76
気が付けば辺りは茜色に染まり、窓から差し込む橙色に目を細める。
ヴィーゴもセレナも居ない。耳を澄ますと隣室から小さく靴音が聞こえる。
とろりとした色の空を、何気なしに見ようと窓に寄る。
昼間はちらほらと見えた人通りもなく、閑散とした道が橙に塗られている。
(明日には、ここを出られるかなぁ)
家々の屋根を見渡す。いくつもの家。いくつもの家族。いくつもの人。
いくつもの人々が今、十日熱で苦しんでいる。
その全てを拭い去ってやりたいが、そんな事は無理なんだと何処かで気付いてしまった。
(あの時は、そんな事思っても無かった)
いつかまた会うと約束した青年。
(今なら、気持ちがわかるかも)
孤児院で何も考えずに子供達と遊びたい。パーシーはそう言っていた。
(あたしも、何も考えずにいたいよ)
ふっと顔を伏せる。
伏せた視線の先に居た人物に、有希は目を見開いた。
「――騎士」
甲冑を纏った騎士が二人、何かを話しながら歩いている。
見回りだろうか。コロナに会った時、彼女は酷く怯えていた。――それは、魔女の時間に出歩いたから。
だがその姿に有希は不信感を募らせる。なんとなくだが見回りではないような気がした。
(なんで……どうして?)
もっと近くに寄ろうとガラスに手をやる。目を眇めて歩いている騎士を見て、有希は理由のわからない不信感の意味がわかった。
「どうして、笑ってるの?」
その騎士は何かを話している。話しながら――笑っていた。
途端に有希の中からふつふつと怒りがこみあがる。
(みんな苦しんでるのに、みんな辛いのに)
どうして笑っていられるんだという憤りで、ガラスに押し当てた指先が白んでいる。
(どうして助けてあげないの)
有希一人ではどうすることもできないのに。
(騎士なら、国の力ならなんとかなるんでしょう?)
フォルの人間はリビドムのようにならないはずなのに。
(なのにどうして、笑ってるの?)
怒りは増長し、その笑みにさえ激情が湧く。
(あの子達の笑顔とは違う)
リビドムで出会った沢山の子供達。苦しくて辛い中、子供達は一生懸命明るかった。皆が沈痛な顔をしてしまうと、希望も何もかも潰えてしまうのだと、幼いながらに知っていたのかもしれない。
ガラスがガタガタと音を立てて揺れる。有希自身が怒りで震えているんだと気付く。気付いたが、冷静に戻ることはできなかった。
(笑ってた)
とてもとても、楽しそうに。
(みんなが苦しんでいる町で、苦しんでいる人の隣で、笑ってた)
足が、無意識に動いた。無意識に音を立てないように。
慎重に扉を開けて、息をつめて扉を閉める。
時折セレナの声が聞こえる廊下をゆっくりと歩き、つま先だけでゆっくりと階段を降りる。
そして玄関に出て、また音もなく外に出る。
音を少しでも出してしまったら、有希の中で煮え滾る怒りが、見えてしまうような気がした。
扉がしっかり閉まったのを確認して、有希は駆け出した。笑いながら歩いていた騎士達の所へ。
先ほど歩いていた通りに出て、騎士が歩いていった方角を見遣る。辺りはすっかり藍色に染まり、遠い場所は闇に消えていてなにも見えない。
歩いていった方向へ走ると、すぐにその姿が見えてきた。
二人の騎士は、ゆっくりと歩いている。辺りを見回すでもなく、二人で視線を交わしながら話し込んでいる。
その姿を見て、途端に悲しみが去来した。怒りはいつまでも持続せず、迷子のような気分だった。
悲しかった。騎士が、この国が。フォルを見捨ててしまったような気がして。
暮れていく空と同じように、有希の心も暮れてゆく。藍色の空は、毎秒事に深みを増して闇に近づいてゆく。
(追いかけてきたはいいけど……)
とぼとぼと歩いていると、沸騰していた頭が少しずつ冷えてきた。
(どうしよう……)
今更ながら、何も言わずに出てきてしまった事に頭を抱えたくなった。
コロナが外に出るのを怯えるほどに恐がっていたし、むやみやたらに外に出ると、セレナとヴィーゴに怒られるような気がしたからだ。
(いや、絶対に怒られるよ。どうしよう)
どうやっていい訳をしよう。そんなことを考えていると、騎士達が立ち止まった。
(やば)
慌てて有希は建物の隙間を探して滑り込む。少しだけ顔を出して、騎士達を凝視する。
二人の騎士はきょろきょろと辺りを見回したあと、すぐ隣の建物に入る。部屋からもれ出た明りはとても煌々としていて、二人はまぶしそうに目を眇めながら入っていった。
「…………宿舎かなぁ」
すぐに出てくるかもしれないと思ってしばらくそこで見張っていたが、自分の影が見えなくなるほど暗くなり、あちこちの窓から明りが差し込んでくるほどに暮れてしまった。
宿舎かもしれないと思えばそれで済んだかも知れない。けれど有希は、あの二人が辺りを見回してから入っていったのが気に掛かって仕方が無かった。
(やましいことでもしてるのかな……)
まさか騎士がそんな事するはずないと思ったが、あの笑顔といい、信用がならなかった。
「……窓からちょっと覗くだけ。ちょっと見たら帰ろう」
(それで、ヴィーゴさんにこっぴどく叱られよう)
自分にそう言い訳をして、隙間から出る。
建物に近づくにつれて、妙ににぎやかな声が聞こえた。妙に賑々しい声。それは学校の教室の喧騒によく似ている。
建物の横を中腰で歩き、窓の下からひょっこりと顔だけ覗かせる。
視界をさえぎらせるものは何もなく、その建物の――酒場の中が、手にとるように見えた。
(嘘でしょ?)
嫌な予感が的中してしまった。その中で、騎士達がうごめいていた。
多くの騎士が甲冑の上半身部分を取り、グラスを片手に騒いでいる。
(信じられない)
体がわなわなと震えるのがわかった。やっと少し落ち着きを取り戻した感情が、またぐらぐらと加熱する。
(信じられない信じられない信じられない)
目の前の光景を、事実として受け入れることはできた。けれど、何故そうなっているのかが理解できない。
(アドルンドとマルキーは戦争中で、フォルは国境に近い町だし、前までマルキーに乗っ取られてたから、また襲われるかもしれない)
そのために、騎士が沢山いるんだと。コロナはそう言っていた。
(なのになんで)
皆十日熱で苦しんでいる。救いの手を伸ばしても、その手を取られる人だってごく一握りだ。それなのに。
思わず立ち上がっていた。有希の気配に気付いたのか、赤銅色の髪の青年が有希に気付いたのか窓を見る。
窓越しに、有希と青年の目が合った。
「信じられない」
有希はずんずんと歩き、酒場の扉に手を掛けていた。
――本当は、あの宿屋に戻った方がいいということもわかっている。
押しても引いても開くその扉を思いっきり押して、ずかずかと中に足を踏み入れた。
「信じられない!」
叫ぶように言った。赤銅色の髪の青年をはじめた皆がしんと静まり返り、有希を見ていた。
一人の男が有希に何か言おうと口を開いた。しかしその言葉を紡がせる前に、有希は皆を睨みつけて言った。
「なんでお酒なんて飲んでいられるの!?」
言わずには、いられなかった。