のように居られないかもしれない。

 突然態度を変えられるかもしれない。

 それならば、なにも知らないままで居たかった。

 もしも二人が有希を良いように利用していたとしても、それを知らない有希は確かに幸せだった。

(なんであんなこと言うの)

 その言葉を発したラッドもまた、有希に対してとても誠実に接してくれた。そんな彼が、慮って言ってくれた。

 八つ当たりをしてはいけないとわかっている。有希のために言ってくれたのだ。

 自身の身体を張ってまで、有希の能力を気付かせたラッド。彼を信頼していないわけではない。けれども、セレナとヴィーゴも信じたい。

(だって)

 有希は蒸しパンを頬張る。大きな塊を飲み込もうとしたが、飲み込みきれず喉につかえて涙目になる。セレナが慌てて水差しを取りに部屋を出た。

――今までのことがすべて、有希の力のため。

 有希を大事に扱っていたのも、怪我でもされて使い物にならなくなったら困るから。

 勝手に行動して怒ったのも、勝手に動いていなくなったり、力に気付いてしまったりするかもしれないから。

 今こうして、目の前で色々気を使ってくれるのも、まだまだ使うつもりだから。

――もしそうなのだとしたら。

(そんなの、たえられない)

 目からぽろりと涙がこぼれる。



 自分の力に気付いてしまったという事は、幸せなのだろうか。

 いっそのこと、知らないまま一生を終えられればよかったのに。

 有希は椅子に座ったまま、ぐったりとテーブルに伏した。

「今日のユーキちゃん、なんか鬼気せまってなぁい?」

 陶器のぶつかる音、それからふわりとやわらかな紅茶の匂いが身体をくすぐる。

「そう……かなぁ」

 セレナの言う事はもっともだった。有希自身も自覚している。

 ――今まで患者に接してきたように、接する事ができないのだ。

 今までのように患者に接していれば、一番自然な形で力が使われているのだろう。

 それなのに、力の有無を自覚してしまった途端、今までどう接してきたのかがわからなくなった。

「まぁ、焦っちゃうのもしょうがないわよね」

 その事実を違う意味で捉えたのか、セレナは慰めるように有希の頭を撫でる。

「まだ体調あんまり良くないんでしょ? ゆっくり休んだほうがいいわ」

 細い指が髪を梳いてゆく。その心地よさで、有希の中の眠気が肥大する。

「――それが、あんまり休んでもいられないみたいですよ」

 突然ラッドの声が聞こえて、有希は顔を上げる。

 換気の為に開かれていた扉をコツリと叩いたままの姿が見える。

「あら、どうして?」

「朗報です」

 その言葉に、有希の心臓がぎゅっと掴まれたような感覚が走った。

「ユーキ様に、王宮から呼び出しが掛かりました」

 弾かれたように顔を上げる。そこには酷く楽しそうなラッドの顔があった。



 季節は枯葉の季節――秋だ。

 有希がアリドル大陸にやってきたのは花の季節。春だった。

 ルカ達と離れ離れになったのは、初夏だ。気が付けば、幾つもの季節が移っていく。

 有希は薄手のストールを肩に巻き、バルコニーの窓を開けた。

 途端にひんやりと冷気が部屋に入る。もやもやとした気分が充満している部屋に、綺麗な空気が入っていく。

「――ふぅ」

 バルコニーに出て、空を見上げる。

 夜空は星が煌めいている。とろとろとまどろむ瞳で見ると、夜空が歪む。

 眠気はいつでも有希を誘う。それでも有希は眠りたくなかった。

 コツコツと、扉をノックする音が聞こえる。

「どうぞ」

 振り返らずに答える。満天の星空が、藍色ににじむ。

 扉を開く音が聞こえる。そして部屋に入ってくる靴音。それでも振り返らずに夜空を見上げつづける。

「ごめんね、こんな時間に呼んだりして」

「いえ、むしろ嬉しいですよ。ユーキ様からそれだけ信頼を得ていると実感できますから」

 優しく甘い声が耳に入る。有希は大きく一つ呼吸し、振り返った。

「言いたい事があって」

「……なんでしょう? 明日の事はもう――」

 有希は首を振って、きゅっと唇を噛んだ。

 何と言えばいいのだろう。言いたい事は沢山あるのに、思うように言葉にならないのがもどかしい。

「……ラッドは、セレナとヴィーゴさんを信頼しないほうがいいって、言ったよね」

 一つずつ、紡ぐように喋る。

「言われてから、色々考えたの。あの二人は本当はどうしたいんだろうって、あたしに何をさせたいんだろうって」

 鼓動がどきどきと脈打つ。それを静めるかのように、冷たい風が頬を撫ぜる。

「本当に、色々考えたの。……ラッドが言ってたように、あたしのこと良いように使いたいだけなのかな、とか、でもあたしもアドルンドまで連れてきてもらったからギブアンドテイクかな、とか」

 ふわりと髪が揺れる。髪の隙間を縫うように吹いた風が耳をかする。

「ラッドはあたしに、あの二人を信頼しないほうがいいって言ったよね」

 確認するように、もう一度問う。

「――えぇ」

「ラッドが心配してくれて言ってくれてるのはわかるの。でも、それは無理。たとえあの二人があたしの力を利用してたとしても、あたしは二人が大好きだし、これからも今までのままでいたい」

「……酔狂な人ですね」

 笑む顔に、少しだけ軽蔑の色が入ってるのに気づいたが、知らない振りをして笑う。

「根拠のない信頼だけは得意だからね」

「世界に悪人が一人も居ないと思ってらっしゃるんですか?」

 そうは思わないけど。そう言ってまた笑う。

「パパが……あたしの父親が言ってたんだけどね、人間は、善悪両方を持ってるの。ただその比重が違うだけ」

 いつだったろう。快斗がそう有希に言ったのは。

(そう。あたしがアーチェリーをやめようとしたときだ)

 大会に出ると、どうしても公の場に出ることになる。

 姿形が全く変わらない人間が、何年も大会に出るということは、何も知らない人には一種の恐怖だったようで、心無い人たちからの悪意に、有希は根をあげた。

 人間じゃないと罵られ、視界に入るなと罵倒され、それでも我慢していたが、悪意はどんどんエスカレートしてゆき、挙句の果てには大会自体にも支障が出るようになった。

『それでも有希、あの人たちを嫌いになるのはだめだよ』

 快斗は有希を抱きしめて言った。

「……人を嫌いになるのはとても簡単。でもそこからは何も生まれない。――だから、あたしはあの二人を好きでいるの。もし悪意でもってあたしに接しているんだとしても、あたしは二人の善意を信じる」

 言って、ふんと鼻をならす。とてもすっきりした気分だった。

「そもそも、利用されてたって言っても、二人は十日熱患者のためにだけあたしを利用してた。それにもし、あたしが自分の力を知ってたとしても、十日熱の人たちに使いたいって思うもん」

(そうだよ。何で悶々と考えてたんだろう)

 挑むようにラッドを見ると、ラッドは渋い顔で言った。 

「それがもし、貴方の命を削るものだとしても?」

「え?」

「貴方がその力を使えば使うほど、貴方は消耗していく。体力も、寿命も。……それでもユーキ様は民を救うと仰られるんですか? 自分の命を代償として?」

 その言葉が、どこか懐かしく響く。

 国のために、民の為に、死ね。

 酷い言葉であるはずなのに、どこか胸が温かくなる。――それほどまでに、国を、民を愛していた彼は、今何をしているのだろうか。

 有希は微笑む。

 あの時とは違う。有希は直接人と触れ合ってきた。その暖かさ、優しさを知っている。

「あたしがこの力を使うことで、この世界の人が幸せになれるなら、喜んで使う。――結果として、あたしが死ぬ事になったとしても、本望よ」

(だってあたし、何も持っていないもの)

 有希が死んだとして、悲しんでくれるはずの両親も友人もこの世界にはいない。皆、有希が死んだ事にも気付かないだろう。

「もしあたしがこの世界に来た意味が、そうすることが運命だというのなら喜んで受け入れる」

 そうすれば、異物である自分がやっとこの世界に受け入れられる気がするのだ。

「……だから、あたしに言ってくれたんだね。ありがとう」

 有希を案じてくれるラッドの優しさが嬉しくて、頬がほころぶ。

「あたしが死んでも、ちゃんとセレナとヴィーゴさんはルカに会わせてね。ぜったいよ?」

 ラッドの顔がいっそう苦渋に満ちる。信じられないものを見るような目つきで、吐き出すように言った。

「ルカ様を起こすまでは、死なせませんから」

「だったら早く、ルカの寝ている所に行ける算段を立ててちょうだいね?」

 にっこりと微笑んで、踵を返す。もう話すことはこれ以上ないという意思表示だ。

 有希はもう一度夜空を見上げる。

 ずっと探していた。自分がこの世界に来た意味。

(十日熱で苦しむ人、それから――ルカを助けること)

 ルカを助けることで、ルカはリビドムと協力して、マルキーとの戦争を終結させることができるのだろう。

(もしそれが、あたしがこの世界にきた意味だとするのなら――)

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