168
――姫様。
懐かしい声が遠くで聞こえる。
――姫様。
瞼を閉じたまま、有希は声に耳を傾ける。
有希がそう呼ばれるようになったのは彼が発端だったということをぼんやりと考えながら。
「――姫様」
唐突に近くなった声にはっと驚いて目を開くと、そこにはトウタが立っていた。座っている有希に視線を合わせるように屈んで、長い黒髪を後ろで束ね、微笑んでいる。
「トウタさん!」
手を伸ばすと、微笑みが砂のようにさらさらと崩れて霧散した。
さっきまでマルキーの屋敷に居たはずなのに、視界は雪に覆われた銀世界だ。
有希の座っている椅子には見覚えがあった。マルキーの屋敷に置いてあるものだ。
現実からそこだけ切り取ったかのように、椅子の下には雪はなかった。
上着も着ていないので寒い筈なのに、寒さは一切感じない。
よく見ると、雪が空中で止まっている。落ちてもいないし、風で舞い上がりもしていない。
「……なに……?」
立ち上がろうとしても下半身が縫い止められているかのように動かない。
何度か反動をつけて椅子から浮き上がろうとしたが、びくともしない。
数回そうしたところで、有希を椅子に縛り付けようとしているなにかに抵抗する事を諦めた。
上半身も腕も動くのだ。まずは状況を確認しよう。
椅子の背もたれに手をかけて、後ろを振り返る。
有希の背を鏡にしたように、もう一人の有希が同じように振り向いていた。
――正確には、有希の姿をしたヴィヴィだ。瞳の色が有希よりも赤い。
「ヴィヴィ!」
手を伸ばすと、目の前にある自分の顔がにやりと笑った。
口角が上がり、裂けて、目元まで届きそうだ。
有希の手がぶつかると、有希に模したヴィヴィの身体が膨らんではじけた。はじけて、薔薇の花が飛び散る。けたけたと笑う声がすぐ後ろから聞こえる。
また振り返ると、いつの間にか積もった雪で作られた、王座のような椅子ができていた。ヴィヴィが悠然と座っている。
「アラ、アタシだってばれちゃった?」
ヴィヴィが立ち上がると、たちまち雪で作られていた椅子が崩れ落ちて雪の塊へと変貌する。
「ヴィヴィ……」
「ヒドい顔」
雪まみれの銀世界とは似合いもしない薔薇の匂いが鼻孔いっぱいに広がる。むせるような匂いに酔ってしまいそうだ。
「誰のせいよ……」
軽く頭を振ってみるが、薔薇の匂いは絡みついたように離れない。
「少なくとも、あのロンゲ男が死んだのはアタシの所為じゃないわよ?」
「!?」
「あ、怒ったの?」
小馬鹿にするように、ヴィヴィが笑っている。
「アンタが原因なのに?」
「…………」
その通りだ。その通りすぎて言葉が出ない。涙も出ない。
「どうしてここにいるの?」
ヴィヴィの眉間にぴくりと一瞬皺が寄った。
「どうして――? アンタがココに来たんでしょ」
「え?」
「なにしにきたのよ。なにもしてないクセに」
なにもしてない。
なにもしていない、なにもできていない。ただただ時間ばかり使い、空回りしているだけなのだ。
ぐうの音も出ずに黙りこくっていたら、ヴィヴィが片手を目元にあてて呆れたようなため息を吐く。
「ナンてね、アンタがココに来られないのなんて知ってるわ。ここに来た原因も――こンの、お節介」
この場には有希とヴィヴィ以外誰もいないはずなのに、まるでヴィヴィはすぐ近くにいる人間に話しかけるように言った。
首を伸ばしてあたりを見回してみたが、やはり誰もいなかった。
顔を上げると、すたすたと有希へ向かって歩いてくる。ヴィヴィは真紅のノースリーブワンピースを纏っている。雪景色とその姿がひどくそぐわない。
そして有希の目の前に立ち、困ったような、少し意地が悪そうな笑顔を浮かべた。
「図体だけはデカくなったみたいね」
赤紫の大きな瞳がくりくりと動く。
「――へぇ。つっまんないなぁ。チカラも出たのか」
「わかるの?」
「そりゃぁ。イイ目を持ってるしぃ?」
薔薇のにおいの効果もあるのだろうか。挑戦的に笑う顔はひどく魅惑的だ。
「…………早くしなさいよ」
主語のないそれが、なにを言っているのかすぐにわかってしまった。
「ヴィヴィ……」
聞きたいことがある。
これからどうしたらいいのか。
どうすべきなのが正しい選択なのか。
考えても考えても、答えが出てこないのだ。わからないのだ。
「沈む空」
「…………え?」
「日の沈む空の方で、またやらかしてるわよ」
意地悪い笑みを浮かべたままのヴィヴィが、一歩、また一歩と後ろへ歩みを進める。
「待って!」
腕を伸ばそうとしたが、膝の上に縫い止められているかのように、動かなかった。
「あのお節介に免じて、大サービスなんだから」
一歩一歩遠のいていく。それなのに足跡がない。
「早くしなさいよね」
声も遠のいてゆく。
「でないと――」
赤いワンピースの裾が膨らむ。ヴィヴィが何かの言葉を発する。限界まで膨らんだ瞬間に、ワンピースが弾けて赤い花びらが舞う。ヴィヴィは消えていた。
「…………なにそれ」
ヴィヴィが最後に言った言葉は、耳を疑いたくなるようなのだった。
じたばたともがいてみるが、腕も、足も、びくとも動かない。
この銀世界も、雪も、微動だにしない。
一体ここはどこで、有希はどうしてここにいるのだろうか。ヴィヴィは有希がここに来たと言っていたが、全く持って身に覚えがない。
だがヴィヴィは、まるで誰かが有希をここへ連れてきたとでもいうような口振りだった。
(誰なのよ……連れてきたなら、ちゃんと帰して……)
帰らなければ。
早く帰って、今度こそ成し遂げなければ。
早くしないと。
早くしないと。
ヴィヴィの放った呪いのような言葉が、有希の焦燥を掻き立てる。けれど今の有希には為す術がなく、ただ唇をきゅっと引き結び、涙がこぼれそうになるのを堪えることしかできない。
――姫様。
夢か、うつつか。
視界にトウタの姿はない。
振り返ろうにも、身体がじわじわと動かなくなっている。肘、腕と固まってゆき、今は肩を少し動かすことしかできない。
「っ!?」
誰かが両肩に手を置いた。誰かなんて、わかりきっていることだ。
――どうか、
「トウタさん!」
振り返ろうにも、もう首が動かない。
――どうか、お幸せに。
その瞬間、肩に置かれていた温もりが消えた。
「やだ……やだよ……」
くるしくて、かなしくて。
もうこんな思いはたくさんだ。
でないと。その続きの言葉は、呪いのような言葉だった。
『でないと――また人が死ぬわよ』
もう――こんな思いはたくさんだ。