85
勢い良く飛び出して来たは良いがどうしたらいいのかわからない。
いつも自分は猪突猛進だと苦笑して、空高く上っている太陽を睨んで目を細めた。
「さて……どうしようか」
身体はだるいし足も思うように動かない。少し季節が移ったのだろう。やわらかくなった風に撫ぜられただけで寒い。まだ太陽が出張っているというのに。
時間もなければ情報も何もない。身体もボロボロな状態だ。
それでもなぜか、心だけは晴れやかだった。
「とりあえず酒場。酒場に行こう」
こんな真昼間からやっているものなのか不安だが、行ってやっていなければ食事をして開くのを待とう。
(そこで馬の事とか、フォルに行く事とか聞こう)
ヴィーゴとの約束通り、一度フォルに戻り、そしてラッドに協力を求めるのも良いかもしれない。――ラッドが信じてくれるかどうかもわからないし、信頼の置ける人間かわからないが。
そう考えて、首を振る。
(ううん、あたしが信じなきゃ)
よしと意気込んで、まだ人の出歩きの多い城下町を挑むように睨んだ。
つくづく、人に恵まれていると思う。
ルカとの出会いからして恵まれている。なにもわからないところに飛んで、その国の王子様の目の前に落ちた。否、沈んだ。
これがもし貧困な家庭だったらば、奴隷として使われて一生を終えていたかも知れない。
奇異な瞳を売られたかもしれない。瞳だけ奪われて、光のない一生を迎えていたかもしれない。
――そう考えると、人に恵まれている。
恵まれているというよりも、むしろ強運なのかもしれない。
有希は自分の強運を噛み締めていた。セレナに抱きすくめられながら。
「あぁもうユーキちゃんったら! ちょっとかなり気付くの遅いけど賢いんだから! 恥ずかしながらユーキちゃん見失っちゃって、でも絶対酒場には来ると思ってたの! 三日ここで私待ってたけど、待ってた甲斐があったわ!」
酒場に足を踏み入れた有希は、騎士の格好ではなく、紺色のワンピースを纏っていたセレナを見つけた。そして飛ぶように捕まえられ、抱きすくめられた。
「ユーキちゃんが王都に向かった後、危ないからってヴィーゴが私を向かわせたの。なのにユーキちゃんったら鬼気迫りすぎてて早いんだもの。追いつけなかったわ! そもそも、ヴィーゴが私を引き止めすぎなのよね!」
「せ、セレナ! わかったから、痛い! 痛いから!」
ぎゅうぎゅうと有希を締め付ける腕は力強く、背骨がミシミシと音を立てているような気がする。
腕の力が緩められると、ふうと息を吐いた。
「それで、どう? ユーキちゃんの騎士には会えた?」
有希の頭を撫でながら、小首をかしげて問い掛けるセレナに、有希は首を振る。
「ルカが今なにをしているのか、いろいろ違う事を聞いて困ってたところ」
笑ってみせる有希を慈悲の目で見つめる。
「そう」
「うん」
きっと笑顔が引きつっていたのを、セレナは分かっていただろう。それなのに言及しないセレナの心遣いがありがたい。
「とりあえず、そろそろ十日経ってしまうわ。一端フォルに戻りましょう?」
「…………わかった」
一端戻る。その言葉はまた王都にやってくるという意味だ。有希はぎゅっと拳を握り締める。
戻るのも早いほうが良い。早く戻ろうとセレナをせっつくと、セレナが微笑む。
「そういうせっかちな所、好きよ。――でもね、あのアドルンド騎士も一緒に来たのよ。何かやる事があるみたいで。戻ってきたら早速行きましょ?」
それよりも。そう言ってセレナは有希の鼻頭をつまむ。
「ご飯、ちゃんと食べてる? 顔色がすっごく悪いわよ」
そう言うと、問答無用で有希の前にメニューを広げた。
二人用のテーブルに乗り切らない量の料理を注文したセレナは、せっつくように有希に勧めた。
そしてその食事――ほとんどセレナが食べたのだが、終わる頃に赤銅色の髪をたなびかせたラッドが酒場へやってきた。
「あら。昼前には戻るって言っておきながら、随分早かったわねぇ」
「お目当ての人物に中々会えなくてね、捕まえたと思ったら酷く機嫌が悪くて面倒だったんだよ」
わざとらしく肩をすくめて見せるラッドは、有希を見遣ると真摯な顔つきになる。
「ところで、ちょっと彼女に聞きたい事があるんだけど」
「え、な、なに?」
有希の事をいわれ、ぎくりとすくむ。
ラッドとは、先日の出来事以来話をしていなかった。
完全に軽蔑されてしまった事に困惑して、なにをどう弁明したらいいのかわからなかったのだ。
「話せばいいじゃない?」
「姉さんにはどうかご遠慮願いたい内容なんだけど」
「あら、ユーキちゃんの身元を引き受けているのは私達なんだけど」
「拒否するのならばこちらにも考えがありますよ。かのリビドムの狂犬、セレナ・ビューテントが王都に侵入していると、オレの口が滑ってしまうかもしれないですから」
微笑みながら言い合いをする二人をおろおろと見ていると、セレナが両手を上げる。
「ハイハイ、降参降参。まったく食えない男ね」
そのまま立ち上がり、有希に笑みかける。
「ユーキちゃん、私すぐ外で待ってるから、終わったら出てきて? 何か変な事されたら大声で叫ぶのよ。続きは私がしてあげるから」
「っセレナ!」
けらけらと笑うセレナはそのまま酒場から出てしまった。
残されたのは、空になった大量の皿と、有希とラッドと、少し重たい空気。
どことなく気まずくて、視線をうろうろと動かしていると、セレナが座っていた向かいの席にラッドが腰を下ろす。
「そう困らないでよ。オレが困る」
「あ、ごめん……」
「謝られるのも困るなぁ。オレが謝ろうとしてたのに」
「え?」
驚いて向かいのラッドを見ると、少し自嘲気味に笑んでいる。
「先日はすまなかった。ちょっと虫の居所が悪くて。酷い事を言った」
その謝罪の言葉に首を振る。
「多分、そう言われても仕方なかったかもしれないし」
あのときのことを思い出すとチクリと胸は痛むが、笑んで見せる。
「いや、本当に申し訳ない。婚約者が亡くなったもので、オレも取り乱していた。心にも無い事を言ってしまった」
婚約者を亡くした。目の前で微笑む青年は今そう言った。
十日熱でだろうか。それとも戦火に巻き込まれたのだろうか。恋人を亡くしたばかりで、悲しみに暮れることもできずに気丈にしているラッドを見ると、とても切ない。
「え、と……」
こういうとき、どう言葉を掛けたらいいのだろうか。
本当に近しい人を亡くした事のない有希が何を言っても陳腐になってしまわないだろうか。気遣ってしまうことの方が失礼なんじゃないだろうか。
色々と思い悩んでいると、向かいから噴出す音が聞こえた。驚いて顔を上げると、ラッドがくつくつと笑っていた。
「まさか本当に信じるとは」
「――っだましたの!?」
人の生死を冗談に使うだなんて信じられない。鼻白むと、ラッドは軽く手を振った。
「いや、こういうのは相手の情を誘うのに有効なんだよ」
特に男女の仲ではね。そう言い添える。
「……信じられない」
「そう。オレの事なんて信じない方が良い」
中低音に甘い声は良く通り、ざわざわと話し声が絶えない酒場でもしっかりと耳に入る。
「何が言いたいの?」
冗談のようなことばかり言って、本当は何を考えていて、何を言いたいのかわからない。わからなくてやきもきしてしまう。
「彼女もオレを信じられない。オレも彼女を信じられない。お互い様だろう?」
別にそういう意味で言ったんじゃない。口を開きかけたが、ラッドの目が笑っていなかったので大人しく黙る。
「単刀直入に言う。――アンタとルカート様の関係を知りたい」
「え?」
いつもよりも険しい口調に、思わずたじろぐ。
「アンタ、レーベントに会っただろう」
レーベント。聞きなれない名前に眉をひそめたが、ラッドがアイン・レーベントだと告げて合点がいった。
「アインさんなら……会ったけど」
もっとも、アインは有希を有希と認めてはくれなかったけれど。
「レーベントはアンタがリベラ―ト兄妹の話をしたと取り乱していた。そして極秘裏になっているルカート様の主人の名も知っている」
目の前のラッドは、有希の知っていることを知ろうとしている。そして知った後、有希に対する評価を下そうとしているのだ。
(信じてもらいたい。あたしの言う事……あたしの事)
ラッドに話しても良いものなのだろうか。それを推し量る材料は有希には何も無い。
それにラッドは、ルカの部下だと言っていたではないか。――しかし、間者かもしれないという思いは拭えない。あのオルガの寄越した人間なのかもしれないという思いがよぎる。
(でも、アインさんが話をするくらいなんだから、きっと言っても大丈夫)
有希は小さく深呼吸をし、まっすぐ目の前のラッドを見据える。
「信じてもらえないかもしれないけど、あたしがルカの主人よ」
ラッドはぴくりとも動かない。有希の行動一つとして見落とさないようにするかのように、じっと見つめられる。
「契約して、すぐフォルに向かった。フォル城を落としてイシスを捕まえた。それからケーレに行って、ダンテさんを救出した」
そこまで言って、口を噤む。
これも言って言いのだろうかと。目の前のラッドは、何を考えているのだろうと。
いつのまにか右手が胸元を掴んでいた。
「……それから、アドルンドに戻る途中で、オルガに捕まったの」
ラッドの眉がぴくりと動く。
「あたしは伝説の魔女として処刑される事になった。アインさんも捕まって、処刑場に連れ出されてた」
思い出すだけで胸が苦しくなる。あの民衆の目が、むせるような花の匂いが、今も脳髄にこびりついている。
「そこで、あたしとアインさんは魔女に助けられた。――そしてあたしは、魔女に姿を変えられた。ゲームなんだって。あたしがルカに会えれば元の姿に戻るって」
後はただ、アドルンドにやってきただけだ。そう告げると、ラッドは鼻で笑った。
「……創作話の粋を出ないな。しかしそれが事実だとしたらたいした話だ」
「――っ創作話なんかじゃない!」
全部本当の事だ。創作話であればどれほど良かっただろうかと思うのは有希の方だ。
信じてもらえなかった悔しさと、笑われた悲しさがどっと胸に押し寄せる。
「全部、本当のことなのに……」
「――ルカート様が契約した時、オレもあの場に居たんだけど。そのときの話をしてくれたなら、信じてやってもいい」
「え?」
「あの場にはメイドも居なければ誰も入る隙間も無かった。それでもその状況を説明できるなら、今の話を本当だと信じよう」
有希は目の前のラッドを見つめる。何なんだろう。言っている事がコロコロと変わって、本当に何を言いたいのかわからない。本当に信じてくれるのか、また鼻で笑ったりするのではないか。
考えたところで何もわからない。
有希は大人しく、そのときの状況を説明するしかなかった。
「あたしは十歳くらいで、紫の瞳で……ぺたんこな赤い靴を履いてた。ピンクのドレスみたいなワンピースを着て、アインさんに呼ばれて、連れられるまま大きな広間に行った」
あの時は今よりも何もわからなかった。右も左もわからなくて、ただキラキラしている王宮に驚いていた。
思い出すように、瞼を閉じる。その頃の状況が、懐かしく広がる。
「踊り場に着いたら、後ろにあのオルガが居て、ルカも居て。……ルカがあたしの前に跪いた。あとはルカに言われるままに剣を取って」
「そこまでで良い」
閉じていた瞳をぱっと開けてラッドを見る。初めて会った時のように、優しい顔をしていた。
「レーベントも、ちゃんと聞けば良いのになぁ……まぁ、リベラ―トの話をされたなら仕方ないか」
思わずほっと息を吐く。信じてくれたのかと思うと嬉しくて嬉しくてたまらなかった。
「それにしても、大変な目にあわれましたね」
柔らかく微笑むラッドの、その美しい笑顔に有希はどきりとする。
「え? あ、うん……」
「最後にもう一つだけ、確認をさせてください」
「なに?」
笑んだ顔のまま、ラッドは続ける。
「オルガ―様について、どう思いますか?」
有希はその言葉の唐突さに面食らったが、やがて苦虫を潰したような顔で言う。
「狂人よ」
その言葉に、ラッドは笑った。




