29
パティは呆然と少女を見下ろしていた。
少女はまだ眠っている。とても苦しそうに。
少女が寝続けて三日が経った。胸の火傷が原因なのだろうが、パティにはどうしたらいいのかわからず、とりあえず額と胸の傷を冷やしていた。
時間を見つけては、ケーレの塔の最上階を訪れ、少女の額と胸元に冷えたタオルを添えた。少女がうめいて胸の傷を掻き毟ろうとしたので、両手首を縛って、ベッドにくくりつけた。
少女がいつ目を覚まして、手が不自由でもすぐに食事を取れるようにと、干した果物や穀物をわかりやすく置いたが、今のところ食べた形跡は無い。
――あれから、一度も目を覚ましていない。
このままでは、処刑の日を前にして、死んでしまうのではないだろうかと思った。
この少女が魔女として処刑されるのではなく、自然に死を迎える。
パティは瞑目して、もう一度少女を見やる。
少女は眉間に皺を寄せて、ひどく苦しそうだ。この顔は、この三日間、見つづけている。
(いや、あの日からだ)
あの日、オルガが彼女の胸にリコリスの蕾を植え付けた日からだ。
彼女はまるでその刻印を拒絶しているようだ。自分が魔女ではないと、そう必死に主張しているようにも見える。
けれどパティは知っている。自分にはどうすることもできないと。
少女は未だ、苦しそうに唸っている。
このままでは、伝説の魔女だと吊るし上げられる前に死んでしまうのではないだろうか。
「……その方が、良いのかもしれないな」
少女の汗ばんだ額に掛かる前髪を、払いながらパティは呟いた。
ゆらゆら、たゆたうようにゆれている。
背中が並んでいる。
皆が有希に背中を向けて立っている。
有希は皆の中心に座っている。
「パパ!」
見慣れた灰色の髪がゆれている。
「パパ! ちょっと、あたし大変な事になったの、あの世界の事教えて!」
ゆらゆら、灰色の髪がゆれている。
「有希は大丈夫。俺の子だもん」
「大丈夫じゃない、大丈夫じゃないよパパ!」
お願い。そう叫んでも、快斗は振り向いてくれない。
「ママ!」
「大丈夫よ有希ちゃん、あなたはパパの子だもん。そっちの世界で大きくなって、いい男見つけなさい」
「っママ! あたし大きくなってない! ねぇ、なってないんだってば!」
「大丈夫よユーキ、だってあなた、ルカ君にあんな啖呵きれるんだもん」
「もう怖いものなんてないですね」
「あっはっは。嬢ちゃんはすっげぇなぁ」
「そんなことない!」
そんなことない。本当はいつでも怖かった。いつでも劣等感ばかりだった。今もそうだ。自分のちっぽけさに辟易して、そしてこうやってぽつねんと座って。誰かが助けてくれるのを。誰かが慰めてくれるのを。誰かが有希を必要としてくれるのを待っていた。
「大丈夫よ、有希ちゃんは強い子だから」
「そう、有希はとっても良い子だ」
「ユーキは凄いわね」
「僕はユーキが羨ましいです」
「嬢ちゃんは頼もしいなぁ」
やめて。
「……そんな風に言わないでよ」
(違う。あたしはそんなんじゃない。もっと卑屈で、もっとひねくれてて、もっともっと――弱い)
褒められるようなことも、頼られるような事も、何一つ出来たわけじゃない。いつだって苦しい、いつだって悲しい。いつだって、いつだって、崩れそうになるのを必死に堪えているんだ。
ゆらゆら、ゆらゆら、世界がゆれている。足元もゆれて、とても立てそうにない。
ゆらゆら、ゆらゆら、水面にゆれるように、綺麗な金髪がゆれている。
「ルカ」
ゆらゆら、ゆらゆら、彼の身体がゆれている。ぶらぶらと手が有希の前に躍る。
きっとあの手は。あの手は嘘をつかない。
有希の不安も、有希の困惑も、全てあの手がぎゅっと掴んでくれる。
あのひんやりとした手が、きっと有希の中で煮えるぐちゃぐちゃな想いも冷やしてくれる。
右手を出そうとすると、左手が引っ張られる。あまりの勢いに横転する。
(――手が)
手が、何かにつながれている。
「そんな」
ゆらゆら、有希の前の手がどんどん離れてゆく。
「やだ」
行かないで。お願いだから。
頬を涙がつたう。
「やだ……嫌だよ、ねぇルカ!」
ゆらゆら揺れていた金髪が振り返る。そこには、つるりとしたように顔の無い、人。
次々と皆が有希を振り返る。皆のっぺらぼうのような顔で、寝転がっている有希を見ている。
「イヤアァァァ!」
驚愕に悲鳴をあげたところで、視界は真っ黒に塗りつぶされた。
自分のイビキで目を覚ます人が居るという事を聞いた事がある。
そんなまさかと笑ったのは、いつだっただろうか。
有希は自分の悲鳴で起きた。
何が起きたのかわからなくて混乱していると、涙がボロボロと零れた。
あの形で開いた口からは絶えず声が零れる。声というよりもうめきのようだ。
怖くて、何かから逃げたくて身をよじると、両腕が頭上で固定されているようで動かない。
混乱してまともな言葉が出ない。どれだけ動かしても、きっちりと固定されている何かは緩まない。
「イヤァ! ヤダ! アァー―ッ!」
何がこんなにも怖いんだろう。何がこんなにも悲しいんだろう。
過呼吸気味で、息が苦しい。ヒューヒューと喉が鳴る。苦しくて更に涙が流れる。
「やだ……」
何が嫌なんだろうか。それすらもわからないのに拒絶の言葉ばかり出る。
(もういやだ……)
顔は涙と鼻水でぐしゃぐしゃになっている。汗でじっとりと濡れた服は肌に張り付いて気持ち悪い。
頭が真っ白になる。何も考えられなくなると、少しだけ呼吸が落ち着いた。
(ゆめ)
夢だった。とても気持ち悪い夢だった。
夢だと気付いた後も、涙は止まることなく流れつづけた。
ヒューヒューと鳴りつづける喉の音だけが、部屋に響いている。