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初めてフォルに訪れたのは、まだ花の季節――春先の事だったと思う。
あの頃は本当に何も知らなくて、アインを捕まえてはこれはなに、これはどう使うのと聞いていた。
馬車の荷台に揺られて、唯一の持ち物だったアーチェリーケースを抱きしめて見回す町は、とてもピリピリとした空気だったのを覚えている。
それから有希は魔女の格好をさせられて、ルカと二人でフォル城に乗り込んだ。
そしてイシスを捕まえた。
ルカに怒られ、そして少しだけ褒められたあの夜。ふわふわと夢心地で気持ちよかったあの日。
それ以降、フォルは瞬く間に活気付いた。それを見て皆で安堵したものだった。
「……どういうこと?」
リビドムを発ってから十日程経ち、有希達はフォルに辿り着いた。
町の真中に要塞のような城があり、城下には家々が沢山連なっている。
夕暮れの町をぐるりと闊歩し、そして大きな広場で休憩していた。
「ユーキちゃん、来た事あるの?」
フォルの変わりように驚いている有希に気付いたのか、セレナが近づいてくる。
「……うん、前に。だけど」
この変わりようは何だ。何があったんだ。そう誰かに問いたいが、問うような人すらも見当たらない。
葬式のようにしんと静まり返った町には、誰も居るような気配は無い。
「こんなに静かな場所じゃなかった」
(何があったの?)
戸惑いを隠せずに、何度も何度も辺りを見回す。
何処かの戸が開いて誰かが顔を出さないか、道を歩いている人はいないのだろうか。
「フォルは比較的前線に近い。――俺達を警戒しているのかもな」
道中いくつかの家の戸を叩いた。しかし、戸は頑として開かれる事なかった。
それは、中にはちゃんと人が住まっているという事であったが、どこかやりきれない切なさが残った。
「まぁ、宿屋には入れてもらうがな」
もっさりと頬から顎にかけて茂っている無精ひげを撫でて、ヴィーゴは馬に手を伸ばした。
それから、有希たちはいくつかの宿屋を廻ったが、うっすらと予想していた通り、扉が開かれることはなかった。
いくつか民家も廻ってみたが、宿屋が開いてないのに民家が扉を開いてくれるわけもなく、気が付けば傾いていた日はとっぷり暮れていた。
有希たちは困り果て、仕方が無いので野宿をして急ぎ王都へ向かおうという話になり、町を出ようとした。
(あれ?)
くるりと踵を返した際に、なにか足音のようなものが聞こえた。
「ユーキちゃん、どうしたの?」
「うん……今、靴音が聞こえたような気がして」
(誰か、いるの?)
馬の蹴爪を聞き違えたのかもしれない。けれど、一旦浮かび上がった疑問はじわじわと胸の不快感を押し上げる。
「あたし、ちょっと見てくる」
「あ、ちょっとユーキちゃん!」
もう一度馬首を変え、靴音の聞こえた町外れへ走る。
人の駆ける速度と馬では雲泥の差があり、その正体はすぐにわかった。
(――人だ)
道を曲がった先には、年のころ四十辺りの女性が、両手に桶を抱えて走っていた。
「ちょっと待って!」
大声で叫ぶと、女性の肩が見て分かるほど跳ねる。そして一層いそいそと走る。
「ねぇ! 待ってってば!」
どうして逃げるのか、どうして皆外に出ていないのか。聞きたいことが山ほどあるのに焦ってしまって言葉が出てこない。
とにかく、なんとかして足を止めさせなければ。
なんとかして会話をしてもらわなければと、逡巡していると、有希の真横をものすごい勢いで駆ける馬がある。
(――え)
横から風が吹き、髪がふわりと揺れる。目の前でセレナが馬から華麗に飛び降り、女性の前に立ちふさがった。
女性は「ひぃ」と声をあげて、土下座でもするかのようにその場にうずくまった。
「セレナ!」
セレナは有希の声に顔を上げ、困惑したように有希を見る。
「私、何もしてないんだけど……」
二人に追いついた有希も、馬から降りる。
女性は何度も謝罪の言葉を言い、地面に頭を擦り付けるように座り込んでいる。
有希はしゃがんで、女性の肩に手を置く。
(震えてる)
その肩はぶるぶると震え、怯えているということが分かる。有希はできるだけ優しく言った。
「あの。別にあたし達、あなたをどうこうするつもりはないので、頭を上げてください」
ややすると、戸惑いながら女性が顔を上げた。夕闇の中でも血の気が失せているのが分かるほどに真っ青だった。
「誰かに見られたらまずいのよね? ヴィーゴ!」
名前を呼ばれたヴィーゴは、承知したというばかりに手を挙げ、十字路に向かった。
「あ、あの……」
そこに居たのが十五ほどの少女――有希だったことに安心したのか、女性が小さく息を吐いた。
「色々と聞きたいことがあるんですけど、もしよかったらお話させてもらえませんか?」
やさしく、やさしくと自身に言い聞かせて微笑む。女性は目をうろうろとさせて、しどろもどろに答えた。
「い、あ、え。あの、わたくしの家には、十日熱の子供が居りまして……人様をあげるなんてこと……できかねます」
(十日熱)
やはりこの地にも蔓延している。だから皆、葬式のようにひっそりとしているのだろうか。
有希は満面の笑みを浮かべて微笑んだ。
「なら、その十日熱を治療する代わりに、色々とお伺いしてもいいですか? あたし達、医者とその助手なんです」
女性ははっと息を呑んだように有希を見つめ、セレナとヴィーゴを見遣り、そして小さく頷いた。