22
ナゼットがティータの眠るベッドに座り、ティータの寝顔を見ながらちびちびと酒を飲んでいた。
アインはそんな二人をみながら、所在なげに突っ立っている事しか出来なかった。
ルカがティータを連れて行くと言ったとき「ああ、やっぱりか」と漠然と思った自分が居た。
最初から、ルカは有希を危険に晒すのを嫌がっていた。フォルに居たときも、少女が主だと知られていなければ代わりを立てただろう。
普通の人なら幼い少女を連れ歩くのを嫌がるのは普通なのだろうが、アインの主は普通ではなかった。
正直に言って、変わってしまった。と思う。
幼い頃からルカを見知っている人たちには素で接してくれるが、それ以外の人間は道具としてしか見ていなかった。
間諜などでルカに詰め寄ってくる女の姿が昔あった。その時には、アインの中にトラウマを残すようなやりかたで女を罰した。
(なのにあの子はあんなにも軽々と)
瞳の色が変わっている以外には、何の変哲も無い子供だ。一時期はアインも魔女ではないか、間諜ではないかと疑った時期もあったが、どうやら杞憂のようだった。
(いや、何も変哲が無いからなのかなぁ)
彼女は幸せそうだった。――少なからずとも、幸せな家庭に育ったのだろう。人を疑う事を知らない。知らないものにはトコトン興味を示して「これはなに?」と、首を傾げてくる。幾度か物を教えると懐き、ことあるごとに話し掛けてきた。
終わり無く続いている戦争に疲弊した場所では、彼女のような人間を育てることは出来ないと思う。
ナゼットがふと動く。ぼんやりと考え事をしていたと我に返る。
寝返りを打ったティータの額に掛かった髪を、ナゼットがそっと払っていた。
数刻前は泣き叫んでいたティータだが、今は寝息を立てて安らかに眠っている――ナゼットが薬を飲ませたのだ。
アインは何も出来なかった。久しぶりに会う事ができた幼馴染が。普段あんな強気に振舞っている彼女が。「ルカート様」と震える唇からつむいだ彼女に、なにもしてやれることがなかった。
どうする事も出来なかったのだ。間諜を雇えば暗殺され、袖の下を入れようとすると逃げられ、あらゆる手を尽くしたが、謀ったかのように全て見通されていた。
だから明朝の特攻も、本当は罠なのかもしれない。
そう思っていたが、どうする事も出来なかった。ダンテを救わなければ、本当にリビドムは終わってしまう。
それは、ルカが言った言葉だった。ルカは国を再び三つに分けようとしている。
――罠だとわかっていても、行くしかないだろう。
本当は苦しいだろうその言葉も、いつもと変わらない無表情さで言ってのけた。彼はきっと、そうすることでアインが安心するのを熟知しているのだろう。
「お前にも、迷惑かけたなぁ……」
しんとした静寂のなかで、ぽつりと零れた言葉が響く。いつのまにかナゼットがアインを見ていた。
「どうしたんですか突然」
苦笑いしてみせると、大柄な身体がしゅんとすぼまってゆく。
「いや、オヤジのためでお前にも危険な目に合わせちまって……」
「何言ってるんですかもう」
むしろ腕力の無いアインを危険な目にあわせまいと奮闘していたのを知っているから、感謝の気持ちしか浮かばないというのに。
「嬢ちゃんにも、悪い事させちまったなぁ」
遠い目はどこかを捕らえている。ナゼットが何を考えているのかが手に取るようにわかってしまう。
「――でも、良かったですね」
嫌味でもなく、純粋に思った。大切な大切な妹が死地に行かなくて済んで。
「……ああ、いっくら感謝したってたんねぇよ」
苦々しい顔をして、ナゼットは俯いた。
アインとナゼットは、罪を犯した。ティータを護りたいが為に、まだあどけない、あの幸せに満ち溢れている少女を差し出した。
その証拠に、彼女が行くと言い出したとき、二人は何もいえなかった。ティータを連れて行くといわれたとき、あんなにも心がざわついたというのに、彼女のときは逆にざわついた。
――何も言わないでくれ。
心でティータに告げていた。だが、ティータは有希には行かせられないと泣き叫んだ。
止める事をしなかった。
それが、二人の犯した罪。その代償として天使のような笑顔と、えもいわれぬ程重たい空気を手に入れた。
アインはナゼットとは反対側に座り、ティータの寝顔を見つめた。
「本当に、良かった」
その呟きは、共犯であるナゼットの耳にだけ届いた。
こうして手を繋ぐのは何回目だろう。この世界にやってきたときに、一番最初に触れたものだった。
ルカは仏頂面で何を考えているのかいつもさっぱりわからなかったが、いつも手を差し伸べてくれて、手を握ってくれた。それだけで、とても安心してしまうのを、なんとかなるかもしれないと思ってしまうのを、この人は知っているのだろうかと見上げる。
繋がれた冷たい手が、じんわりと汗をかいている。だけども外す事は無く、しっかりと有希の手を握っていてくれている。
牢という名の塔に入った。塔の上は作業場で、地下が牢屋になっているらしい。
二人は入り口で荷物検査をされたので、食材の入った麻袋以外、何も持っていない。
持っているのは、麻袋と有希の懐に隠れている騎士証だ。
何に使うのかと問うと「ダンテ殿の偽者が現れるかもしれんだろう」そう言って、有希にダンテの主であるアンの指輪を持たせた。指輪はブレスレットとして、腕に通してある。
目の前には、たいまつを持った男が黙々と階段を降りてゆく。それを追うように二人も階段を降りる。
光においていかれないようにと焦ると、足元がもたつく。
足元がおぼつかない有希を、転ばないようにとしっかりつながれている手が、なんだか暖かい。
薄暗く静まった階段は、ひたすらに足音だけを響かせていた。
有希の心はとても凪いでいた。昨晩あれほど取り乱したというのに、一睡もできなかったというのに、とても穏やかな気分だった。
睡眠時間が無いため指先は冷えていたが、繋いだ手の方が冷たくて気持ち良い。
もしかしたら自分には、危機感が足りないのかなぁなんて考え事が出来るほどの余裕があった。
(それもこれも、ルカが居るからかなぁ)
このてのひらが頼もしいから、危機感を覚えないのだろうか。盗み見るように見上げると、たいまつの灯りに照らされた綺麗な横顔があった。
有希の視線を感じたのか、視線が合う。
内心でうわぁと焦り、慌てて視線を外す。脈が速くなって顔が熱くなる。
きゅっと、握る手に力が入った。
階段を降りきると、見張りの番兵が居た。そして、案内人が「ここだ」と言うや否や、ルカは素早く案内人に手刀をかまし、声をあげようとした番兵も締め上げた。低い唸り声と共に、男は気絶した。
ルカはふぅと一息つくと、牢屋を見やる。有希はしばらく男達が動かないか見つめていたが、ルカにならって牢屋を見る。
「すごい……」
牢屋はとても広かった。独房のような場所が沢山ある。とても一目でダンテを見つける事は出来ないだろう。
「ユーキ、騎士証を」
「あ、うん」
てきぱきと指示するルカに有希は頷いて、服の下から騎士証を取り出す。
ブレスレットに繋がれた指輪を垂らして、動いた方向にルカが走って行ってしまった。なんだか胸がざわざわして、有希も走って追いかける。
左右を確認しながら走っているルカに、囚人たちが声をかける。それはうめき声であったり野次であったり、叫び声であったりした。
その度に地下牢の音はこだまして、更に有希の不安を掻き立てる。
置いていかれないようにと走っていると、ルカがぴたりと止まる。
「ダンテ殿……っ」
牢の中を見ると、少し痩せた壮年の男性が茫然として座っていた。
どこかを見ていた視線はルカを捕らえると、途端に驚きで目が開いた。
「ルカ君……」
どうしてここに。そういう言葉を孕んだその声に、ルカはてきぱきと動く。
「話は後です。いずれ見つかります。早く出ましょう」
そう言うと、鍵で牢を開ける。
「動けますか?」
「あぁ、大丈夫だ」
あまり大丈夫ではなさそうだったが、だからといってどうすることも出来ない。それをわかっていたのか、ダンテは力強く頷く。
「ユーキ、お前も大丈夫……」
振り返ったルカは固まり、有希の胸元を凝視している。
(え、何?)
有希も俯いて自分の胸元を見やる。そこには、何かが突出しているのか、何かが服を押し上げていた。
「なにこれ!」
慌てて拭くの襟を引っ張り覗き込む。そこにあったのは、浮遊している指輪。
「…………え?」
取り出してみても、その指輪は宙に浮いたままで、その指輪の示す先は、ダンテの居た牢の向い。
住人を見て有希は更に驚いた。老齢の男性の右手中指が、きらきらと光っていた。
「どういうこと?」
老人は痛々しいほどに頬が痩せこけていた。遠目から見てもやせ細っていて、なのに眼光だけ鋭いのがアンバランスで恐い。
「お前……」
「え? 何?」
近寄ろうとしたところを、ルカに肩を掴まれて止められる。
「ルカ」
「お前……その指輪はどうした」
「どうしたって……」
(このネックレスは)
――これ、オレが唯一あっちから持ってきた物なんだけど、何か困ったことがあったら使って。肌身離さないでね。
懐かしいな。と、暖かな気分になる。いつまで経っても娘離れしなくて、よく抱っこされたなぁ。
きゅっとその指輪を握る。
「パパ……父親のよ」
老人が柵を掴んで叫んだ、
「カーン様!!」
その声は響き渡る。有希はびっくりしてすくむ。
「ああ! カーン様。やはりあなたは生きておられたのですね! このガリアン、一日千秋の思いでこの日を、この日を待ちわびておりました!」
がしゃがしゃと柵を動かすその様はまるで狂人のようで、恐くてルカの服を掴む。
「ガリアン?」
ルカが眉をひそめる。聞き覚えがあるのだろうか、ルカはこの人を知っているのだろうかと見上げる。そこには、いつもと同じ何を考えているのかわからない、ただただきれいな顔があった。
「……ルカ君、彼も連れて行ってはもらえないだろうか」
ダンテが言う。随分衰弱しているように見えるのに、声はしっかりと強い。
「無理は承知している。だが彼は、ガリアン殿だ」
ルカは神妙に頷いた。有希には誰かわからなかったが、快斗と関係のある人なのだろうかと、白髪の老人を見つめた。