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この持て余している気持ちに名前を付けるとしたら、なんと名付けよう。
いくつ町を越え、幾度馬を換えただろうか。
二人での旅路は存外あっという間だった。国境を越え、アドルンドの町もいくつか通り過ぎた。
魔物が現れたのは数回。逃げたのは同じ数。
地震が起きた数は両手では足りないほど。地鳴りがするほど大きかったのは二つ。雪崩は四回起きた。
徒歩での移動がないし、誰かとはぐれたということもない。それが旅路を短くしているのだろう。
雪が降ることはなくなり、かわりにあたたかな日差しの日が増えた。
「ねぇルカ」
「なんだ」
「もうすぐアドルンドだね」
「……そうだな」
相変わらずルカはそっけないし、有希が何か粗相をするとすぐ怒る。
けれど、その中で確かに変わったものがある、気がする。
変わったのは、有希の心境なのかもしれないが。
「ねぇルカ」
「なんだ」
舌を噛むなよ。という小言が飛んできたが無視をする。
「オルガに会ったら、なんて言うの?」
「…………」
「ねぇ、何を言うか決めてる?」
きょうだいのいない有希には想像ができない。
兄弟で憎み合うということも、仲直りをするということも。
母親が違うということ。王子であるということ。それらの要因がまた複雑にさせているのなら、よけいに見当がつかない。
(仲直りしたら、あの目をルカに向けてくれるようになるのかな)
まだ脳裏にこびりついている、泉の前で彼が言った言葉、浮かべた表情。
今までで見たこともない顔。信じられないくらいに威圧感のない声。
「…………俺は、知りたかった事を聞くだけだ。――それが聞ければ、それだけでいい」
「知りたかったこと?」
「あぁ。今なら聞ける気がするんだ」
知りたかった事というのは何か。問いかけたかったけれど、それを聞くのはなんだかはばかられた。
「…………ねぇ、あたしも、その場にいても、いい?」
こつんと額をルカの背中にぶつける。額をぶつけることでしか自己主張できないのがひどくもどかしい。
この額から、有希の思っている事が全部伝わればいいのに
「――――あぁ。こういう風に思えるようになったのは、ユーキの力だからな。……傍にいてくれ」
「――――うん」
(前言撤回)
顔が見えなくて良かった。
顔を見られなくて良かった。
持て余した気持ちが顔に出てしまう。
きっと自分は今、泣きそうな顔をしているだろう。
事実、泣いてしまいそうだ。
泣いてしまいそうな程、嬉しいのだ。
「で、でもあたし……なんもしてないよ」
「いや――――」
ルカが言いかけて、ぴくりと止まる。ルカの動作を敏感に感じ取ったのか、それとも別の何かに気づいたのか、馬も止まる。
慣性の法則により、前進すると思っていた有希の身体はルカにぶつかる。鼻と額を盛大にぶつけた。
「っつ……」
先ほどとは別の意味で涙が出そうだった。
痛みをやりすごしていると、ルカのまとっている空気がどんどん冷ややかなものに変わっていく。
(――――魔物だ)
何度目の遭遇だろうか。
ルカの脇から伺うように正面を見ると、そこには人が立っていた。
「……あ」
ひどく見覚えがある。
紫のもやの中に見える、濃紫の服を纏った女。場違いな程に寒そうな格好をしている――人型の魔物。
(これで、何度目だろう)
有希を追っている。ルカがそう言っていた魔物だ。
事実、マルキーからここまでの間で三度遭遇している。
「行くぞ」
ルカが馬首を翻す。
「うん」
手袋越しに、ルカの服をぎゅっと握りしめる。
それを合図に、馬がぐんと勢い良く駆け出す。
去り際、女と目が合った気がした。
女の顔は長い髪の毛で隠れて見えないはずなのに、目があった気がしたのだ。
そして、その視線を有希は知っていた。
まるで初めて会った時のオルガーのような、深い深い憎しみを湛えた目。
(なんなの)
まるで有希達を追ってくるかのようにやってくる魔物。
けれどほかの魔物のように襲ってくるわけでもなく、ああやって行く手を阻むように立っているだけだ。
――近づいたら危害があるのかもしれないが、今のところは何もない。
ただ、恐ろしく強烈な威圧感と、憎悪を有希は感じるのだ。
ぎゅうっと、腕に回した手に力を込める。それでルカとの距離がぐっと狭まる。
頬と胸とおなかをくっつけて、甘えるように縋りつく。
「なんなんだろう、あれ……」
「…………さぁな」
小さな会話は、蹴爪の音でかき消える。
あれは有希を見ている。
有希を見続けている。
ねっとりとからみつくような視線を感じるのだ。