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昔、ドラキュラの映画を見た。
ドラキュラが綺麗な女性の首に噛み付く時、いつでも女性は恍惚とした顔をしていた。
その淫靡な行為を、幼心にドキドキしながら見ていた。
――なのに、自分はというと。
「いっったぁーい!」
首の一部が何かの引力で吸い取らる感覚がして、体中の毛が逆立つ。
「ぅわぁ! ちょっと! やぁっ」
ぢゅ、という明らかに吸われている音が耳に入る。
(いやーーーっ)
悲鳴は声に出すことが出来ず、口がぱくぱくと動く。もがけどももがけども、青年の力が強くて離れられない。
どのくらい時間が立っただろうか。首もとから生暖かいものが離れる。
ぺっと吐き出す音が聞こえて、草むらの一部が赤く染まっている。
(ど、どういうこと?)
首元にまだ残っているぬくもりを感じて両手で押さえる。青年を見上げると、青年は服の袖で口元を拭って言った。白い服の袖が赤く染まっている。
「一応、遅いかもしれないけど毒抜きしたわ。駄目よ? この辺りはブイブイが沢山居るんだから」
(毒抜き?)
もしかして、あの虫は毒を持っていたのか。それを、この青年が助けてくれたのだろうか。
「ごめんなさい、あたし知らなくて」
「無知は言い訳にならないのよ?」
困ったように笑うその顔も綺麗だなぁと見惚れていると、青年は柔らかな笑みを湛えたまま言う。
「ブイブイの毒は興奮状態の後に熱が出るから、いらっしゃい」
そういうと、有希を俵のように担ぐ。とても軽々と。
「うわぁ! ちょ、ちょっと何するの」
「この辺りにウチ以外の家はないの。手当てしてあげるから黙っていらっしゃい」
そう言うと、青年は有希の麻袋を拾い上げて、歩き出してしまった。
こうやって、俵のように担がれるのは二回目だ。宿屋に連れて行かれて、身包みはがされて、ナゼットに助けてもらった時だ。
あの時は小さな身体を恨んだ。
けれども、少し大きくなった今でも、その状況は打破することはできないらしい。
散々暴れてみたが、有希に回された腕が外れることはなかった。
「もう、じっとしてないと駄目じゃない」
呆れたように言うその言葉は、とても柔らかだ。男性なのに女性のような口調があまりにもしっくりしている。
「いや、だって、ちゃんと説明してよ」
「この状態で?」
青年の身体が揺れる。くすくすと笑っているのがわかる。
「話は、私の家に着いたらちゃんとするから、怖がらないで。――といっても、難しいかしら」
(なんだか、あたし一人でバカみたいだ)
なんでこの人はこんなにも余裕なんだろうか。一人で慌てて、恥ずかしがって、混乱して。
無意識に下唇を噛む。とても泣きたい気分になったが、涙腺はびくともしなかった。その代わりのように、お腹がきゅるきゅると鳴った。
「――――っ」
羞恥と重力で顔に血が上る。青年がまたくすくすと笑いだした。
「ご飯食べてないの? なら、何か作ってもらうわね」
恥ずかしくて押し黙っていると「あらやだ」と言う声が聞こえた。
「私、まだ喧嘩の途中だったのに」
誰と。なんて聞けなかった。
おっとりと歩く青年に担がれながら、雨の上がった森を見ていた。
再び太陽が顔を出したのか、木々の葉がきらきらと輝いていた。
『興奮状態の後に熱が出る』
青年はたしかそう言っていた。
(身体が重い……)
自分で歩いている訳ではないのに、身体がぐったりと重い。心なしか呼吸も早くなっている気がする。
軽いめまいがして、頭がぐらぐらと揺れる。雨に濡れた髪が、服が、体中の体温を奪っていくような感覚がして、寒い。
この状態がいつまで続くのだろうか。
こうやって担がれていると、青年の進む先がわからないから途方もない時間のようにも感じる。
そんな有希の不安が伝わったのか、ずっと黙っていた青年が有希に声を掛ける。
「大丈夫? 具合悪くなったりしてない?」
「んー……」
正直言うと、とても気分が悪い。けれども、それを言う気力もない。青年が歩くたびに腹部が圧迫されて、頭は左右に揺れている。頭に血が上ってこめかみあたりが痛い。
「やだ、大丈夫?」
反応がない有希を不審に思ったのか、青年が有希の背中を掴むとそのまま引っ張る。上体が起きたと思ったらすぅっと頭から血が下がる。
そのまま青年の手が素早く有希の膝裏に回り、気が付けば横抱きにされていた。
「こっちの方が良かったかしら?」
やわらかな低い声が聞こえ、微笑まれる。とても近い位置に青年の顔があって、有希は戸惑う。
「え、あ、あの、えぇと」
しどろもどろになって目が泳ぐ。微笑んだ青年が口を開く。
「私はリフェって言うの。あなたは?」
「ゆ、有希」
恥ずかしくて目を伏せる。どこに視線をやればいいのか困る。
がっしりとした胸板、一見細身に見えるけれど、筋肉の盛り上がった腕。そのどれもと密接だ。
水気をはらんで身体にぺっとりと張り付いた服が、リフェノーティスの服にじんわりと染みを作る。
「ユーキ、あそこが私の家よ」
言われて顔を上げる。リフェノーティスの視線の先を見ると、そこには木製の家があった。
リフェノーティスは器用に片手で扉を開けると、突然怒声が聞こえた。
「リフェ! やっと見せる気になっ……」
声と共に、部屋の奥の扉が開かれる。そこに立っていたのは、有希より少し年下だろうか、茶色がかった赤い髪が印象的な少年だった。有希と目が合うと、明らかに顔をしかめた。
「……リフェ、ソイツ誰?」
「お客さまよ。ブイブイに刺されていたので手当するわ。エストのベッド借りるわね」
少年の怒りなんて気にも留めずにリフェノーティスは部屋に入る。そのまま真っ直ぐ廊下に出て、すぐ左側の扉を開ける。
「ごめんなさい、客間がないから、この部屋で我慢してやってね」
そういうと、リフェノーティスは有希をベッドにゆっくりと寝かせた。
「ちょっと待てよ!」
部屋の入り口には、先ほどエストと呼ばれた少年が立っていた。エストは腕を組んで仁王立ちしている。
「何でオレの部屋なんだよ」
「あぁ、エスト。彼女になにか食べやすいものを作ってあげて」
リフェノーティスがどこかのタンスからタオルを取って有希に差し出す。
「ユーキ、これで体を拭いて。今、着替えを持ってくるわね」
そう言うと、有希の前髪を上げて額に手を当てる。
「――けっこうあるわね。寒気は?」
聞かれるままに頷くと、慈悲に満ちた笑顔をくれた。
「リフェ」
少年が部屋の入り口に立っている。
「……なぁに?」
「オレは、怒ってるんだからな」
そう言うと、有希を一睨みして、踵を返した。
エストの立ち去った場所をぼうっと見ていると、それに気付いたリフェノーティスが肩をすくめた。