30
少し細くなった下弦の月が、空を射るように浮いている。
夜闇の藍色にも見える空を、時折雲が白く染めている。
今朝見たときは、未だに苦しそうに眠っていた。そろそろ起きなければ、本当に衰弱してしまう。
パティはトレイに入った食事を持って、ゆっくりと階段を上る。階段を上りきる頃には、傾けてしまったせいでこぼれて、スープが半分になってしまっていた。
少女は起きただろうか。そう思ってひっそりと扉を開け、音もなく部屋に入る。
いつも聞こえる呻き声が聞こえない。ベッドを見やると、少女が横向きに寝ていた。その目は開いていたが、パティすら見えないようで、どこかをぼうっと見ていた。
見ると、シーツやブランケットはぐしゃぐしゃに足元にからまっている。手首が真っ赤に染まっているのを見ると、大分無理をしてはずそうとしたのだろう。
「……一国の王子様ってみんな暇なの? 王宮からそんなこまめにこんなとこ来ていいの」
呟かれた声は少し鼻にかかっている。少女らしく、高くて響く声が聞こえる。
「ケーレの知事を任されているから。それに君の姿をあまり人に晒せない」
返事を返すと、少し驚いたように目が開く。
そしてパティと目が合うと、少女はゆっくりと微笑んで言った。
「あの食料も、あなたが置いていってくれてたのね。ありがとう。この手も、傷を引っかいたりしないようにってやってくれたの?」
パティは驚いて固まる。
確かにその通りだ。だが、この状況下でそんな冷静な判断ができるとは思ってもいなかった。
「もう大丈夫だから、外してもらえますか?」
ベッドサイドにトレイを置いて、言われるまま手枷を外す。真っ赤になっていた手首には、うっすらと血が滲んでいた。
少女はそれを見て苦笑した。
「あたし、何日寝てた?」
紫の瞳がまっすぐパティを捕らえる。中心にある黒が、何もかもを吸い込みそうなくらいに澄んでいる。
「丸三日、眠っていた。夜が明けて四日になる」
四日かぁ。少女は小さく呟く。
「あと六日……」
この三日でやつれた少女は、いつか会ったときよりも、はるかにまっすぐな目をしている。
不安で仕方の無いという顔が、どこかにいってしまった。
声も掠れているが、しっかりとしている。
一体この少女には何が起きたのだろうか。パティには理解ができなかった。少女は立ち尽くしてどうすることもできないパティに、茶目っ気たっぷりに笑った。
「とりあえず、この食事はあたしのためって思っていい? おなかが空きすぎて気絶しちゃいそう」
それと、喉が渇いちゃったんだけど。
あと、顔も洗いたいんだけど、どうしたらいい?
彼女は図太くもそう言ってのけると、ベッドの端に座り、トレイを膝に乗せてスプーンを取った。
高い塔に閉じ込められて、外を眺める事しかできない。
――まるでラプンツェルみたいだと思った。
「ラプンツェルかぁ」
魔女に連れ去られたラプンツェルが、王子の為に髪の毛を垂らす。その髪は無尽蔵に伸びるという。
「……ここ8年分の髪の毛が伸びたとしても、地上には足りないだろぉなぁ」
ベランダから見下ろす。雲ひとつ無い空はさんさんと太陽の光を地上にまぶす。青々と茂った山と、森で視界はいっぱいだった。
昨晩、マルキー王子から食事を貰って、水を貰って、更に手桶で顔を洗って、着替えてもう一眠りした。
寝て起きるともう悪夢は見なくかった。けれど数日間何も食べずに過ごした為に衰弱してしまっていて、動けずに更に二日、ほとんど寝て過ごした。
そして三日目の今日に、やっと立ち上がることができた。
「いてて」
手首を動かすと、少し痛む。
真っ赤に擦れた傷は、手首をぐるりと一周している。この数日で少し細くなった腕は、骨がうっすらと浮き出している。
――あと三日。
ぐるぐると、その言葉が頭を巡る。
手が、足が、胸がざわざわとして言いようもない焦燥がこみ上げる。
(あと三日で死ぬとか、実感わかないよ)
それでも、怖いという気持ちだけは膨れ上がっている。
目に見えない不安に押しつぶされそうで、気がおかしくなりそうだ。
「そもそもさぁ、どうしてあたし、こんな世界にきちゃったんだろ」
あーあ。と、空を仰いで目を細める。綺麗なシアンブルーを落としたような青は、作り物のようにも見える。
――父親が、この世界の住人だったから。
(本当に、それだけなのかな)
どこかで聞くファンタジーな物語は、ウッカリ主人公が間違えて召喚されるとか、必要とされて召喚されるとか、伝説の史実どおりの人間だったりする。
(それに比べてあたしは)
何も無い。本当に、無力だ。
特別な能力もそなわってない。ただ無鉄砲に、無遠慮に、この世界にずかずかと踏み込んできただけだ。
(もし、理由があるのなら)
もし、この世界に有希が居ることが必要なのであるならば。
「嬉しいのにな」
それがどんな理由であれ、有希がここに居ても良いという事になるのではないだろうか。
有希が今、何よりも欲しがっているものだ。