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もうすぐルカに会える。
そう言われてからまた数日が経った。
あれから、有希の生活は一変した。
ラッドの家――メンデ家からやってきたというメイドが、有希付きとして派遣されてきて、起床から就寝まで何から何まで世話をするようになった。
起床すると着替えを手伝われ、食事の用意、片付けをされる。
部屋から出ないように言われてしまっている有希は、投薬の為に呼ばれるまで部屋で待機。フォル城の部屋を廻って戻ると、また部屋から出ないように言われ、そうして一日が終わる。
唐突に暇を渡されてしまった事が原因なのか、それとも体が訴える不調に知らない振りを通していたからなのか、有希はよく眠るようになっていた。
部屋を出ている時はてきぱきと動くが、部屋でじっとして居るといつの間にか眠ってしまうので、ほとんどベッドで寝て過ごしていた。
セレナはそんな有希を心配してか、単に暇なのか、よく有希の部屋に顔を出しては二人で紅茶を飲んで雑談を交わした。
――そして、雑談の途中で眠ってしまう事も度々あった。
昼過ぎに唯一の外出である投薬を終え、部屋に戻るとまたベッドでとろとろと眠っていた。
衣擦れの音が聞こえ、有希はまどろみの中から引き上げられる。
「あ、起こしてしまいましたか」
ラッドの声が聞こえる。すまなさそうなその中低音に、寝起きで若干低くなった声で答える。
「ううん、眠るつもりなかったんだけどな……」
(また眠っちゃった)
のろのろと動きの遅い思考は、また有希をぼんやりとした眠りに誘う。
目を何度か瞬かせて、頭をはっきりさせるように頭をふるふると振る。
「これ以上寝てると、夜眠れなくなるし」
本当はそんな事ないのだが、今までの生活習慣からか言葉が口から滑り出る。
「まだ眠そうですよ。――何かすっきりするような物をもってきましょう」
そう言うと、ラッドは部屋の入り口に立っていたメイドを振り仰ぐ。メイドは一つ頷くと、部屋を出て行く。
「……ありがとう」
有希の思いとは裏腹に、落ちそうな瞼を必死に持ち上げ、笑みかける。
このままではまた眠ってしまうと思い、有希は毛布を捲り、ベッドから降りる。
意図を察知したのか、ラッドがテーブルに向かい、椅子を引き有希を待った。
「ありがとう」
ラッドの厚意に甘え、有希は腰を降ろす。
まだ回転の鈍い頭が冴えるのをじっと座りながら待つ。
「ラッドも座りなよ」
有希の傍に控えていたラッドに声を掛けると、ラッドは苦笑する。
「勝手に座っていいのに……」
ラッドは、先日以来、とても他人行儀に振舞うようになった。有希が『ラッドさん』と呼ぶのを呼び捨てにさせ、軽口も言わなくなり、常に敬語を使うようになった。やめてくれと何度言っても、有希を様付けで呼ぶ。
「ではお言葉に甘えて」
ラッドもまた、有希の過ごす部屋によく顔を出すようになっていた。
何故かと問うたら、貴方は無防備すぎます。と逆にたしなめられてしまった。
『彼等もそうですが、ユーキ様も危機感がなさすぎます』
『危機感って言ったって……』
『いいですか? 貴方はオルガー様から目を付けられている。そして今は偽装していて大丈夫かもしれませんが、マルキーからも狙われているんでしょう』
『でも、マルキーではもう処刑されたことに……』
『甘いです。マルキーで処刑された事になったということは、誰かが真実を隠蔽しているんです。――真実を知っている人間は確実に居る。そしてまた、他に真実を知る物を排除しようとする。そういうものなんです』
言葉に詰まって俯く。返す言葉が見つからない。
『貴方はもっと、ご自身の重要性を考えるべきです』
『あたしの、重要性?』
そんなやり取りを思い出して、自嘲した。そんなものあるのだろうか、と。
十日熱患者を看病すること。――医者でもない有希が必死に頑張ろうと、代わりはいくらでもいる。
ルカの主人。――それこそ、有希が死んでしまえば、また別の主人が現れる。
(何も、ないじゃん)
現に今、有希はほとんど何もせずに眠ってばかりいる。
あれほど忙しく動き回り、皆に指示を仰がれて一生懸命に応えていたのに。
(本当に、なにもない)
「あたしの重要性ってなんだろう」
自問の言葉がぽろりとこぼれる。向かいに座っていたラッドが訝しげに有希を見る。
「今までそんな事考えた事もなかった。日本に居たときも」
ただただ毎日を過ごしていた。
「大学に行って、勉強して、就活して就職して、いつか社会人になって働くんだと思ってた」
時折友達と遊んで、出かけたり。日常の中に非日常がぽつぽつとあればそれで満足だった。
自分自身の存在価値なんて、考えた事も無かった。
(考えた事がないってことは、考える必要がなかったんだよね)
それがどんなに幸せな事だったろうと、今なら思う。
「何を仰られてるんですか?」
「え?」
(あ)
向かいにラッドが座ってたことを思い出す。またぼんやりとしていたと、自分をしかりつける。
ラッドの灰色の目が、有希をじっと見つめている。
「ダイガクやらニホンやらシュウカツやら、オレにはわかりませんけど。……ユーキ様、自分の重要性わかってないんですか?」
「だから、そんなもの……ないんだってば」
何でそんな事を言うのだろう。ただでさえ打ちのめされた気分なのに、それ以上抉るような事を言うんだと、ラッドをねめつける。
ラッドはそんな有希を見つめ、そして歎息をついた。
「貴方が居なければ、きっと今頃フォルは十日熱で壊滅していましたよ」
「そんなお世辞言わないでいいよ。きっとラッドなら何とかしたでしょう?」
ぎすぎすと心が軋む。そんな事言いたくないのに、口からは嫌味が出て行く。そんな有希に気付いているのかいないのか、ラッドは苦笑して言葉を続ける。
「まぁ、何らかの対策は練るでしょうけどね。それでもオレには患者を救えない」
「そんなの、あたしだってできないよ。……あたしにできるのは、せいぜい薬作ったり、声掛けしたり、洗い物するくらいで」
言えば言うほど気が滅入ってゆく。今まで考えもしなかったのに、自分のしてきたことの意味を、それがどれだけのものかと、考えてしまう。
(そういう問題でもないのに)
「――ユーキ様、もしかして知らないんですか?」
「……何を?」
どんよりと思い気持ちでラッドを見る。ラッドはそんな有希の顔に驚いたのか何なのか、驚いたように眉を上げる。
「あぁー。詳しい事を言っていないだけなのかと思ったんですけど、そっか、知らないんですか」
「だから何を?」
イライラと答えると、ラッドは笑いながら立ち上がる。
「ご自身で気付かないっていうのも、まぁ凄いんですけど」
見ていてください。そう言って左の袖を捲くった。
何をするのかと問うより早く、ラッドはどこから取り出したのか、右手に短剣を持っている。
「え」
何かを言う言葉を発する暇すら与えないように、ラッドは短剣で左腕を切りつけた。