18
ティータは少女の豪胆さに驚いていた。
自分たちとアインは、アドルンドに戻るという事を知っていた。そして――アインが戻りたくないと言う事もわかっていた。
有希はまだ怒った興奮が冷め遣らないのか、肩で息をしている。椅子に座ったルカはため息をついて机に頬杖ついている。
くすりと、笑みがこぼれる。
「ユーキ、ほら落ち着いて」
話し掛けると、有希は「え?」と、赤らんだ顔でこちらを見る。興奮しすぎていて、頭が真っ白になってしまたのだろうか。
「今お茶入れるから、座ってて?」
ね、と言うと素直にコクンと頷いて、ルカの向いに座る。
「ルカ君も飲むよね?」
頼む。と、一言。わかったわと答えると、ナゼットが盆を持って現れた。
「あ、お兄ちゃん、ありがとう」
「おう、カップは人数分でよかったか?」
「えぇ、大丈夫よ」
ナゼットから盆を受け取ると、熱湯の入ったポットに、添えてあった茶葉を入れる。
ナゼットには紅茶を入れることができなかった。昔、紅茶を飲みたいと駄々をこねたティータに、とても渋い紅茶を入れてくれたのだ。それから今でも、ナゼットは茶葉の量の加減ができないのだ。だからこうして、準備だけしてくれる。
昔の事を思い出して、くすりと笑う。
「ホント、ルカ君って今も昔も素直じゃないね」
仏頂面だが、明らかに不機嫌な姿を見て、懐かしい姿と重なる。
「危険に晒したくないって、素直にそう言えれば良いのにね」
黒髪、紫色の瞳をした少女が、目をぱちくりとさせてこちらを見る。
「ティータ、それ、どういうこと?」
「ふふ」
「ティータ」
ルカが無言の制止の声をあげる。だがティータは聞こえないフリをした。
「あのね、昔。まだみんながお城に居た頃なんだけど、三人で狩りに行ったらしいの。でも、アインは最年少じゃない? 危ないからきちゃダメって言えばいいのに、ルカ君たら「邪魔」って言って終わらせちゃったの」
その後は大変だった。残ったアインはティータと一緒に遊んだのだが、やっぱり狩りに行きたくて行きたくて、ティータを連れて狩場まで行ってしまった。そして、ルカとナゼットに見つかった二人は大目玉を食らった。
その話をすると、有希が酷く申し訳なさそうな顔をして、ルカに謝った。そして謝ったかと思うと、急に怒り出した。
「それならそうと、どうして素直に言わないのよ! アインさん張り切って行っちゃったじゃない!」
「だから先に来るなと言っていただろう」
「言葉が足りないわよ!」
そのやり取りがなんだか可笑しくて、くすくすと笑ってしまう。
お茶を煎れて、カップをそれぞれの前に差し出す。紅茶の柔らかな匂いが立ち込める。
「アインさんはルカを心配して言ってくれてるんだよ?」
「――アイツは、昔から心配性なんだ。だからあまり危険な事を危険だと知られたくない。危険に晒されたとしても、アイツは身を守る手段がないからな、守ってやれない可能性だってあるんだ」
珍しく素直に本音を言ったルカに驚いて、ティータはカップを持ったまま直立不動してしまった。
ルカの座っている有希だけが、満面の笑みを浮かべていた。
「……そっか。ごめんね、我儘言っちゃって。でもあの底意地の悪い人の所になんか行ってたまるかって感じだから、ついてくからね」
有希はそうのたまった。その強さに、ティータは微笑む。
(私だったら無理だわ)
聞けば有希は異世界の人間だという。異世界がどこかはわからないが、きっと別大陸の人なのだろう。突然現れて、文化も生活習慣も違うところに放り投げて途方に暮れていたところを、ルカが保護したと聞いた。
昨晩寝るまでずっと有希の世界の話を聞いていた。
とても便利で、安らかで豊かな国に育ったと聞いた。それなのに、彼女は幼い身でありながら、戦争に巻き込まれても強く強く生きている。戦争というものすら知らなかったと言っていたのに。
オルガに利用されそうになっても、誘拐されて身包み剥がされそうになっても、気丈に振舞っている。
ティータはそんな有希が羨ましかった。
カタン、と、扉から物音が聞こえたような気がした。閉じた扉の向うは見えない。
けれど、誰が居るのかは大体予想がついてしまった。
ティータは微笑んで、扉に歩み寄る。
「聞いてたのね」
こっそりと扉を開けると、真っ赤な顔をして立ち尽くしているアインが居た。両手で頬を挟んでいる。
「いや、あの、すぐそこで伝令に手紙を渡されたからお伝えしようと思って……」
あわてふためくその姿を、懐かしいと思う。狩場で必死に言い訳をしていた姿と重なる。
「る、ルカ様が、そんな事思ってただなんて」
「馬鹿ねぇ」
「ば、ばかとはっ……」
口をつけていない紅茶を差し出して、くすりと笑う。アインが拗ねたようにソーサーからカップを取った。
「ホント、馬鹿よ」
素直じゃないんだから。
ずっとずっと、暗い道ばかり歩いてきた。
捕虜として過ごす日々は陰鬱で、毎日が灰色に過ぎていった。
迫害されないだろうか、戦争が再び起きると殺されてしまうのではないだろうか。そんなことばかり考えながら生活していた。
逃げ出したときには、この瞳は絶望以外のものを見なくなっていた。いつ追いつかれるのか、いつになったら逃げ切れるのかと毎日震えて過ごしていた。
記憶の中で消えかけていた、懐かしくて暖かい記憶を必死に掻き集めて抱きしめて、こんな風に笑える日をずっとずっと夢見ていた。
じんわりと目頭が熱くなる。飲み終えたカップをソーサーに戻すと、アインがぎょっとした顔でティータを見ていた。
「な、なな何泣いてるんだよ」
「え?」
気付いたら、涙が頬を伝っていた。見ないで。と、慌てて裾で目元をこする。
「め、目にゴミが入ってたのよ!」
なんでもないんだからと、念を押すように言う。
(これからまた、危険な場所に行く事になっちゃった)
目の前でうろたえている彼も、その危険な場所に連れて行くことになってしまった。
(……でも。それはどこにいてもかわらない事だわ)
どこに居ても追われるというのなら、せめて、あのやわらかな記憶と共に居たいと思うのは愚かな事なのだろうか。