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いつの間にか、建物の中に居た。
それは有希にあてがわれた部屋のある建物の中の、応接間として使っている部屋だ。
十日熱の治療を希望する患者の家族と話をする事を主として使っている。
暖炉に火がくべてあるのだろうか。寒さは感じない。
それとも、有希が寒さを感じていないだけなのだろうか。
リフェノーティスの背中を叩いて、叫んで。
思い切り引っ張った服に顔をうずめ、呻いたところまでは覚えている。
「……あぁ……」
首もとに手をやる。
ここにかかっていた皮紐は、外して荷物の中にしまってある。
――あの先には、指輪が付いていた。
――そしてその指輪は、気付いた時には無かった。
「…………あぁ」
声にならない嘆息しか出ない。
身体がずっしりと重く、心も重い。
どうして気付けなかっただろう。
どうして気付かなかっただろう。
働かない頭で、そんなことをぼんやりと思っていると、背後にある部屋の扉が開く音が聞こえた。
振り返る余力は有希にはなく、ただただ近づいてくる足音が勝手に耳に入ってくるのを聞く。
足音が止まる。
誰かが有希の隣に座る。
長い足が視界に入る。
「……何があった」
ルカの声だった。
動かない頭はルカの問いかけの意味すら理解ができない。
「右腕を出せ」
「………………」
ため息とともに右腕を掴まれた。ルカに袖を捲られる。
有希の手首には、掴まれたような痣がくっきりと浮かんでいた。
ルカは小さく「やはりな」と言うと、持ってきたと思われる小さな箱を開けた。有希の手首は箱から取り出されたなにかを塗られ、包帯をくるくると巻かれた。
それはひんやりしていた。
「……何があった」
箱を閉じ、ルカは再度言った。
何が。
パーシーと食事をした。
有希がリビドムを求める理由を話した。
王家とは、国の象徴を守っている人たちなのだと教わった。
今それが瓦解しているのであれば、きっとそれにアドルンド王妃が関与しているだろう事に気付いた。
これからどうするのかと聞かれた。
有希とルカはどんな関係なんだと聞かれた。
傍に居てくれと言われた。
ルカに会った。
なぜだか逃げた。
リフェノーティスに会った。
トウタの髪の毛を見た。
トウタの指輪は、別れてから一度も見た覚えがなかった。
いろいろなものを詰め込まれすぎた頭は考える事を放棄している。
「……わかんない」
「ユーキ」
「なんで……」
(どうして?)
どうしていなくなってしまったの。
そう問いかけたくても、その相手は――。
ぐちゃぐちゃだ。
頭も、心も。
考えようとしても、ほかの事が頭をよぎって遮断される。きっと、考えることを拒絶しているんだろう。
膝に置かれた手の甲に、涙がぽとりと落ちる。ひとつ、ふたつ、みっつ。
有希の困惑は涙となり、とめどなく溢れ出る。
「ユーキ」
肩に手がかけられ、ルカと向き合う形になる。
ルカの手が伸びてきて顎をつかまれる。無理矢理顔を上げられる。
「一人でため込むなと言っただろうが。――なにがあった」
流れた涙がルカの指にぶつかる。
「…………トウタ、さんが」
さんざん叫んだ喉からでるのは、蚊の鳴くような小さな小さな声だった。けれどルカの耳にはきちんと届いたようだった。ルカが眉間にしわを寄せた。
「……そうか」
「ルカは、知ってたの……?」
「………………」
(――知ってたの)
「どう、して……黙ってたの?」
わかっている。有希のためだ。
有希が悲しまないように、苦しまないようにという配慮だ。
リフェノーティスも、ルカも、有希のためにだまっていた。
自分自身の苦しみを押し隠して。
「~~~~っふざけないでよ!!」
気付けば、ルカの手を振り払っていた。
「あたしは! ちゃんと知りたいの! 知らなきゃいけないの!」
睨みつけると、ルカは小さく息を吐いてから。
「…………悪かった」
とつぶやいた。
「アイツは、お前の無事をなによりも願った」
「…………」
「リビドムが戻ることを願っていた」
「……」
「叶えてやれ」
「うん」
ぼろぼろと涙がこぼれる。
今更ながら、有希の抱えているものの重さを実感した。
有希がやろうとしていることに、命を懸ける人がいるのだ。
だから有希は、やらなくてはいけない。
(だけど今はこの涙が枯れるまで、貴方の為に泣きたいです。――トウタさん)
リビドムを愛していた。王女である有希を慈しんでくれた。
瞼が熱い。涙流れ、ひんやりとした道筋が頬にできる。
「……今度は逃げるなよ」
小さくぼそっと声が聞こえた。
顔を上げるよりも早く、後頭部に手が回って引っ張られる。ルカの胸にぶつかる。
膝の裏にも手が通り、ふわりと身体が浮いたと思うと温かいもの――ルカの膝の上に乗せられていた。
頭は拘束されたまま、背中をなだめるように叩かれる。
「泣いてやれ。――――落ち着いたら、すべて話せ」
「…………うぇ……」
垂れ下がっていた腕をルカの背に回し、服をぎゅっと掴む。
嗚咽混じりに声を上げ、わんわん泣いた。
ルカの手はずっと有希の背中を撫でていてくれた。
その手が温かくて、縋ることを許してくれているようで。
それが嬉しくて、苦しくて。
何に泣いているのかすらわからなくなるほど泣いた。