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常におどおどとしている女性が案内してくれた家は、幾度か戸を叩いた宿屋だった。
ありがたい事に厩まであり、女性は馬を繋ぐと有希たちを呼び、滑るように家に入った。
「……あの、外に出ちゃいけないんですか?」
女性のあまりにも不自然な動きに、ぽろっとこぼれる。
大仰に驚いた女性が目を見開いている。が、ヴィーゴが発した言葉に有希も我にかえる。
「そんなことよりも病人を見せてくれ。ユーキ、薬の準備を頼む。ご婦人、患者の部屋まで案内してくれ」
「あ、うん」
有希は「台所お借りしますね」と女性の背中に掛けて、女性が持っていた水桶を持ってその場を後にした。
すっかり薬の準備が有希の仕事になっている。
白湯をいくつか準備して、それぞれにリフェノーティスと作った薬を入れ、混ぜる。
どろりと青臭く鉄臭いその液体と普通の白湯を持って、セレナに案内してもらって、きっと客を入れるための部屋だろう、病室に入る。
大人数が入るであろうその部屋のベッドには、ほぼずべてのベッドに、人が寝ていた。
「……こんなに、たくさん」
片っ端から診察しているヴィーゴは有希に目もくれず、淡々と指示だけ出す。それに返事をして、まだ年端も行かない子供から、順に薬を与えていった。
その部屋に居たのは総勢五名。女性の夫と、四人の子供達だった。
一通り治療を終え、別室に移ると、ヴィーゴが口を開いた。
「どういうことか、説明してもらおうか」
女性は、一つ頷くと、とうとうと話し出した。
フォルがルカート王子の手によって解放された後、逃げ出していたフォルの人間や女性――コロナと家族もまた、避難先から戻ってきたそうだ。
コロナ一家は捨て置いたままの家に戻り、また宿屋を営み始めた。
そしてそれから一月ほど経って、あちらこちらから十日熱に感染する人間が増えた。
フォル城の騎士達は、夜闇の不吉に乗じて感染の恐れがあるからあまり外に出るべきではないと言い出し、次第にそれがエスカレートしていって、夜に外出する者に十日熱の感染源と言い、処罰するようになったと言う。それから町の人間は、昼間動き回り、夕方からは戸をしめてひっそりと構えるようになったと。
その話を聞いて、有希はわなわなと震えだした。
「なにそれ……何でそんな言いがかり! なんで夜出歩いちゃいけないの!?」
「ユーキちゃん、アリドルでは夜は魔女の時間だから忌み嫌われてるのよ」
「夜出歩いたら感染するっていう確証もないのに?」
「だが感染しないという確証もないな」
さらりとヴィーゴが言うので、有希はぐうと言葉をのんだ。
「俺も信じちゃいないさ。だがな、それを信じている人間も居るってことだ」
(でも、それってフォルの騎士がしている事だよね)
それをも容認してしまってもいいのだろうか。
この世界での騎士の役割と言うものを有希は理解しきれていないが、もしも警察と同じような立ち位置にいるのであれば、それはアドルンドがそういう認識をしているということになるのではないだろうか。
(たとえそうじゃないとしても、やっぱりアドルンドがそう見えるよ)
そう言いたいのに、思うように声が出ない。
アドルンドが夜を魔女の時間と言っている。その考えを否定しても何もならないし、誰も有希の言葉を聞いてくれるはずもない。
もしだれかが耳に入れたとしても、有希の事を鼻で笑い飛ばすのだろう。何も知らない他国の人間が何を言う、と。
うだうだと言って、家族の看病で疲労困憊しているコロナに迷惑も掛けられないと、早々に話を切り上げ、ヴィーゴはコロナに休むように言った。
医者様が居る前で、家人は私しかいないのに休んでいられないというコロナに、ヴィーゴは医者として休むように告げた。
「俺達は隣の一室を借りる。そこから出ないから安心しろ」
コロナは目に涙をいっぱいに浮かべて、頭を垂れた。
それから二日。有希たちはコロナの宿屋の一室から殆ど出ることが無かった。
コロナの宿屋は上等な宿屋らしく、部屋に風呂もトイレも着いていて、出る必要が無かった。
せめて料理を作るのくらいは手伝うと申し出たが、一晩思い切り休んだら元気になったのか、コロナに「とんでもない。医者様方はゆっくりしてらしてくださいまし」と言われてしまった。
コロナも夕方までに外での用事を済ませなければならないのか、常にせわしなく動いている。
部屋を出るのは、隣の病室に行く時くらいだった。
有希は日に二度。薬を飲ませる事以外、部屋で悶々としていることしかできなかった。
(本当は、こんなことしていられないのに)
できることならば、フォルの町全ての人を見て回っていきたい。ヴィーゴにそれを告げたが、ヴィーゴは首を振った。「国が動いているだろう」と。
ベッドの上で膝を抱えて、身体を前後に揺すらせる。
今までずっとタイトに行動してきた。一足飛びで駆けるような速さだった。
なのに、今は歩くよりもゆっくりと時間が経っている。
忙しさからか、身体がずっと気だるかったが、今こうして座っているよりもずっと良かった。
(何も、考えたくないのにな)
『ユーキちゃんは、何のためにアドルンドに行くの?』
セレナの言葉が、胸によみがえる。
『ユーキちゃんは自分と騎士の事だけ考えてて?』
(やめて)
膝をぎゅっと抱きしめる。
(考えたくない)
不安を閉じ込めた箱の蓋が、開いてしまうから。
(もう想像させないで)
拒絶するように、かぶりを振った。
今まで何も考えている暇も無いくらいに忙しく、ハードで、刺激的な日々だった。
毎日知らない人と出会い、生と死の狭間を行き交う人々に祈り、心にぽっかりと穴が空いてしまった人を一生懸命慰めてきた。
きっとそうすることで、自分自身をも慰めていた。
『大丈夫、絶対に大丈夫だから』
――大丈夫。ルカは絶対に大丈夫だから。
『あなたがそんなに悲しんでいると、その人があなたの事心配しちゃうよ?』
――あたしが悲しんでいると、みんなが気を使っちゃう。
『絶対、良くなるから!』
――絶対、また会えるから。
あの日、ルカは有希に何と言っただろうか。それすらも忘れてしまった。とてもとても傷ついた言葉だったのに、言われて悲しかったことばなのに、はっきりと思い出すことができない。
役立たずな自分に酷く腹が立ったのは覚えている。皆に認められたくて頑張ったのに空回って。恥ずかしくて逃げ出して。思い返すたびに恥ずかしくて、消え入りたくなる。
(ルカ……)
泣いてばかりいられないと自分に言い聞かせたのに、ぐらぐらと揺れた蓋は気まぐれに開いて有希の不安を煽る。
「大丈夫、絶対に会いに行くから」
自分を奮い立たせるように、何度も何度も呟いた。