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ちち、と、鳥のさえずる声が聞こえる。
少し冷たい。でもやわらかな風が吹く。
ゆっくりと意識が覚醒し、自分が横たわっている事を理解する。
目を開けると、ルカの顔があった。どうやらルカの足を枕に眠っているらしい。ルカが顔をのぞき込んでくる。
「大丈夫か?」
「あたし……」
どうなったの。そう聞くより前にルカが言う。
「服が少し破れただけで、大した外傷はない。――痛みはないか」
「うん……多分、ない」
身体を検分しながらのろのろと起き上がる。
擦ったであろう右頬のちりちりした痛みだけが、先ほど魔物に襲われた事を主張している。
こうして休んでいるということは、魔物はルカが倒したのだろう。
「ルカは、大丈夫だった? 怪我とかない?」
一瞬目を見開いたルカは、大仰にため息を吐いた。
「……の馬鹿。お前が俺を守ろうとして危険に晒されてどうするんだ」
「だって……」
「俺の事はいい。お前はお前の安全を第一に考えてろ」
背中がずきずきと痛む。打撲くらいはしているのだろう。
「そんなの嫌だよ。あたしは、ルカが怪我したりするの、やだもん」
馬鹿、ともう一度言われる。
「主人を守るのが騎士の役目だろうが。その騎士が主人に守られて主人が怪我したら元も子もないだろ」
「でも……」
「でもじゃない。俺は怪我を負ってもすぐに治る。だがお前はそうじゃない」
ルカの眉間に皺が寄っている。
「……それでもやっぱり、ルカが怪我するのは嫌」
雪山でルカが負傷したとき、とても怖かった。
つくりもののように美しい顔は青白く生気のない顔だった。頬に張り付いた血は紅く黒く、有希を恐怖させた。
もう、あんなのはごめんだ。
「馬鹿」
「ば、ばかってなによ!!」
キッとルカを睨みつける。睨みつけたが、そこに見えたものに驚愕して睨むことを忘れた。
ルカが笑っていたのだ。
呆れたとでも言わんばかりの顔で、ゆるく笑っている。
「お前は本当に、馬鹿だな」
「な、なによ!! 馬鹿なのはルカの方じゃない!!」
そう。馬鹿なのはルカだ。
だがルカは馬鹿と言われたのが不服だったようで、眉根に皺を寄せている。
「あたしなんかを守って怪我するなんて……馬鹿だよ。だって、あたしは、その場の流れで契約しちゃっただけの主人じゃん」
有希がそう言った途端、笑っていたルカが不機嫌そうに顔をゆがめる。
それも当然だろう。とてもとても無神経な事を、有希は言ったのだから。
気まずくて、ふいとルカから顔をそらす。
「……ごめん。嫌な事言った……忘れて」
言って、立ち上がる。衣服の入った袋を探して取る。
「…………着替えてくるね」
この気まずさから逃げ出したかった。
きっとルカなら、そんな有希の心中なんてわかってて、有希が戻る頃にはいつものように接してくれる。
そんなルカの優しさに甘えようとする自分も嫌だが、今の自分の方がもっと嫌だ。
「ユーキ」
林の陰にそそくさと行こうとしたが、ルカに呼び止められた。
「…………なに?」
振り返る勇気はなくて、ルカに背中を向けたまま問いかける。
「理由はある、と言っただろう」
「それは聞いたけど、詳しくは知らないもん」
「…………早く、着替えて来い」
「え?」
「見せてやる」
木陰で着替えを済ませ、ルカの元へ戻ると、仏頂面のままのルカに腕を掴まれた。
「行くぞ」
そう一言だけ発すると、有無を言わせないというように有希を引っ張る。
「行くって、どこに?」
「行けばわかる」
「わかるって……」
ルカはざかざかと草をかき分けながら迷いなく歩く。その背中を追いかけるように有希も早足で歩く。
いくらか歩くと、木々の向こう側に壁が見えた。おそらくアドルンド城の城壁だろう。ルカはその壁に向かって突き進んでいる。――壁のすぐ傍に立っている巨木に向かって。
巨木の傍へ来ると、ルカは有希の手を離した。巨木の周囲の壁を検分している。
「ユーキ。こちらへ来い」
「え?」
呼ばれるまま、壁の方へ行く。壁は色々な大きさの石を継ぎ合わせてできたような壁だった。
「俺がこの壁を開けるから壁をくぐれ」
「くぐ……って、え?」
そう言うや、ルカが壁の一部を押し始めた。
(ま、まさか開くなんて……)
冗談だろう。と言いたいが、ルカがこんな場面で冗談を言うようにも思えない。
どうなるのだろうかとハラハラしながら見ていると、みるみる壁が、横倒しにした回転扉のように動いた。
「わぁ……」
縦が有希の肩幅ほど。横幅はその二倍ほどの隙間が開いている。
「ユーキ」
通れと促されるまま、有希はその隙間をくぐる。有希の後にルカも同じようにくぐり、壁を元のようにはめ込んだ。
「……スゴいね」
「万が一の逃走用に作ったそうだ」
「よく知ってるね」
「…………まぁな」
眉間に皺を寄せ、ルカはむっつりとした顔をしている。
「どうかした?」
「……ここは兄様に、教えてもらった道なんだ。――兄様は俺がこの道を使う可能性がある事を知っているだろうに、何故塞がないんだ」
「…………」
きゅうっと、心臓が痛む。
絆のようなものを感じた。忌み合っていたけれど、本当はどこかで繋がっている。
そんな二人の、絆。
「…………まぁ、他にも抜け道は知ってるから塞がれていても問題なかったんだがな」
「え?」
「お前が居たからな。一番通り易い場所がここだっただけだ」
「…………」
「どうした」
「…………なんでもない」
感じたえもいわれぬ切なさを返せ。と言おうとして、これはルカの気遣いかもしれないと思ったので黙る。きっとルカの気遣いだ。
悶々と考えていると、ルカがふ、と鼻で笑った。苦笑とも微笑ともとれる顔に、有希の心臓はどきんと跳ねる。
ただでさえ綺麗な顔なのに、笑うだなんて狡すぎる。
「~~~~っ」
絶句し、わなわなと震えることしかできない有希の頭に、ルカは手をぽんと置き、何度か頭をぽんぽんと叩いた。
「!?」
「くぐり抜けた時に付いたか」
「え、え?」
「塵だ」
「あ、ああありがとう……」
どきどきと跳ねる心臓を宥めつつ返事をする。
盗み見るようにルカを一瞥すると、まだ口角が上がったままだ。こんなに長時間笑っているルカを見るのは初めてで、またどぎまぎしてしまう。
そんな有希の戸惑いを知ってか知らずか。またルカがふ、と吐息を漏らす。
「お前は、わかりやすいな」
「え」
つと、顔を上げるとルカはまだ笑っていた。眉間に皺を寄せ、困ったような、かなしいような表情で笑っている。
ルカの手は有希の頭頂部から後頭部へ向けてするりと滑る。首の後ろに回った手に少しだけ力が込められる。
「………………」
「ル、ルカ?」
おずおずと問いかけると、ルカの瞳と目が合った。
身長が伸びた為なのだが、ルカの顔との距離が縮まっている。そのたびに、距離の近さにどぎまぎしてしまう。
吸い込まれるような青から反らせずにいると、首の後ろに回っていた手がするりと外れた。
「…………行くか」
「…………うん」
有希に背を向けてすたすたと歩くルカを追いかける。
追いかけながら、有希は火照った頬を冷ますように、両頬に手を添える。
(びっくりした、びっくりした――なに? わかりやすいって。わかりやすいって、何が? ――まさかバレてないよね?)
まだどきどきと心臓が騒いでいる。
首の後ろに回された手。その感触がまだ取れない。
(キス――――されるかと思った)