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ぱちりと目が開く。椅子に座っていたはずの有希は、ソファに寝そべっていた。
「…………あれ」
むっくりと起きあがると、肩からなにかが落ちた。――ルカの上着だ。
それを拾って辺りを見回す。部屋は薄暗いけれど、部屋の中は検分できた。
そこは有希がルカに抱き抱えられながら泣いた部屋だ。
「…………ゆめ?」
外気に触れて冷えた肩に手をやる。――ここには確かに、ぬくもりがあったのに。
暖炉の火はとっくに消えていたようで、部屋の中は冷えきっている。身震いをひとつして、ルカの上着を羽織る。
窓から入り込む光がとても弱々しい。マルキーの空はいつもだいたい曇っていて、朝なのか昼なのか、よくわからない。よくわからないが、きっと朝なのだろう。昼ならば有希はとっくに起こされている。
立ち上がって、窓へ向かう。分厚いカーテンをめくると、雲のフィルターに通された朝日が差し込む。
雪が降っていた。とめどなく、小さな雪がはらはらと。
「…………ゆめ」
確認するように、もう一度つぶやく。
あれは、夢だったのだろうか。
それとも、ヴィヴィは夢の中にまで出てくることができるのだろうか。
「日の沈む空……」
日本と同じような方角を指すのであれば、それは西。――アドルンドがある方向だ。
――ここではないという、暗示なのか。
――アドルンドに向かえということなのだろうか。
国の象徴と言われている『なにか』があるのはアドルンドで、有希の目指すところはアドルンドなのだろうか。
「もっとちゃんと教えてよね……」
はぁーっと長い息を吐き出す。
「あたしは、どうしたらいいんだろう」
人が争うのをやめてほしい。
人が苦しむのを見たくない。
「…………みんなに、幸せになってほしい」
この世界の人は、みんな、どこか悲しいのだ。
「笑っていてほしいの……」
自分を鼓舞させるように言って、薄暗い部屋の中で立ち上がる。
「――っし、決めた! アドルンドに行く! 行って王妃に会う!」
吐き出した息が白く染まる。それを吹き飛ばすようにフンと鼻を鳴らす。
――その途端、窓をコツンと何かがたたく音が聞こえた。
「ひゃ!」
予期せぬ音に後ずさり、足がソファにぶつかってそのまますとんとソファに座ってしまった。
「……………………」
音は厚いカーテンが引かれた窓から聞こえた。
穴が開くほど凝視していると、もう一度コツンという音がきこえた。
有希はルカの上着を羽織り、そっとソファから離れ、じりじりと窓辺へ歩く。
その間も、コツ、コツンという音は断続的に聞こえている。
(――――誰?)
そっとカーテンの端をつまみ、屈んで窓の外を見る。
「っ――!!」
意外な人物が立っていた。
有希は慌ててカーテンを引き、窓を開けた。
「パティ!?」
寒さを微塵も感じていません。というような面持ちのパティメートが立っていた。
吐き出す息の白さがかろうじて外気が冷たいのだということを有希に教えていた。
窓越しでは何だから、とパティメートを部屋に誘ってみたが、パティメートからの返事はなかった。きっと否という意味合いで取って良いのだろう。
では有希が外に行こうかと提案すると、すっと目の前に手をかざされた。これもまた、否という意味合いなのだろう。
「………………」
「………………」
お互い白い息を吐き出しながら、ただ立っている。
ひゅうっと吹いた風に肩をすくめ、ルカの上着をかき合わせたところでパティメートが口を開いた。
「決めたな」
「えっ」
「行くことを」
「うそ、やだ聞いてたの?」
そんなに大きな声だった? と聞いても返事はなく、ただただパティメートは無表情につぶやいた。
「…………知っていた」
「……知ってた?」
パティメートは相変わらず応えない。すっかり慣れた有希も、それ以上聞くのを諦めた。きっとどっちにしたって恥ずかしい結果しか出ないだろう。朝っぱらから大きな声でわめいていたのだ。みられたのがパティメートなだけでまだ救いだ。
(これがセレナだったら……)
考えただけで背筋がぞぞっと冷えた。
これがセレナだったら、一ヶ月はからかわれる。
(……セレナ、元気かなぁ。ヴィーゴさんも相変わらずかな)
ずきんと頭――目の奥が痛んだ。今何かを見た気がしたが思い出せない。
「……たた……」
こめかみを両手で押さえる。
窓を挟んで立っているパティメートは、有希よりも少し低い位置に居る。何を見ているのかわからない瞳はゆらゆらと揺れ、やがて有希の右手に留まる。
「…………?」
ものすごく緩やかに、ものすごく音もなく。パティメートは有希の右手に触れていた。
「パースウィル…………」
「パーシー? ――――あっ」
『おれのそばにいてくれよ』
脳裏にあのときのパーシーの顔が浮かぶ。
まっすぐに有希をみつめる、射るような瞳。
パティメートの手から逃げるように、右腕を引っ込めて胸元にやる。
「傍に……」
「行く前に、会ってやって欲しい」
「えっ」
はっと顔を上げ、パティメートを見る。
パティメートはしっかりと有希を見ていた。視線がちゃんと絡む。
「それから」
パティメートが変だ。
目が。
空色の、どこも見つめない瞳が、どことなく生彩を帯びている。
「それから――マルキーに居るリビドムの兵はリビドムへ戻してやってくれ」
「……なん……で?」
「リビドムの技術はもう既に頂いている。これ以上リビドムになにか施してもらう義理はない。――リビドムにはリビドムの事だけを考えていて欲しい。これからリビドムには、もっと頑張ってもらわなければいけない。――遠回りになるが、北からぐるりと回って行けば雪も山も険しくない」
「パ、パティ……?」
「マルキーは大丈夫だ。パースウィルが居る。――私も居る。だからユーキは、ユーキのやるべき事を」
窓から入り込んだ雪が、有希の頬に落ちたらしい。頬がひやりとした。
それに気づいたのか、パティメートが手を伸ばし、有希の頬の水滴を手袋で拭った。拭って、満足げに微笑んだ。――頬の筋肉と口角がほんの少し動いただけのものをほほえみと呼んで良いものかわからないが、パティメートの顔の筋肉が動いただけで、有希にとっては驚愕ものだった。
「…………」
おかげで絶句してしまう。
「ユーキは不思議だ」
(いえ、あたしとしてはパティの方が不思議に見えて仕方がないです)
パティメートの言葉に全力で突っ込みを入れるが、先程の微笑みの衝撃がまだ尾を引いていて、うまく言葉がでない。
「ユーキの言葉で、彼女の鎖がほどけてゆく」
「え?」
聞き返してみたが、そのころにはいつものパティメートだった。
どこを見てるのかわからない、ビー玉のような瞳。
「……それも、ユーキの力なのだな」
「え、え?」
そう言うと、パティメートはくるりと方向転換をし、屋敷の壁沿いに歩いて行ってしまった。
角を曲がるまでパティメートの背中を見つめ、パティメートの消えた角をじっと見つめた。
(なんだったの…………?)
言うことは言った。ということなのだろうか。
ひゅうっと吹いた風に首をすくめ、窓を閉めた。
「……あたしは、あたしのやるべき事を」
それは、アドルンドに行くという事で間違いないのだろうか。
「あぁもう……みんな好き勝手言って……」
的を得ない言葉ばかり有希に与えて。
「~~っやってやるわよ!! 絶対絶対、やり遂げてみせるんだから!! 見てなさいよ!!」
薄暗い部屋の中で叫ぶと、がちゃりと扉が開いた。
朝食をトレーに乗せて持ったルカが立っていた。眉間には皺が寄っていた。