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――ごめんね、ルカ。
掴んで曲げたらいとも簡単に折れてしまいそうな細い指で、ルカの頬を伝う涙を拭う。
――泣かないで、私は後悔していないわ。
そう言って、困ったように微笑む。美しい顔で。
――駄目ね。可愛くて何よりもいとおしい弟よりも、男を選んでしまうだなんて。
――あの人の事、おねがいね。あの人の味方になってあげられるのは、ルカだけだと思うから。
『でも、姉様……』
――わかっているの。あの人が私のことを知ったら、私を殺すわ。
『それなら、どうして』
――でも、私はそれでもいいからあの人に触れたいの。触れられたいの。
そう言って、背筋が粟立つほど妖艶な笑みを浮かべた。
――だってそうでもしないと、あの人いつか私以外の女を抱くでしょう? そんなの許せないの。だからルカ、これは私のエゴなの。――だって、私は魔女なのよ?
わかっている。
これ以上何を言っても、ティファが自分の意向を変えないことを。
理解はしているけれど、納得なんてできない。
納得するということは、姉の死を肯定することになる。
そんな事、止めずにはいられない。
どう言えば。
何をしたら。
いくら考えても、答えは一つも出てこない。
――大丈夫。貴方にもいつか、守るべき女の子が現れるわ。
『っ――俺は! 姉様以外にそんな人間必要ありません!』
――ふふ、好きよ。大好きよ、ルカ。――その子が現れた時は迷わず守ってあげてね。大切にしてあげて。
あぁ。
この人はもう、決めてしまっている。
『可愛くていとおしい弟』が入る余地なんて微塵もないのだ。
あぁ。
見送る背中は華奢な筈のに、とても頼もしく、勇猛に見えた。
次に変わり果てた姿を見た時、ただただ姉が目的を果たせたのだと理解しただけで、涙さえ流れなかった。
どんなことが起きても、何の感情も湧かないようになるには、それほど時間は掛からなかった。
――好きよ。ルカ。だからこれ以上なにも言わないで。
鈴のような声でささやく彼女の言葉が、ルカの中の何かを凍らせた。
好きよ。
そう囁いて、女がルカの首に腕をからめてキスをせがむ。
望むものを与えてやると、女は鼻にかかる息を吐き出しながら笑う。
極上である――と思っている――男を手に入れた時の女の笑い方は総じて同じだ。支配者の笑みを浮かべる。
お前を支配し、所有しているのは自分だ。――そう、誇示しているような笑み。
好きと囁く言葉を与えられる代わりに、様々なものを要求される。
力であったり、権力であったり、金であったり。容姿であったり。
それらを求める為に、女は好きと囁くのだ。
『好きよ。だから――』
好きよ。
やがて女は、そう叫びながらしがみついてくるようになる。
涙をこぼし愛していると喚きながら、まとわりつく足に半狂乱で爪を立てる。
極上である――と思っている。または思っていた――男に捨てられる時の女の末路も、たいてい同じだ。
無様に追いすがり、相手の改心を望む――かつての自分と同じように。
そしてかつての自分と同じように、女も心の奥底で感じているのだ。
もうなにを言ったとしても無駄なのだろうと。
――けれども、一縷の望みを捨てられずに縋るのだ。
無様だと知っていながらも。惨めだと知っていながらも。
そんな女の姿に過去の自分を投影してしまい、嫌悪はさらに深まる。
好きと囁く言葉がみな、欲望から生まれる事を知っているのに、拒絶することはできなかった。
――ルカもまた、一縷の望みを捨てられずにいたのだ。
ほんとうのもの。を、心の底では諦められなかった。
『ルカートの事を受け止められるのは、私だけですのに。愛してますわよ』
そう言って愛を強要した女は、自分が愛される事だけを求めていた。そのためならば、いくらでも虚構の愛を叫んだ。
結局、女達から得られたものは、自己愛ゆえの強欲さだけだった。
ほんとうのものなんて、存在しなかった。
――好きよ。
――好きよ。
――愛しているわ。
頭の中で、様々な声が響いている。
「っやめろ……」
伸びてくる腕。押し当てられる唇の感触。ぞわりと鳥肌が立つ。
――好きよ。
本当はそんなこと思っていないだろう。
――好きよ。
本当の望みは何だ。
――愛しているわ。
そして次に何を強要するんだ。
好き。好き。愛してる。
繰り返し反響する甘言が、ルカに爪を立てのしかかる。
「っやめろ!!」
腕を、声を払いのけるように振る。視界の端に壁が見えた。
その壁めがけて、思い切り拳を降り上げ、振り下げる。
拳に鋭い痛みが走り、眉間に皺が寄る。
脈と同じような間隔で、右手が痛みを訴える。
目を閉じ、一つ深呼吸をしてから瞼を上げる。
そして、ひとつひとつ現状を認識してゆく。
肩で呼吸をしている自分。
目の前には城壁。
耳に入るのは、野鳥のさえずりと、風の音。
安堵の息を吐いて、足元を見下ろした瞬間、目を瞠った。
水たまりのような黒の上にルカの足があり、その水たまりの奥から誘うように白い腕が伸びている。
「っ――――――!」
拳を握りしめ、また壁に叩きつける。
響かない低い音と、骨が軋む音が走る。
再び足元を見下ろすと、黒は消えていた。
「…………ハァ」
(こんな時に)
最近は何もないから、もう大丈夫なんだろうと思っていたのに。
――ルカ。好きよ、大好きよ。
耳の奥でまた、鈴のような声が囁きはじめる。
呪いのような、甘言を。
(酒……は、外か)
外の馬に預けている酒の量を思い出す。――確実に、足りない。
(どうするか……)
囁くような声は次第に大きくなってきている。いつしかまたあの暗闇におそわれるだろう。
どうにかしなければ。
そう考えている間にもまた、腕が伸びてくる。
負傷した右手を慈しむように触れるそれを、容赦なく振り払う。
「っきゃぁ!」
今までのものとは違った反応に目をやると、誰かが尻餅をついていた。
そこでようやく、今振り払った腕は人間のものであったと理解した。
――好きよ。好き。
「……悪い」
かろうじてその言葉だけは出た。
相手が何か言いながら立ち上がるが、何を言っているのかは聞こえない。
黙っていると、相手は右手に触れようと手を伸ばしてきた。反射的に振り払う。
――愛しているわ。
「構うな」
構うな。行け。
――ごめんね。
「…めろ…」
――好きよ。
――あの人のこと、お願いね。
「いつもいつも、俺の話を聞いてくれないのに」
――好きよ。
――だって、私は魔女なのよ?
「やめろ」
――ふふ、好きよ。
「……やめてくれ……」
――泣かないで。
「泣かないで……ルカ」
頬に、暖かいものが触れた。
「……ユーキ」
有希がいつの間にか、目の前に立っていた。
目が合うと、有希が泣きそうな顔で笑っていた。
「だいじょうぶだよ、ルカ」
そう言って、首に腕を回してくる。華奢な腕に引かれるまま、膝から崩れ落ちる。
「だいじょうぶだよ」
背中に回った手が、宥めるようにとんとんと規則的に背中を叩いている。
「だいじょうぶだよ」
根拠の感じられない言葉をひたすら発する透き通った声は、やわらかくあたたかい。
背中を叩く音。有希の鼓動の音。自分の呼吸の音。それらが甘言をすこしずつ消してゆく。
すべての音を一つも逃さないように、ルカは目を閉じた。