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ヴィーゴとセレナと出会って、どのくらい経っただろうか。
最初は怖い人だと思っていたヴィーゴが、実はいつでもセレナの笑顔に負けていると気付いたのはいつだったろうか。
セレナは笑いながら難しい事、大変な事を言うということを知ったのはいつだったろうか。
けれど、有希は二人がどれだけ強いのか、知らなかった。
気付くべきだったんだと思う。
二人がリビドムの軍人であったこと。
リビドムは戦争で負けた国だということ。
そして、二人はその戦争で生き残ったという事を。
大急ぎで広場に戻ると、先ほど立った場所。広場の入り口で立ち尽くしてしまった。
どのくらいの人数が彼女を襲ったのだろうか。あちらこちらで人が倒れている。
皆もぞもぞと動いているから生きているのだろう。けれど、皆一様に酷く出血している。
そして、広場の真中で、躍るように動いているセレナが居た。その身体は血に濡れ、顔は笑っていた。
両手に持った剣を巧みに使い、一人、また一人と確実に斬っていた。
(なに……これ)
目の前で起きていることを。一目瞭然のその状況を、上手く飲み込む事が出来ない。
呆然と立ち尽くしていると、蹴爪の音が聞こえ、馬が嘶く。
「ユーキ、怪我はないか?」
「えっ? あ、うん。大丈夫」
あまりにも平然としているヴィーゴに驚いてしまう。
ヴィーゴは有希を一瞥すると、セレナを見て目を細める。
「狂犬は健在でしたか」
(狂犬?)
振り返ると、トウタが立っていた。有希の視線に気付くと、あぁ。と声を出す。
「別に非難している訳じゃない。――セレナさんはリビドムに従じてた頃、そう呼ばれてたんだ。皆の憧れの的だった」
「憧れの的?」
「あぁ。だって、楽しそうに人を斬るだろう?」
若干うっとりと語るその姿に、おののいてたじろぐ。
もう一度、セレナを見遣る。最後に残った二人を同時に相手している。その顔は確かに笑っていて、胸の奥が冷たくなる。
(楽しそうに人を斬るのが、どうして憧れなんだろう)
人と争う場面に何度も直面した。人を傷つける場面に何度も直面した。
有希は人を殺すという事が怖くてできなかった。
――殺さなければこちらがやられる。お前に反抗する気がなければ守るに守れない。
震える有希に言ったのは、今はどこか懐かしい、有希の騎士。
――だけど、人を殺すのは絶対に嫌。それくらいならあたしが死ぬ。
眉を引き吊らせて息巻いた有希に、彼はこう言った。
――なら、腕や足を狙え。そうして士気を下げろ。
――でも。
――痛そうだなんて馬鹿な事考えるなよ。お前がやらなければ、俺や、他の奴等まで危険に晒すかもしれない。
その言葉で、有希は人を撃つ事をためらわなくなった。当たれば、やったと内心でガッツポーズをする事もある。
(けど、楽しいなんて思ったことない)
いつでも心の中で小さくごめんなさいと呟いている。
辺りを見回しても、セレナが楽しそうにしている事に疑問を持っているような人は一人も居ない。
「ヴィーゴ! 褒めて!」
セレナの声ではっとする。広場で一人立っているセレナは、両手をぶんぶんと振り回している。
「誰も殺してないわ! 褒めて!」
その台詞に目を瞠る。ヴィーゴはふ、と微笑んで広場へ歩いていってしまった。
「それは健闘したな。だが、出血が酷すぎる」
道々倒れた人たちを検分して、ヴィーゴはセレナにタオルを渡した。
「汚れるだろう」
「あはは。つい、癖で?」
(癖?)
異常な状況についていけず、一人きょとんとしてしまう。
「傷が深いヤツは手当てをする。手伝ってくれ。セレナは血を流して来い」
有希の背後に居た男達が威勢の良い返事をして、駆けていった。
皆を見送った後、自分も手伝わなければと気付いて追いかける。一番近くに倒れている人の元へ駈け寄る。
「だ、大丈夫?」
「ユーキ! お前は良い! 下手に触るな」
ぴしゃりと冷たい声が飛んできて、びくりと身がすくむ。
怒られてしまったとしゅんとしていると、繕うようにヴィーゴが言う。
「あー、悪い。お前にはこんなことさせられんから、セレナを手伝ってやってくれ」
すこしばつが悪そうに言うので、傷ついてもいられなかった。
「ううん、大丈夫。ちょっと前に通った川でいい? ――セレナ、行こう」
血にまみれてどこかテンションがおかしくなってしまったのだろうか。へらへらと笑うセレナの、かろうじて汚れていない部分の裾を引っ張る。
セレナは顔をあらかた拭くと、綺麗に手を拭き、有希の手を取った。
「騎乗すると馬にも付いちゃうから、歩いて行こっか」
有希はセレナが水浴びしている間、同性でも見られるのは嫌だろうと思ってセレナに背中を向けていた。
――本当は、セレナをまっすぐ見るのが怖いから。というのもある。
目を閉じるだけで、背筋が凍りつきそうな惨状が目に浮かぶ。
この世界に来てから人の死というものに触れることが凄く多くなった。
(だけど、人が人を、殺すのは、なれないよ)
しかもそれが、共に行動をしている人となれば。
(でも、それはこの世界では普通の事。自分がやらなきゃ、自分自身や友達がやられちゃうんだもん)
自分に言い聞かせるように目を伏せる。耳に入ってくるのは木々のざわめきと、セレナが立てる水音だけ。
先ほどまで惨劇があったなんて思えない。
(たぶん、違う。そんな惨劇は、ここでは物騒なんかじゃないんだ。この静かな場所も、戦場も、おんなじものなんだ。だから、だから、みんなあんなにも平然としていられるんだ)
悶々と考えていると、陽気な声が飛んできた。
「ねぇ、ユーキちゃん。びっくりした?」
「へっ!?」
あまりにも驚いたので、声が裏返る。そんな有希の声に、セレナは声をあげて笑った。
「かなり驚かせちゃったみたいね。ヴィーゴから聞いたわ。私の事心配してくれたんだってね? 自分の事だけを考えなさいって言ったのに」
「だって!」
笑うセレナに反論しようと思ったのに、言葉が思いつかない。
なんと言っていいのかわからない。けれど、もどかしい思いが胸に詰まって、苦しいような、恥ずかしいような感情だけが湧きあがる。
「でも、心配なんて久しぶりにされたから、なんだか気持ちいいわ」
「そ、そうなの?」
「えぇ」
もやもやとした感情をもてあまして、口ごもる。
「驚かせちゃって、ごめんね。ユーキちゃん、争いの無い国から来たんでしょ?」
落ち着いた声が、水音と共に聞こえる。
「私、あんまりあぁいうの好きじゃなくてね。それでも稽古しなきゃならなかったから、楽しいって思い込むようにしてたの。――そしたらいつの間にか狂犬なんて呼ばれるようになっちゃって……剣を持ったら頭に血が回らなくなっちゃったのよ」
気持ち悪いわよね。自嘲するような声が届く。
「私の上官がね、血まみれにする戦い方が好きで、私もそう仕込まれて……。もう今は人を殺す必要がないっていうのに、染み付いて取れないのよ。…………って、私、なに言ってるのかしらね!」
無理やりに語尾を陽気にさせるその語調に、有希の心が切なくなる。
「もう、あんまり私のいる場所に来ちゃだめよ」
どうして、この物騒な世の中が普通だと思えるのだろうか。どうしてそうではないと考えが回らなかったんだろうか。
消え入りたいほど申し訳なくて、恥ずかしくて、頭に血が上る。
(あたしは、本当に甘ったれだ)
どうしてみんな、血みどろになって平然としていられるの。そんな子供のような戯れ言。
(平然とだなんて、そんな事あるわけないのに。セレナだってこうやって苦しんでるのに、人を傷つけるのが好きじゃないって言ってるのに。どうしてそんな当たり前のことに気づかなかったんだろう)
平気で人を傷つけているだなんて、勝手に勘違いして。
(ごめんなさい)
面と向かってそう謝る事ができない自分が更に恥ずかしくて、涙が出そうになった。
「戦争なんて、なければいいのに」
その独り言は、殆ど八つ当たりだった。
戦争が皆に与えた絶望。それがなければ、今のこの世界はどれほど幸せだったろうか。