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セレナは夜着のまま、薄いケープを掛けて空を見上げていた。
空は満天の星空だった。
手を伸ばせば星に手が届きそうな程。手に入れられないものは何も無いと、そう錯覚させてくれそうな夜空。
本当なら、もう寝ていたほうが良い時間だ。明日の朝も早くから出立するとヴィーゴが言っていた。
セレナも早く寝なければいけないということを自覚している。けれども、寝ていられる心境でもなかった。
きらりと、指に黒い明りが灯る。ヴィーゴがセレナを探しているのだ。驚いて振り返ると、足音と共にヴィーゴが現れた。
「……いいの? こんな時間まで起きてて」
「俺は昔から夜更かしの常習犯でな」
それはもう何年も昔の話だった。まだ何も知らなくて、ただただ毎日を過ごしていた、そんな眩しい日々。
ヴィーゴのそんな気遣いに、思わず笑みがこぼれた。
「ユーキちゃんは?」
「さっき見たときには寝ていた」
自分が叩いてしまった、小さくてあどけない、何も知らない女の子。何も知らなくて良かったのに、自分が黒い澱をこすりつけてしまった。
驚きに瞠った目は、じわりと涙を浮かべ、小さな体で事実を受け止めた有希は必死にセレナにしがみ付いていた。何度も何度も謝罪の言葉を述べて。
「……悪い事をしたわ。知らなくても良かったのに」
「いずれは知らなきゃならないんだ。――それが、遅いか早いかだったんだ」
「それでも! ……言葉の選び方ってものがあったわ」
いつまでも悔恨が残って、とても眠れそうになんてなかった。
けれどそれをヴィーゴに悟られないようにと、ぱっと表情を明るくする。
「それより、いいの? トウタに言わなくて」
「あ? あぁ、確実性がないからな」
リビドムの王女が死んだという話。
セレナは、有希についてあまり知らなかった。元来難しい事は言わないでくれとヴィーゴに伝えてあったからだ。
いろんな情報を手にしてしまうと迷いが生じる。セレナは主人の剣であり盾であり――犬だ。主人の命があればそれで良い。
ヴィーゴは有希をリビドムの姫様だと言った。けれどそれを本人は知らないから、悟られないように知らないつもりで居ろとも。
セレナはともかく、嘘がすぐ目に出てしまうヴィーゴは大丈夫かと思ったが、言及されているわけではないので大丈夫そうだった。
「実際俺も半信半疑だ。嬢ちゃんが紫の目をしてたならすぐ信じたけどな」
「そう? 私はすぐ信じちゃったけどな。――だって、似てるじゃない。笑った顔とか、すぐ色々溜め込んじゃいそうなところとか」
かつての王を思い出そうと目を閉じる。その瞼の向こうにぼんやりと映る影は、具体的な形を成さず、セレナは苦笑した。
空を仰ぐと、綺麗な夜空が視界一杯に広がる。
(やっぱり今夜は眠れそうにないわ)
哀しそうに歪んだ有希の顔が、記憶の中の人物を思い出させる。
「本当に、似てるわ」
息をひっそりと静めていると、背中越しに開かれていた扉が閉まる。
そして数秒後、足音が遠のいていくのが聞こえた。
足音が消えると、有希は小さく息を吐いた。
薄い毛布を被りなおし、小さく丸まる。
(頭ん中ぐちゃぐちゃで、何も考えたくないよ……)
後悔と自己嫌悪でめいいっぱい泣いて、泣いて、瞼が熱を持って泣き疲れた。
それでも頭も心もすっきりしない。
戦争は嫌い。できれば起こして欲しくなんてない。
けれども起きてしまった。十日熱も蔓延している。
(みんな辛いのに)
今でも前線では戦いが続いているとトウタが言っていた。
(どうして戦争なんてできるんだろう)
戦争はいろんな人を傷つけた。リビドムの人も勿論、ティータだって犠牲者だ。
(あの時は実感なかったけど)
ティータは停戦中マルキーに居た。停戦といっても水面下では争いが消えている訳ではなかったらしい。戦禍に何年も居ただなんて、それだけで痛いほどに心臓が締め付けられる。
(もしかしたら、ケーレに居たあの人たちも、戦争の犠牲者なのかもしれない)
考え出したら止まらない。あの人も、この人も、戦争さえなければもっともっと幸せな、平和な人生だったのかもしれないのに。
(――でも、戦いを起こさないとリビドムが絶えちゃう)
戦いの犠牲として、リビドムは多くの代償を支払った。そして今、反旗を翻そうとしている。
(そうするしかないってわかってる。わかってるけど)
――俺には十日熱の蔓延は止められないが、戦争を止めようと努力する事はできるな。
いつかのパーシーの言葉を思い出す。
リビドムが独立するという事は、彼の国。マルキーを攻めるということだ。
(そんなのは駄目)
そう否定するけれども、リビドムがこのまま堪えつづける事もさせたくない。リビドムにはもう、煮えたぎった憎悪と王女への敬愛しかないのだ。
(どうすればいいの?)
ぎゅっと全身に力を込めてうずくまる。そうすることで不安から隠れたかった。
(どうすることが一番正しいのか、あたしわかんないよ)
目を思い切りつむって、そしてすべて忘れて寝ることができたらどんなに良いことだろう。
(ねぇ、教えてよ)
またじわりと涙が浮かぶ。問い掛けたい人はこの場所にはいなくて、もう顔も声も懐かしい。
有希の考えが及ばないような仔細なところまで考えて、そして動いていた彼なら、有希のぐちゃぐちゃした気持ちをろ過してくれるだろうか。
(あたし、どうしたらいいの)
やっと自分にできそうな事が見つかったのに、この世界に沢山知り合いもできたのに。
知れば知るほど有希の心はざわめいて嵐のように吹きすさぶ。
ぎゅっと、右手を握り締めた。その真中の指を、抱きしめて。