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呆然とその場に取り残された有希は、自分のくしゃみで我に帰って、慌てて孤児院に戻った。
あてがわれているセレナとの部屋に辿り着き、ぐるぐると回る思考を落ち着かせようとベッドに横になったら、そのまま眠ってしまった。
深夜にセレナに起こされて、うつらうつらとしている間に有希の荷物ごと準備を整えられ、はっとした頃には孤児院の入り口に居た。
「本当に、ありがとうございました」
深深と頭を下げているのは院長だ。その横でチルカも頭を下げている。
「いや、俺は自分の仕事をしたまでだ。どうしても礼が言いたいっていうんなら、この嬢ちゃんにしてくれ」
「え? あたし?」
びっくりしていると、チルカが顔を上げた。その姿にはもうどこにも疱瘡の跡は無く、元気そうなすがたに笑みが浮かぶ。
「子供達の面倒も見てくださって、本当にありがとうございます。どうかまた、近くに寄った時にはいらして下さい。歓迎します」
普段そんな口調で喋らないのだろう。少しばかりぎこちないその語調に微笑み、有希も頭を下げる。
「こちらこそ、色々と勉強させてもらいました」
顔を上げると、微笑んでいるチルカが居る。目が合うと二人でへへっと笑った。
「それじゃぁ、行くか。世話になったな」
ヴィーゴがそう言って、歩き出す。有希とセレナの分の荷物を持ったセレナも、ヴィーゴの後を追う。
有希はもう一度二人に頭を下げて、駆け足で追いかける。
(なんだか慌しいな)
のんびりと過ごしていた所為だろうか。これから向かう場所への不安がわきあがる。
右手の中指を撫ぜる。そこに指輪が嵌っていたのは、もう随分昔。それもほんの少しの間だった。
「……待っててね」
きゅっと手を握り締めた。
それからというものの、慌しい生活だった。
先だって訪れた孤児院のように数日滞在することはなく、日にいくつもの集落を訪れた。日が傾いた時分に居た町や村に宿泊し、明朝から出立する。
訪れる先々に居た人々は手厚く有希達を迎えてくれた。
時には朝まで談笑をし、翌日重い瞼をこすりながら移動したこともあった。
そんな慌しい日々が続き、気が付けば日差しが厳しい夏の盛りになっていた。
「――次の所で、リビドムの集落は全て回ったことになる。国境の向こうにあるが、居る人間は殆どリビドムだそうだ。そこを回ったら、アドルンドだ」
乗馬して言うヴィーゴの顔は、どこか疲れたようにやつれている。すっかり日に焼けた顔は褐色になり、無精髭が薄く見える。
「意外と少なかった」
「そうねぇ」
意外と少なかった。その言葉だけで済ませることができるのだろうかと有希は目を瞠った。
一つの集落を訪れると、既に亡くなった人間が約二割、感染している人間が五割。計七割近くの人が感染していた。
(あの人数で、少ない……?)
「集落を行き来する人間が少なかっただろう。――アドルンドに入ればそうはいかなくなる。……ユーキ」
「えっなに?」
ヴィーゴとセレナが、乗馬している有希を見ていた。
「くれぐれも、感染しないように気をつけてくれ」
「う、うん」
そう言うとヴィーゴは手綱を取ってゆっくりと移動する。有希も慌てて手綱を握りなおした。
約半月。馬に二人乗ると、それだけ馬に負荷が掛かるということで、暇さえあれば乗馬の練習をした。笑顔で無理難題を言うセレナにしごかれて、ある程度操れるようになった。大人しい馬限定だったが。
「ユーキちゃん、この辺り段差多いけど大丈夫?」
後方からセレナの声が聞こえる。先頭にヴィーゴ、そして有希を挟んでセレナと並ぶのがいつのまにか定着していた。振り向かないでも聞こえるようにと少しだけ声を張る。
「うん、平気。ヴィーゴさんがゆっくり歩いてくれてるから」
「そう? ここを抜けたら少し飛ばすから」
「わかった」
「それと……」
言い淀んだ声に引っかかる。何か言いにくい事でもあるのだろうかと耳を澄ませていると、やはり少し張った声が耳に入る。
「ここを抜けたら国境なの。十日熱が嫌で逃げ出したアドルンドや、それを狙う追剥やら軍人やらが出てくるわ。――いい? 私達に言われたら。ううん、言われなくても自分で危険だと思ったら逃げて頂戴。ユーキちゃんは自分のことだけを考えて」
硬い物言いに、思わず振り返ってしまう。そこには困ったように笑うセレナの顔がある。
「やぁね、振り返っちゃ。前見ないと危ないわよ?」
「あ、うん。ごめん」
前を向く。こまめに洗っているはずだが、消えないのであろう。少しくすんでしまっている白衣がたなびいている。
「ユーキちゃんの弓の腕前は評価してないわけじゃないの。あなたはとっても優秀だわ。この中では誰よりも上手」
優しいセレナの声が聞こえる。
「でもね、できる限り貴方を危険な目に遭わせたくないの。……って、もう十日熱が蔓延してるところを連れまわしてるんだけどね」
その悪戯っぽい声に、有希も苦笑する。
「けれど貴方はリフェノーティスから預かっている大事な子なの」
「そんな、別にあたし……」
「リフェノーティスがそう言ったのよ。だから、私達には貴方を護る義務があるの。それはわかって?」
「でも……もし危険なことがあったとして、二人を置いてなんて行けない……」
「それは、自分で自分自身を護れるようになったら言いなさい。自分自身を護れないのに、他人を護る事なんでできないわよ?」
ごもっともだ。有希は何も言えなくなって押し黙る。でも、だって、と、もどかしさに気を抜けば口を開いてしまいそうだ。言いたいのにいえなくて、心臓がむずむずする。
(わかってる。あたしが逃げる事が一番安全だってことを。わかってる。わかってるけど、悔しいよ)
手綱を握る手に力が篭る。
両親と同じ頃の二人と一緒に居ると、一層思い知ることになった。どれだけ自分が子供なのか、どれだけ自分が甘やかされているか。
(仕方ないのかもしれないけどさ)
金銭的な面でも全面的に頼り切ってしまっている。
(なんでこんなにも優しいんだろう)
二人とも、有希の安全を一番に考えてくれている。それが嬉しくもあり、申し訳ないとも思ってしまう。
(でも、あたしはそれに甘えるしかできないんだよね)
だからせめて、これ以上迷惑をかけないようにしよう。
そう決め込んで、唇をきゅっと引き結んだ。