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紫の瞳  作者: yohna
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 少女が扉を閉めた瞬間に、ぱちんと指を鳴らす。これで少女はこの家を判別できなくなった。

 ヴィヴィは笑顔を消して、溜息を一つついて机に突伏した。

「やさしいね――かぁ」

 久しぶりに言われた言葉だ。と、目を閉じる。

 朗らかに笑う少女の笑みが、瞼の向こう側に見えたような気がする。

「結構意地悪したと思うんだけどなぁ」

 嫌味を言っても、意地悪を言っても、彼女は笑って「ありがとう」と言った。

 心のどこかに居心地の悪さを感じて、机に額をぐりぐりと押し当てる。

「やっぱりアタシは意地悪よ……アンタに何も教えてないもん」

 だがそれは、自分で教えないと決めたことだ。だから後悔はしていない。

 あの無垢な笑顔が、あの無邪気な笑顔が、まだ部屋いっぱいに残っているような気がする。

 溜息を一つ吐いた。

 椅子の背もたれに寄りかかって、背中を反らす。

「ユーキに、アリドルの加護がありますように」

 そうぽつりと呟いた。


 深い森は太陽の日差しを浴びて、地面にきらきらと光をまぶしてくれる。

 有希は目を細めて、太陽の位置と地図を見比べる。

 その目はどこかうつろで、足取りもおぼつかない。

――あれから、五日経った。

 ヴィヴィの家を後にして、真っ直ぐ南下した。はずだった。

 どれだけ歩いても、歩いても、山は見つからない。あるのは高い木々の森で、その隙間からは光のシャワーが降ってくる。

 食物も飲み物も底をついて、有希はおぼつかない足で踏ん張る。

「ここ……どこぉ?」

 今までの移動はずっと馬だった。それが、ここ五日間歩き通しだ。疲労にがくがくと震える足が悲鳴をあげ、力が入らない。

「のど、かわいた……」

 鞄。鞄と呼んでいいものなのだろうか。麻袋に紐を通したものを両腕に通し、背中に麻袋を背負っている――には、衣服と乾物、そして水袋が入っていた。

 全て最初の三日でたいらげてしまったが。

 最後の力を振り絞って、大きな木の根元に座る。昼夜問わず緊張しっぱなしだったために、疲れが取れない。

(こんなところに放り出すだなんて……)

 悪戯っぽく笑う幼い笑顔に悪態をつく。

(迷ったじゃない!)

 時には目印を置きながら、時には木に目印をつけながら進んだが、歩けども歩けども同じ所をぐるぐる回ったり、全く知らない場所に出たりと、全然進んでいる気がしなかった。

 日差しは有希の頭からさんさんと降り注ぎ、熱を吸収する黒い髪が思考をぼやけさせる。

 木の幹に背をもたれて、目を閉じる。

 じっとりと汗をかいた首筋に、やわらかな風が吹く。目を閉じると木々の梢がこまやかに聞こえる。

(せめて、雨でも降れば良いのに……)

 喉が渇きすぎて、舌まで渇いている気がする。

 歩いていれば、そのうちどこか水場でもみつかるだろうと考えていた。

 歩いていれば、そのうち誰かに会える。

 歩いていれば、そのうち山も見えてくる。

 歩いていれば、そのうち町や村が見えるかもしれない。

 歩いていれば、そのうち、そのうち、そのうち。歩いていれば。

「……何にも無いじゃない」

 甘かった。何もかもが。

 近くに誰がいるわけでもない。それなのに、そんな甘い考えで歩きつづけていた。

 後悔したときにはもう遅く、それでも有希は歩きつづける事しかできなかった。そうすることしかできなかった。

 きゅるきゅると腹が鳴る。そのさもしい音にため息をついて、寝入る体勢に入る。

 夜は夜で、全ての物音が動物や虫のもののような気がして、おちおち寝ても居られなかった。

(虫が夜行性だなんて知らなかった)

 それとも、この世界だけなのかなぁと思うとやっていられない気分になる。

(ちょっとだけ、休憩)

 そう自分に言い訳して、大きく息を吐いた。


 雨の匂いがとても好きだった。

 突然湿度の上がった空気、土と合わさったときのむわっとした香り。

 きんと澄んだような匂い。

 雨が降る瞬間が、とてもとても好きだった。

 突然、首の右側に痛みが走る。

「いたっ」

 驚いて飛び起きる。そして、右手で首を触る。そこには――何かの感触。

「ぅ、わぁああっ!」

 慌てて手でなぎ払う。視界に小さな虫が現れる。

(か、噛まれた?)

 慌てて立ち上がって、麻袋を掴んで虫から離れる。もし蜂のように襲ってきたらどうしよう。そう思うと、腰が抜けそうになる。

 虫は草の中に落ちたようで、特に有希の所に飛んでくる気配はない。 

 どきどきと心臓が跳ねる。首を両手で押さえて、虫の居た辺りを凝視する。

(何? やだ、うそ)

 ぽつり、ぽつりと頬に冷たいものが当たる。

 そこかしこに充満していた雨の匂いが、雨を誘う。

 有希の喉が鳴る。

 首を押さえて立ち尽くす有希に雨が襲う。

 どのくらい寝ていたのだろうか。あれほど晴れていた空がどんよりと黒ずんでいる。

(雨……)

 あめ、あめ。

 急に喉の渇きを思い出した。

「雨!」

 叫ぶと共に、空を仰いで口をあける。ぽつぽつと水が身体の中に染みこんでくる。

(もっと、もっと)

 この雨はにわか雨かもしれない。ふとそう思うと、有希は森の中を見渡す。

 大きな葉を探して、くるりと巻くと、麻袋から水袋を取り出して口に添える。葉に当たった雨は、葉を滑って水袋の中に落ちてゆく。

 小さな枝で葉を固定して、有希はいくつも三角に巻いた葉を作って倒れないように固定する。

 少しずつ水の溜まった葉に口をつけ、ぐいぐいと飲んだ。

「生き返ったぁー!」

 三回同じことを繰り返したところで、はぁと息をついた。雨はまだやむ気配がない。

 有希は頭から流れ落ちる水を拭う。

「……そういえば、ずっとお風呂も入ってないじゃん」

 空を見上げると、どんよりとした雲はどこまでも続いている。

「丁度いいじゃん! 水浴びしよう水浴び!」

 何故か段々と愉快な気分にな気分になってきた。少し休んだからだろうか、とても気分が良い。

 そのまま履いていたサンダルを脱ぐ。水を含んだ土と草が、やわらかく有希の足を包み込む。

 ぴしゃぴしゃと泥水が跳ねても、有希はその場ではしゃいでいた。

 体中を水が打つ感覚が気持ちよくて、ずぶ濡れになっても笑っていた。

 雨に打たれて、いつまでも立ち尽くしていた。


 どのくらいそうしていただろう。いつの間にか目を瞑っていた有希は、人の声で目を開いた。

「――こんな所で水浴び? いくら暖かくなってきたとはいえ、冷えるわよ」

 落ち着いた低い声が聞こえて、驚く。身構えて声の在り処を探すと、そこには傘をさした青年が居た。

(おとこの人?)

 遠目でもすぐわかるような長い深緑の髪。長身で少し筋肉質なのに、とても綺麗な顔をしている。左足の膝から下がなかった。膝下から生えるように木の棒があるだけだった。

 伺うように見上げると、青年と目が合って、青年は苦笑した。そのまま有希の居る方向へと歩いている。

「その格好も、目に毒だと思うんだけど」

 なにが、と思って自分を見返す。

 薄手のシャツが濡れて、ぺっとりと身体に張り付いている。申し訳程度に盛り上がった胸元のラインが露になっている。

「うわー!!」

(か、かかか隠さなきゃ、た、確か麻袋の中に上着が……)

 慌てて左右を見回す。髪の毛が遠心力で飛ぶ。ぺちりと髪の毛が頬にあたる。

 少し離れた草の上に、麻袋が放られていた。

(あ、あった)

 取りに行こうと足を出すと、腕を取られた。見上げると、茶緑色の瞳が有希を見つめていた。

「あなた――ブイブイに噛まれたのね?」

「え?」

(ぶいぶい?)

 青年の空いていた手が有希の顎を持って動かす。有希はされるがままに左を向かされる。右側の首に青年の視線が当たる。

「やっぱり。――ねぇ、気分が高揚したりして……」

 言いかけて、青年はずぶ濡れになって泥だらけになった有希を上から下まで見下ろして、

「るわね」

 困ったように笑われた。

(綺麗に笑う人だなぁ)

 有希がそんな事をぼんやりと思っていると、青年は有希の首に噛み付いた。

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