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息苦しくて目を開くと、ぼやけた水色の世界が広がっていた。
(生きて……る?)
目を見開いていると沁みて痛い。水の中だろうかとぼんやりと思う。
水の中にいるのかと思うと、途端に息が苦しくなる。慌てて水面にあがろうとして、息を全部吐き出してしまった。更にパニックを起こした有希は、水面に向けてもがく。
あと少しで水面に顔を出せると思ったところで、体がゆっくりと沈む。足と手で必死に水を掻いても、少しずつ水面が遠のいていく。
何が身体を重くさせているのだろうかと逡巡して、抱えたリュックサックが重たいのだと思って必死に外す。もう息が続かない。呼吸をしたくてしたくて、それ以外なにも考えられなくなる。
リュックサックを外すと途端に体が軽くなった。そのまま水面を目指す。体が反射で酸素を取り込もうと肺が膨らむ。水が喉から入り込んでなけなしの空気が口から出てゆく。
ようやく右手が水面に出る頃には、有希は意識を失っていた。
頬をぺちんぺちんと叩かれる。ああもう朝なのかと首を振る。
母親の裕子はいつもそうやって遊びながら有希を起こそうとするのだ。その度にどれだけ有希が不機嫌になっただろうか。
寝返りを打って手から逃げようとする。
「んー」
「寝るな」
低い声が聞こえる。聞き覚えのない声に違和感を覚える。声は更に喋りつづける。
「意識を失ってるのかと思えば、ただ寝ているだけだとはな」
鼻で笑った声が聞こえて目を開くと、青年が身体を濡らして有希の隣に座っていた。
「!?」
声も出ずに、慌てて身を起こして後ずさると、ぶっきらぼうに「起きたか」と青年は言った。
「この荷物はお前のものか」
青年が有希のアーチェリーケースを持ちあげる。慌てて首を縦に振る。
「ほぉ……弓が使えるのか」
中身を見たのだろうか。まぶしそうに目を細めるその端正な顔立ちに、有希はただただ驚いた。
年の頃は二十代前半だろうか。高い鼻筋に切れ長の目。金髪碧眼の美青年が、そこにはいた。そしてハリウッド映画で見かけるような甲冑が傍にごろごろと置かれている。
へたりこんだままぽかんと金髪の美青年を見つめていると、怪訝な顔をした美青年が言う。
「しかし何でまた、こんなところで溺れていた。ここは一般人は立ち入り禁止で――」
はたと目があう。金髪碧眼の青年は食い入るように有希を見つめている。
何が起こっているのか理解できない頭は、からからと空回りをはじめる。
(ここはどこなんだろう。そもそも、なんでこんなところに居るんだろう。あれ、あたしマンションから落ちたんじゃなかったっけ。あれ、水に溺れてたの? それでこの人に助けられたの? あれ、でも助けるってどうやって? 人工呼吸? このガイジンみたいな人に?――んなまさか。あれ、でもあたし、なんでこんなところに居るんだろう。まさか、実はあの二人の壮大なドッキリで、下にクッションとかマットとかあったんだ。それで、気絶してるあたしをきっとここまで連れてきた訳か)
妙に納得して、目を見開いている美青年に問い掛ける。
「あ、あの、ここはどこですか。一応日本ですよね?」
「ニホン?」
美青年が眉をひそめる。美青年は何をやっても美青年なのか、と有希は感心する。
「そのような土地は知らん。リビドムにもマルキーにもそのような国はなかったと思うが?」
「…………へ?」
(ニホンが、ない?)
両親のドッキリではないのだろうか。有希の頭がぐらぐらと混乱する。辺りを見回すと、確かにセットとは言えないほどに精密で広大な景色が広がっている。
ぽかんと放心していると、美青年が甲冑を手早く纏って、マントを有希にふわりと被せた。
「さあ、お嬢さん。そのままで居ると風邪を召しましょう。着替えを用意させるのでこちらへ」
「へっ? あ、あぁ、ありがとう、ございます」
差し伸べられた手を取り、少し早い足取りで美青年の後に着いていった。
有希が落ちたところは、どうやらお城の近くの泉だったらしい。ヨーロッパにありそうなお城があり、美青年はその中にするりと入っていった。頭からすっぽりとマントを被った有希は詳しく見ることができなかったが、幾人かが有希の事を問い掛けると、美青年は「客人だ」と言って歩きつづけた。
(もしかしてこの人、偉い人なのかな)
この美青年に話し掛ける人は皆、一様に敬語を使っている。
(王子だったりして)
それはそれは小説のような出来事だ。と鼻で笑う。
どのくらい引っ張られていただろう。気が付くと、有希はとても広い部屋で数人のメイドに囲まれて、あれよあれよという間にスウェットを脱がされ、ひらひらとした水色のワンピースを着せられた。
「とってもお似合いですわ」
メイドが満足げに頷き合っていると、扉をノックする音がして、そちらを振り返ると先ほどの美青年が居た。
「まぁ、ルカ様。ごらんになってくださいまし。このお嬢様、とってもかわいらしゅうございましょ?」
一番の年配のメイドが言う。
(ルカ……様?)
やっぱりこの人は偉いのだろうか。と、戸惑い気味に見上げる。
何も居えずにもじもじしていると、メイド達は去り、年配メイドもルカに何か耳打ちすると出て行ってしまった。
「すまないが、君の着ていた服は処分させてもらった。濡れていたし、なによりも奇妙で悪目立ちする。代わりと言ってはなんだが、服はいくらでも用意しよう」
「え、あ、ありがとう」
恥ずかしくなって目を伏せていると、顎をつかまれて持ち上げられる。有希が見上げても、身長差がかなりあるせいか、ルカは腰をかがめている。
(くいって、くいってやったよ!!!!)
王子様のような人が王子様のようなしぐさをする。それに慌てながら目を泳がせる。
「……君は」
「失礼致します!」
盛大に扉が開かれる。音と共に有希の顎に添えられていた手がさっと離れる。
有希も驚いて扉が開いたほうを見やると、藍色の髪と黒い瞳をした、細身の青年が立っていた。どこか顔がこわばっている。
「オルガ様がお呼びです――一体何をやらかしたんです?」
目の前のルカがため息をついた。
「ずいぶん耳が早いのだな、兄様は」
青年は驚いている有希を見つけ、睨みつける。
「なんですかその子供は。いつからそんな道楽趣味をお持ちになったんですか?」
ルカが気だるげに答える。
「たった今だよ。――どうやら兄様も彼女の事が気になるようだが?」
何が起きているのかわからずに慌てふためいていると、藍色の髪の青年がため息をついた。
ルカは極上の笑みを浮かべて有希に問い掛ける。
「そうだ。まだ君の名前を聞いていなかった」
(うわぁ)
初対面の無愛想さからは微塵も想像できない笑顔に、有希は戸惑う。
「僕の名前はルカ。君は?」
「ゆ、有希」
「ユーキか、変わった名前だね。家は、どこにあるんだい?」
目線を同じ高さにするようにルカが屈む。まるで子ども扱いだ。と思いながらも、甘やかされている感じが、とても安心できる。
「家は、わからないわ。気が付いたらあそこにいたの」
浅い海のような、綺麗な青い瞳が、有希を見ている。
(あ……嘘がないか、疑っている目だ)
少し不快に思いながらも、こんな狂言じみたこと言う人間が信じられないのもしょうがないか。と、心のうちでため息をついた。
「ルカ様」
「今行く」
立ち上がったルカが、有希に手を差し伸べる。
「さて、恐い人に会いに行こうか」
何がなんだかわからず、とりあえず有希は頷いた。もしかしたら、この人はとんだ二重人格なんじゃないかと思いながら。