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ぐらぐらと揺れる世界。ホワイトアウトした視界。
何もかもが大音量で聞こえ、爆音で頭がはじけそうだった。
そんな中、鶴の一声のように、はっきりと言葉が耳に飛び込んできた。
「え、もう三日も寝てる? 噴水前で倒れてたってことは……難民かもしれないですね。こちらの施設で受け入れはしていただけますか?」
聞き覚えのある声に、有希の目がぱっちりと開く。
「それにしても、どうして僕がこんな仕事を……」
「まぁまぁ、それだけ人間が足りないって事だろぉよ。オレ達も面倒くさい実技がサボれる。お国は金の掛からない労働力が手に入る。いい取引じゃんか」
体調不良であったことすら忘れて、がばりと身体を起こす。
学校の保健室のようにベッドが並ぶ部屋だ。有希の寝ているベッド以外、使われていないようだった。
その部屋のすぐ傍で話しているのだろう。そして壁も薄いのだろう。筒抜けに声が聞こえる。
「寄宿生のギィスはともかく。僕は一応宮仕えなんですけど……」
「そういう嫌味を平然と言うなよ! こういう地味な仕事がだなぁ、次の仕事や出会いを生んだりするんだぞ!」
「……ギィスがそういう下心で動いているのは知ってるけど、そうおおっぴらに言うのもどうかと思うよ」
「まぁホラ、可愛い女の子かもしれないだろ!」
ガタンと扉が開かれる。
「ありゃ。お目覚めらしい」
濃い茶色の髪色の、茶目っ気たっぷりな顔つきの青年が、驚いたように有希を見つめる。目にはこれでもかというほどの好奇が浮かんでいる。
そして有希は、その青年の後ろに立っている眼鏡を掛けた青年に釘付けになった。
「……アインさん」
「あれ? 何、アイン知り合い?」
場違いに明るい声に、アインはえ、と驚いて部屋に入る。有希を見て、アインは訝しげに眉根を寄せる。
「そうですけど……あの、貴方は?」
アインは有希をまじまじと見て、そして誰も思い当たらないのか困惑している。
「あたし! 今こんな格好だから信じられないかもしれないけど、有希、有希だよ! ルカに会いに来たの」
そこまで言って、はっと気付く。
(そうだよ、どうして気付かなかったのあたし!)
アドルンドにアインがいて当然だ。アインはルカの臣下で、ルカの傍付きなのだから。
「もうナゼットとティータには会えた? みんなはどこに居るの?」
懐かしい。もう皆はアドルンドに戻ってきているだろうか。早く会いたいとアインに笑いかけると、アインは驚愕の顔を浮かべて有希を見た。
「……どうしてそんなことを知ってるんですか」
「え?」
言って、有希は改めて自分を検分する。
ヴィヴィによって成長させられた体。変えられた黒い瞳。
元の面影はあったとしても、同一人物だとはやはり思われないか。
「だってあたしが有希だから。あのね、あの後魔女にこんな姿にさせられちゃって、えっとそれで」
「やめてください!」
突然の大きな声にびくりと肩がすくむ。驚いて見上げると、苦々しげなアインの姿がそこにはある。
(……なに?)
自分がなにかしただろうか。それとも唐突に喋りすぎただろうか。
「ユーキは僕の所為でマルキーに処刑されて死んだんです! そもそも何故貴方がそんな事を知っているのですか!? そして何故! 死者を愚弄するような事をするのですか!」
「おい、アイン」
青年――ギィスがアインの肩を掴む。アインは顔を真っ赤にさせて怒っている。
有希はその顔をきょとんと見つめる事しかできなかった。
「――え?」
(あたしが……死んだ?)
「何なんですか貴方は! どうしてユーキの事を知っているんですか!?」
「だから、あたしが有希だから!」
「その話はもうしないで下さい!」
アインの大きな黒目が涙ぐんでいる。
「もう思い出したくないんです! なのに何なんですか! 何者なんですか! 人の傷を抉るような真似をして楽しいですか!?」
咆えるように叫ぶアインについていけず、有希は呆然としてしまう。
「あたし……死んでないよ」
「……あなた、もしかしてあの魔女ですか?」
「アイン、落ち着けって! な?」
「え!?」
いつのまにかギィスに羽交い絞めされているアインは、憎悪を称えた目で有希を睨みつける。
「記憶を混同させられて思い出すのに時間が掛かりましたが、落ちこぼれでも魔術士のはしくれです。――思い出したんです。僕が何故北の森で保護されたのか。――あなたが僕を運んだのでしょう」
「え、え?」
脳にまだ血が足りないのか、アインの話していることが難しい。
(つまり、アインさんはあたしをヴィヴィと勘違いしてるの?)
「アインさん、それは違っ」
「何が違うんですか? ならどう説明してくれるんですか! 貴方も同罪です! どうしてユーキを見殺しにしたんですか!? どうして僕を助けたんです!」
(見殺し?)
激昂するアインにふと違和感を感じる。
「ユーキは僕の目の前で焼かれました! わかりますか? ただそれを見つめる事しかできない己の無力さを! 肉の焼ける匂いが脳裏を離れなくて、毎夜うなされるのを!」
アインは決定的な勘違いをしている。
有希は殺されていない。だから有希が処刑されるのを見ただなんてもってのほかだ。
「違う! アインさん、話を聞いて!」
アインが大きくため息をつく。
「……あなたから聞く事なんて何もありません」
そう冷静に言うと、アインが後ろを見遣りギィスに声を掛ける。
「ごめんギィス。取り乱したりして――もう大丈夫だから放してくれないか?」
「……いいのか?」
「あぁ。――彼女は魔女かもしれないので、放り出してくれてかまわない」
濃紺色のマントを正して、アインは言う。
「捕らえないだけ感謝してください。――覚えていませんが、僕は貴方に助けられたんでしょうから。せめてもの温情です」
「アインさん! だから違いますってば!」
有希はくらくらする頭を必死に奮い立たせて、どうやったら信じてもらえるものかと考える。
「何のためにアドルンドに来たかは知りませんが、早く自分の住処に戻ってください」
アインはつかつかと扉に向かい歩く。
「ギィス。すみませんが気分が悪いので今日は帰ります。後の事をよろしく頼みます」
「あ、あぁ……」
ギィスもアインの冷徹さに驚いているのか、扉を出て行くアインを呆然と見つめていた。
「アインさん!」
ぱたりと閉まった扉に向かい叫ぶ。
追いかけようとベッドを降りた途端、足から力が抜けて、へなへなとへたり込んだ。
「――っなんで!?」
思わず声があがる。いくら立ち上がろうとしても、腰から下にいっこうに力が入らない。まるで痺れて麻痺しているようだった。
(動け! バカ!)
早く行かなければ。捕まえて話を聞いてもらって、ちゃんと自分が有希であることを理解してもらわなければ。そして、
(ルカのこと、聞かなきゃいけないのに!)
アインなら知っているだろうか。ルカが今どこに居るのか。いつから体調を崩しているのか。
立ち上がろうとベッドにしがみ付く。引っ張った引力で立ち上がろうとしても、毛布がずるずると落ちるだけだった。
「…………無駄だと思うぞ」
ギィスの存在をすっかり失念していた有希は、驚いて顔を上げる。
痛ましげに有希を見つめていたギィスは、有希がへたりこんでいるところまでやってきた。
「アイツは頑固だからな。あそこまでキレると手に負えないんだ。オレも久しぶりに見たなぁ」
まぁ寝りゃ元通りだけどな。と言いながら、有希のわきの下に両腕を入れる。そして有希を引っ張り上げてベッドに座らせる。
「アンタ、三日寝込んでいたんだ。体が動かないのも無理ないだろう。それに随分顔色が悪い」
翡翠色の目が有希を覗き込む。人懐っこい顔のギィスは、アインの言葉を信じていないのだろう。魔女と言われた有希に怯えるでもなく構えるでもない。
「アインはアンタを魔女だって言ったけど、こんな顔色の悪い魔女いるかって話だよなぁ。――まぁ、アンタがなんでいろんな事を知ってるのかも気になるけどな」
綺麗な瞳がきらりと光ったような気がする。
言葉は優しいが、どこか推し量るような、そんな目が有希を射竦める。
(そんなこと言われても……)
もろもろの当事者であり、その場に居たのだから、知らないはずはないだろう。
けれどもそんな事は口にだせない。口をつぐんで黙っていると、腹がきゅるきゅると小さく音を立てた。その音で自分が空腹なのだと気付いた。
(そういえば、ご飯)
いつから食べていないだろうか。そもそも、自分はどのくらい寝ていたのだろうか。
『アンタ、三日寝込んでたんだ』
「三日!?」
ギィスの言葉を思い出し、思わず叫ぶ。唐突に大声をあげた有希に驚いたのだろう、ギィスの肩がぎくりと揺れる。
「ちょっ! 三日って、え?」
(ここにくるまでで三日、それから三日、帰りに何日掛かる?)
しかも馬は手元にない。路銀はと考えて、荷物がないと慌てて辺りを見回す。するとベッドサイドに有希の麻袋が合って軽く歎息を吐く。
そして馬がないとなると何日でフォルまで辿り着けるのだろうと考える。――どう考えても、日数が足りない。馬車で行ったとして、フォルは一週間掛かるのだ。
「――っルカについて、何の手がかりも掴めてないのに」
悔しい。何故三日も寝こけていたのだろう。体調が悪いからだなんて言葉は言い訳にしかならない。自己嫌悪と憤りで胃の辺りがきゅうっと縮む。
「ルカって、ルカート様の事か? ルカート様なら王宮に詰めてらっしゃるだろ。オルガー様のご政務を手伝われてるって話だぞ?」
「えっ?」
「ご政務が忙しいみたいで、お戻りになられてから拝見してないけどな。手がかりって、何か企ててんのか?」
ギィスの言葉に声が出なかった。
(ルカが……)
普通に生活している。その事実に驚愕する。
しかし、ラッドはルカが眠ったままだと言っていた。
有希が寝ている間に起きたのかとも考えたが、ギィスの口調は以前からそうだと言っているようにしか聞こえない。
誰かが情報を捏造しているのだ。
(でも誰が)
牢屋のような場所に居ると言ったリフェノーティス、寝たままの状態だと言ったラッド、政務をこなしているというギィス。
考えると沸騰したように頭がぐらぐらと揺れる。ルカがそれほどまでに遠い存在の人物なのだと思い知らされる。
何が本当で何が嘘なのかわからない。
濃霧の渦中に自分は居る。どこに向かうべきか、何をするべきかも見当がつかない。
(それでも、行かなきゃ)
有希を突き動かすなにかは有希の背中をぐいぐいと押す。まるで追い風のようにはやしたてるそれに、乗るしかないと心が唆す。
嘘まみれの中から真実を手繰り寄せてなければならない。
ぐっと両腕に力を込めてベッドから降りる。身体も起きたのか、両足でしっかりと立ち上がることができた。
「おい……?」
突然動き出した有希に、不審げな声が掛かる。有希は聞こえないフリをして麻袋に手を伸ばす。
「アインさんがあたしを放り出せって言ったんだから、ちゃんと出て行きます」
お世話になりました。そう告げて扉を目指す。
三日も食事を摂っていなかったために足取りはおぼつかないが、そんな事にも構っていられない。
「ちょっと待てって! オイ! 意味わかんねぇんだけど!」
扉の取手を掴む。引っ張っても開かないので体重を掛けて引くとようやく動いた。そこまで体力が落ちているということに愕然とした。
扉の目の前に、十歳ほどの黒髪の少女が緑色の瞳を見開いて立っていた。手には食事の乗ったトレイがある。
自分の為に持ってきてくれたのだと気付き、有希は微笑む。
「ありがとう。でも食事はいらないや。――三日間、お世話になりました」
少女は有希を見上げ、そして小さく頷いた。
(しゃんとしろ)
気を抜いたらふらふらとしてしまいそうな足を叱咤して、有希は建物を後にした。
頭の奥で、誰かがくすくすと笑っているような気がした。