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でこぼこと歩きにくい場所を抜けると、まっさらな大地の下り坂に出た。
木も草も生えていない事を疑問に思っていると、リビドムからアドルンドに、そしてアドルンドからリビドムに逃げようとした人たちが、先日ここで襲われたのだと教えてくれた。
「お陰でこの辺りには追剥が出てくれるようになった。急ぐぞ」
「……ヴィーゴ、それは無理よ?」
「え?」
眉をひそめて言うセレナに驚いて、有希は辺りを見回す。黒々と拓けた場所には、何の姿も見えない。
「向こう側で待ってるわ。数は――そうね、二十くらいかしら」
向こう側と示された方向を見遣っても、有希には見えない。
「戻ったとしても、幾人かが待ち受けてる」
カツカツと馬を進め、有希の隣に並ぶ。
「ヴィーゴはユーキちゃんと一緒に戻って。しばらくしたらまた来て」
(セレナ?)
いつもならもっと明るい。そう思って見遣ると、まっすぐ正面を見ている目が心なしか据わっている。
「……大丈夫か?」
そうヴィーゴが問うと、セレナはニッコリと笑う。
「それを私に聞くのはひどいわ。久しぶりでちょっと楽しみなのに」
これみよがしにヴィーゴがため息を吐く。二人の会話の主旨が掴めなくて、顔を交互に見る。
うろたえている有希に気付いたのか、セレナが微笑む。
「ユーキちゃん、ヴィーゴをお願いね。くれぐれも怪我のないように。片付いたら戻ってきてね」
「え、あ、うん」
ということは、後ろに戻って、そこで待っている追剥を倒すという事か。
途端に不安が胸を襲う。また、誰かと争うのか。また、誰かが怪我をするのか。
そう思っただけで、心臓がドキドキとうずく。不安で誰かに縋りたくなる。
(ヴィーゴさん)
見上げるその顔は淡々としていて、あっさりと有希に行くぞと促す。
ひらひらと手を振って有希達を見送るセレナを、後ろ髪引かれる思いで見ていたが、右手をぎゅっと握り締めて、正面を向いた。
すぐだった。
セレナと別れた直後、沢山の怒声と咆哮が聞こえた。
振り返るなとヴィーゴに言われなければ、有希も怪我をしていたであろう。
咆哮が聞こえた刹那、道すがらから数人の男が現れた。それぞれに武器を持って。
「逃げろ!」
そう叫んだヴィーゴの声を聞いて、有希は馬首を翻す。
槍が有希の頭を狙う。はっと頭を下げて、駆け抜けた。
――どのくらい、走っていただろうか。
木の葉がゆらゆらとたゆたって地面に着くほどであろうか、それとももっともっと長い時間だろうか。
おののく馬を宥めつつ、有希は速度を落とした。後方を振り返ると、誰も追ってきてはいなかった。
――しかし、確実に近い場所で争いが起きている。
金属と金属がぶつかる音、そして断末魔のような叫び声。咆えるような怒号が聞こえる。
(逃げろって言われた)
言われたから逃げた。けれど、心臓のもやもやが晴れない。正しいことをしたはずなのに、心のどこかでそれを自分が認めていないから、悪いことをした気持ちになる。
危ないところに置き去りにしてしまった。たとえ自分が何も出来ない無力な子供だとしても、あの場にいたかった。
(邪魔なのはわかってる。でも)
辺りを見回す。きらきらとそそぐ光りに目を細め、有希は大樹を見上げた。
「危険じゃないなら、いいよね」
そう呟いて、馬から降りた。
幼い頃にやっていた遊びで一番好きなものは木登りだった。
落ちるんじゃないかという不安と、全てを見晴らせるその自由さに虜になっていた。
好きだとおのずと上手くなる。それは言いえて妙で、有希は木登りも得意だった。
「久しぶりに登ったなぁ」
そう言いながら、弓を取り出す。
大きな木には、沢山の枝があった。樹齢がどれほど長いのだろうか。あちこちに伸びた枝はそれぞれ太く、有希の身体を易々と受け止めた。
剣も槍も届かない。そんな高い位置に登り、辺りを見回し、ヴィーゴ達の居場所を見つけた。
ヴィーゴはくすんだ白衣を翻しながら、ひらひらと動き回っている。今まで見たこと無いほどに機敏に。
「――よし」
背中に背負った矢筒から一本取り出して目を閉じる。
何もさえぎるものが無いから風が走り抜ける。前髪が翻る。
背筋を伸ばし、まっすぐ腕を引く。ゆっくりと呼吸をし、瞼を上げる。
ヴィーゴを取り巻いている内の一人に狙いを定める。腕を振り上げ、ヴィーゴに掴みかかるがそのたびにひらりひらりとかわされている。
悔しそうに顔を歪め、大きく叫んでまた腕を振り上げる。
(今だ)
そう思った瞬間、頭より先に身体が動く。指先から力が抜け、矢が風を突く。
飛び出した矢は男の肩に刺さり、男は衝撃で横に倒れる。
「つぎっ」
矢筒からもう一本矢を抜いて、今度はその男の腿を狙って放つ。それも刺さり、男は悲鳴を上げた。
ヴィーゴが驚いたように空を見上げる。正確には、矢の飛んできた方角を。そしてそこに有希の姿を見つけると、一気に顔をしかめた。そして後ろから飛び掛ってきた男をひらりとかわした。
「ごめんなさい」
絶対に声が届かないと分かっていても、謝ってしまう。
「でも、やっぱり心配だから」
そう言って、もう一本矢を取り出し構えた。
男達はあっという間に数が減り、あとニ、三人となった頃、突然足元から声が聞こえた。
「追剥か?」
有希は飛び上がりそうな程に驚き、慌てて照準を足元に合わせた。
「おっと、なにもアンタを襲おうだなんて思ってない。むしろ協力しようと思って来たんだ」
見ると、長い黒髪を一つにまとめた男が、さわやかに笑っている。その後ろには、幾人かの男達が居る。皆屈強そうで、あちこちに傷が見えた。
「アンタが狙ってるのは、追剥か?」
信じて良いものなのかどうか、男のその言葉の意味を探ろうとする。
しかし、有希のそんな思考を見透かしてか、男は肩をすくめた。
「俺達は、ココに来るっていう医者様を迎えに来たんだ。アンタもその内の人間で相違ないか?」
(医者様。っていうことは、アドルンド領のリビドムってこの人たち?)
有希は頷く。
「そうか。あちらだな? ――行け」
長髪の男が言うと、その後ろに居た男達が声を張り上げて走り出す。
有希はその様子をぽかんと見つめていると、男達はあっという間にヴィーゴの元に辿り着いた。
「アンタもそんなところに居ないで降りてきなよ」
「え? あ、ハイ」
やわらかいが何処か指示するような声に、思わず返事をしてしまった。仕方が無いので矢を仕舞い、弓を肩にかけてゆっくりと木から降りる。
地面に足を着けた直後、ヴィーゴの鋭い声が聞こえた。
「俺は、逃げろと言った筈だが?」
あまりにも怒気を孕んだ声にびくっと身体がすくんだ。おそるおそる振り返ると、後ろに先ほどの男達を従えたヴィーゴが仁王立ちしている。
「に、逃げたよ! ちゃんと……」
語尾が尻すぼみになる。ぎろりと睨まれて目がそれてしまう。
「でも、やっぱり心配で……木の上からならいいかなぁって……」
言い訳をするようにぽつりぽつりと言うと、大仰な笑い声が聞こえた。その声に驚くと、先ほどの男が笑っていた。
「大物な嬢さんだ! あんな小物相手にしているヴィーゴさんを心配するだなんて」
「え!?」
(今、ヴィーゴさんって言った)
知り合いなのだろうか。問うようにヴィーゴを見ると、ヴィーゴも驚いた顔をしている。
「お前……トウタか?」
「えぇ。お久しぶりです。――まさか医者様がヴィーゴさんだとは思いませんでした。心配して迎えに来て損をした気分ですよもう」
「お前達だったのか」
「はい」
ニッコリと笑む青年は先ほどとはうってかわって少年のような笑みだ。
「まだあちらにも居るようですけど、もしかしてセレナさんですか?」
「あ」
(セレナさん!)
あの広場に置いてきてしまった。大丈夫なのだろうか。思い出した途端に肝が冷えてゆく。
「ヴィーゴさん、早くセレナさんの所に行かなきゃ!」
片付いたら戻って来い。確かにセレナはそう言った。
有希は矢筒を抱えなおして、慌てて馬に駈け寄った。
「……もしかして、セレナさんの事も心配しているんですか、彼女」
呆れたように発された言葉を、有希が聞く事は無かった。