62
足の長さの違いなのか、運動能力の違いなのか、わかってはいたが有希はパーシーに追いつけなかった。
有希がパーシーに追いついた時、パーシーはドアノブに手をかけていた。
「開けちゃダメ!」
そう叫んだのが先か、パーシーが扉を開いたのが先か。
パーシーは扉を開けて中に飛び込んだ。
「パーシー!」
有希も次いで中に飛び込む。
ベッドに寝ているチルカに馬乗りになり、心臓マッサージしているヴィーゴの姿があった。
「逝くな! 戻って来い!」
入ってきた有希たちに目もくれず、叫んでいる。
チルカは、一番初めに会った時の面影はどこへ行ったのだろうか。疱瘡が全身に回っているのだろう。体が真っ赤に見える。
(――そんな)
まさか、こんなにもひどい状況だったなんて。
「チルカ!」
パーシーがベッドサイドでチルカの手を握っている。その手もぼこぼこと疱瘡で真っ赤になっている。
(だめだよ)
まるで、ドラマのワンシーンのようだ。どこか現実味がなくて、どこかフィクションのようで。
「だめだよ、チルカ……」
ふらふらとベッドサイドに寄る。ヴィーゴに押された反応で跳ねる腕をゆっくりと掴んで、祈るように額を寄せる。
「チルカ、死んだらだめだよ」
(みんなみんな、チルカが治るのを待ってる。チルカが元気になるの待ってるんだから)
皆が叫んでいる。大きな声でチルカの名前を呼んでいる。それがどこか非現実的で、夢の中にいるようだ。
(チルカ、早く戻っておいで。元の元気な姿を見せて)
何度も何度も話し掛ける。ヴィーゴの力で跳ねていた腕はそのうち動かなくなった。
目を開けると、ヴィーゴがチルカの胸元に耳を当てている。
「――よしっ」
噛み締めるように言った顔はどこか嬉しそうで、チルカが戻ってきたことはすぐにわかった。
「チルカ、チルカ」
有希とは反対側の手を握っていたパーシーが、何度も話し掛ける。
すると、チルカの目がうっすらと開く。
「チルカ!」
破顔したパーシーはチルカの頭を撫でた。
「良く頑張ったな、チルカ」
「……シー……」
「喋らなくていい。ゆっくり休むんだ。な?」
慈しむように話掛ける。チルカはそれに頷くと、すうっと寝入った。
「もう大丈夫そうだな」
ほっとしたように息をついたヴィーゴにお疲れ様と声を掛ける。ヴィーゴは汗だくで、目の下に黒々と隈ができていた。
「それは、チルカは治るって事?」
「まだ予断はならんがな」
途端に嬉しくなる。顔がどんどんと綻んでくる。
「――んで、なんでお前さんはここに居るんだ?」
「え?」
にやけた顔でヴィーゴを見ると、険しい顔をしていた。
「感染する可能性があるから入るなと言ったのは覚えてるよな?」
「……はい」
「そこの兄ちゃんもだ。何故入ってきた」
「ヴィーゴさんが、チルカに逝くなって言ってるのを聞いたら、なんだかいてもたっても居られなくなって」
「それでお前さん等も応援しにきたって訳か」
頷く。
「馬鹿か! それで感染したらどうなる!」
「まぁまぁいーじゃない! ヴィーゴ、疲れてるからってユーキちゃんに当たらないで」
ベッドの傍らに立っていたセレナが、ヴィーゴの肩を叩く。
「ユーキちゃんだって、いけないことだってわかってたわよきっと。でも心配で心配で仕方なかったんだから。――それに、チルカちゃんだって、二人が呼んでくれたから戻ってきてくれのかもしれないでしょ?」
労わるようにヴィーゴの両肩を揉みしだきながら、視線を有希に移す。
「二人とも、後で薬飲んでおいてね。少しは予防にもなると思うから」
そう言ってウインクをする。
ヴィーゴは何かを諦めたようにため息を吐いた。
「――わかったなら、早く出て行け。オラ、そこの兄ちゃんもだ」
パーシーはいつまでもチルカの頭を撫でていた。ヴィーゴに言われて、しゃんと立ち上がる。
「彼女を救ってくれて、感謝する」
「お前さんに礼を言われるほどじゃない。俺は俺の仕事をしたまでだ」
「それでも、ありがとう」
そう言って、頭を下げた。
ニカッと笑ったヴィーゴは、パーシーの頭をわしゃわしゃと撫でる。
「そう思うなら、この後もこの孤児院に良くしてやってくれ」
「――あぁ」
「オラ、出た出た」
しっしと手を払って、ヴィーゴは有希とパーシーを追い払った。
有希たちはすごすごと部屋を出て、冷めやらぬ興奮と、嬉しさを噛み締めた。
扉が閉まるのを見届けて、ヴィーゴはベッドに歩み寄る。
その寝顔はとても安らかで、数分前まで心肺停止していた人間には見えない。
「……奇跡としか言いようがないな」
「あら、二人の愛の雄叫びの力かもしれないわよ?」
茶々を入れるセレナも、どこか真面目だ。
チルカの頬に手を添えて、首もとの体温を測る。すると、赤黒く変色したかさぶたが、ポロポロと取れた。
「っ!?」
驚いて思わず手が引っ込む。
かさぶたの取れた下からは、きれいな肌が見える。
「まさか、ありえない」
頬を数度撫ぜると、やはりかさぶたは簡単に剥がれてゆく。
「もう治ってるだと?」
普通、疱瘡は数日かけてゆっくりとかさぶたに変わり、取れるものだ。
「どうしたの?」
覗き込んでくるセレナに見せるように、もう一度チルカの頬を撫ぜた。セレナも絶句している。
額に手を当てる――やはり、先ほどまでの高熱は無く、じつに健康体だ。
「愛の力ってこんなに威力凄いものなのかしら。あの少年かしら」
「さぁ。愛っていうヤツが病気の全てを治しているなら、大抵の人間は死なんさ」
ベッドから外して、窓の外を見遣る。青白い月が、近隣の雲を藍色に染めている。
「だが、奇跡は人間を生かしてくれるらしいな」
太陽の光でもないのに、目の奥に沁みる。
その青白い月を眺めて、目を細めた。
「セレナ……お前は見たか?」
「嬉しそうなヴィーゴの姿は久しぶりに見たわ」
「そうじゃない。あの子だ」
「あの子?」
(見ていない、か)
白い肌に黒い髪、黒い瞳の、まだ幼い面影の残る少女。
ヴィーゴは視界の端で見てしまった。
祈るようにチルカの手を握っていた有希の身体が、淡く発光していたのを。