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それは一瞬のことだった。有希はラッドの左腕に現れた十五センチほどの傷口から鮮血が涌き出てくるのを目撃してしまった。
霞がかった思考が一気に晴れ、突然の出来事にパニックを起こす。
「あ、な、なななに、なに?」
「落ち着いてください」
ラッドは言うと短剣を仕舞う。その間も腕からはダラダラと血が流れていく。
「落ち着いてなんていられないよ! っていうかなんでそんな平然としてるの! 痛くないの!?」
「痛いですよ」
平然とした顔つきで、腕を有希に差し出す。
「え? え?」
テーブルに血がぱたぱたと落ちていく腕を直視できず、おろおろとラッドに懇願する。
「なに? どうしたらいいの?」
「とりあえず、止血してもらえますか?」
「わ、わかった!」
派手に音を立てて椅子から立ち、ベッドシーツをずるずると引き抜く。シーツの端を数度畳み、ラッドの腕に押し付ける。
「な、なんでこんな事?」
おろおろと見上げると、ラッドはため息を吐いた。
「ユーキ様、十日熱の患者と接するとき、気を付けてることはなんですか?」
「え?」
唐突に問われて、ふと考え込む。まわらない頭がからからと音をたてているような気がする。
「……早く良くなりますように。かな」
「ではオレにもそう思ってください」
「な!」
ニッコリと微笑むラッドに面食らう。
「じ、自分で切ったんじゃない!」
「いいから思ってくださいよ。これでも結構痛いんですよ」
「そ、そうだよね……大丈夫?」
ぎゅっと腕に押し付けたシーツを見ると、じんわりと血が滲み、ゆっくりと赤色が侵食していっている。
「ホラ、早くしてください」
「う、うん……」
急かされるまま、心の中で呟く。
(早く良くなりますように……)
見ているだけで痛々しいその赤に、有希は眉根をひそめる。
(って、あたしがそんな風に祈ったって、変わるわけないんだろうけど)
「でも、早く血、止まるといいね」
励ますように笑ってラッドを見上げると、ラッドは驚いた顔つきで自身の左腕を凝視していた。つられるように痛々しい腕に視線を落とす。
「…………なにこれ」
ラッドの左腕――ではなく、自身の手の、シーツと触れ合っている部分がほの白く発光している。
驚いて動けずにいると、ラッドが右腕でシーツを剥ぎ取る。
そして現れた十センチほどの長さのかさぶたが、端からじわじわと治ってゆく。見る間にかさぶたは小さくなってゆく。
「――驚いたな。こんなに早く治るものなのか」
「え、えぇええ?」
それからものの十数秒の後には、傷口は跡形も無く消えていた。
「…………なに、今の?」
「ご理解いただけましたか?」
間抜けにも開いた口がふさがらず、思考も止まる。
「これが、ユーキ様の力です」
「ち……から?」
呟いて、はっと思い出す。
『いいかい? 有希。もし有希に力が発現したら、人前でみだりに使ったりしないことを約束して』
――力。それは、今の出来事のことを言うのだろうか。
「え? えぇ? ええええええええ!?」
(何? いまの何? え、今のがそうなの? ねぇ、ねぇ! パパ!)
いったいいつから。どうして。何で。そんな疑問が頭をぐるぐると廻る。
(え、いつから?)
いつの間にそんな事ができるようになったんだろうと考えていると、大きな手の平が伸びてきて、両手で頬を覆われる。そして、そのままぐいと顔を上向きにされる。
「ご理解いただけましたか? ご自身の重要性。――それから、この力は体力を消耗するようです。ここのところずっと体調を崩されていたのもそれが原因でしょう。今日も病室を歩いて廻ったのですから、ゆっくり休んで下さい」
「ふぁ、ふぁい」
灰色の瞳が揺れる。
「――貴方が居なければ、ルカ様が目覚めるかもしれないという可能性が一つ潰えるんです。其処のところ、お忘れないようにお願いしますね」
こくこくと頷くと、拘束がほどかれる。
「わかりましたか? 治癒能力を持つ人間なんて、極一部の魔術士と魔女だけです。それにオレの推測だと、ユーキ様の能力は桁違いです。――たとえば貴方がどこかにさらわれたとしましょう。そこが戦場だったら貴方は死ぬまで使われつづけますよ。そして、敵方からは目障りだからと狙われる。――どちらにしても、最悪です」
「う、うん」
「なので、あまり自分を軽視しないようにしてくださいね」
「わ、わかった」
「まぁ、今の状況もそう変わっていないかもしれないですけどね」
「え?」
ぽそりと呟いた言葉は、誰に向けての言葉だろうか。
ラッドは笑む。
「――いえ、当面はオレがお守りするので安心なさってください」
「え、あ、はい」
ぐるぐると混乱が消えないまま、有希は曖昧に頷いた。ラッドは満足気に笑った。
(あたしの、ちから)
今でもまだ信じられない。青とも緑とも白ともつかない色に光った自分の手。
(この力があれば、何ができる?)
ラッドはルカを目覚めさせるのに必要だと言った。
(起こすのに……?)
リフェノーティスはルカが牢に居ると言った。そして、ラッドはルカが寝ていると言った。
「ねぇラッド、ルカは今どこに居るの?」
「ルカ様は、今はご自身の自室でお休みになっておられます。――もっとも、誰も部屋に入れないんですけどね」
「部屋に、入れない?」
「そう。部屋の管理はすべて王妃様とオルガー様がやられていて、こちらからは手が出せないんですよ。――時折人が入っては、姿勢を変えたりさせているみたいですけどね」
「そうなんだ……」
自分の部屋で寝ている。そのことが有希の気持ちを少しだけ軽くした。
(冷たい牢屋に閉じ込められているわけじゃないんだ)
そしてふと、疑問を思いつく。
「ねぇラッド、ラッドから手を出せないのに、よくルカが部屋で寝てるってわかったね」
「え? あぁ、まぁ……――使えるものは、なんでも使うのがオレの信条ですから」
そう言うと、ラッドが淫靡に笑う。有希にはその笑顔の意味がわからなかったが、何故か鳥肌が立った。頭の奥でこれ以上突っ込んで聞いてはいけないと警告が出る。
そんな有希に気付いたのか、ラッドは声を上げて笑い、有希の頭を撫でる。
「まぁ、ユーキ様はそんなことをお考えにならなくてよろしいですよ。――近々、朗報が入ると思うので、それまでゆっくりと休んで英気を養ってください」
ラッドは有希が寝ていた――シーツを引き抜いた方とは別のベッドに行き、掛け布団を捲る。
「オレがまた無為に力を使わせてしまったから疲れたでしょう。――どうぞお休みになってください」
優しく笑む姿に首を振り、有希は椅子に座る。
「ううん、大丈夫。これ以上寝ると、本当に夜眠れなくなっちゃいそうだから」
「そうですか。では、オレはそろそろ行きますね」
「うん。――色々、教えてくれてありがとう」
「いえ、ユーキ様のお願いとあらば、このラッドル・メンデ。月でも太陽でもお持ちしましょう」
さらりと言ってのけるその言葉の壮大さに、有希は一瞬面食らう。そしてそれが冗談だと気付くと、噴出して笑った。
「あはは。いいよそんな。太陽も月もいらないよ」
「残念。オレの手腕を見せるいい機会かと思ったんですけど」
ラッドの顔が唐突に神妙に変わる。その変わりように有希はまた面食らい、目をぱちぱちと瞬かせた。
「ではそんなユーキ様にはもう一つ進言しておきます。――あの二人をあまり信頼なさらないほうが良い」
「え? それって」
誰のこと。そう言おうと口を開く。しかしラッドは有希が口を挟む間も与えず喋る。
「あの二人はユーキ様の力を知っていて黙っていた。……そういう事です」
その言葉にはっとする。そして次いで疑問が湧く。
(……どうして?)
自分の手の平を見る。十歳の姿のそれよりも、少しばかり大きくなった手。
扉の閉まる音が聞こえる。途端にしんと静まり、部屋は静寂に包まれる。
「知ってたの……?」
思い起こしてみると、そういう場面があった気がする。
有希を十日熱に感染させられないと言いながら、患者の面倒を看させていた。
そしていつだったか、血まみれの男に駈け寄った有希に、ヴィーゴは大きな声をあげて制止しなかっただろうか。
はっと思い出す。あの孤児院での出来事。
「……チルカ」
あの時初めて十日熱に出会ったから知らなかったが、リビドムを廻った今ならわかる。疱瘡ができるまで深刻な状況に居た彼女が、あんな短期間で完治するはずが無い。
「あれは、あたしの力?」
誰かが、頭の奥で笑っている。
(気付いてた? でもいつから?)
フォルで、患者の投薬をすべて有希にさせていたのも、その為なのだろうか。
笑い声は次第に有希の脳髄を引っかくような頭痛と耳鳴りに変わる。
首の後ろがひやりと冷えて、突然頭が重いもののように感じ、ぐらりと前方に揺れる。
『――あの二人をあまり信頼なさらないほうが良い』
(そんなの、できない)
あの二人はいつも有希を気遣ってくれた。いつも有希を優先してくれた。
『――あの二人をあまり信頼なさらないほうが良い』
ラッドの言葉が何度も何度も反響する。
どうして教えてくれなかったのか。
どうして気付いても言ってくれなかったのか。
どうして。どうして。どうして。
考えても尽きることのない疑問に、こめかみがぎりりと痛む。
「あたしは!」
右も左もわからない、ぐらぐらと揺れる中、叫ぶ。
意識を失わないように。自身を失わないように。
(どうしたらいいの。なにを信じたらいいの)
そう問いたい相手は、一体誰なのだろうか。
頭の奥で、誰かが笑っている。




