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走って、走って、走って。
わき腹が痛む。汗をかいたようで、首筋に髪がからみついていている。
ざわつく心はちっとも鎮まらなかった。
ずっと脳裏にパーシーとルカがちらついているのだ。
(あれは何なのよ……)
パーシーの群青の瞳が、脳裏に残っている。
耳にかかるルカの声に首の後ろがぞわりと粟立つ。
(あれは……)
『オレの……傍にいてくれよ』
それは、どういう意味なの。
問いたい気持ちでいっぱいだが、それが愚問であることも気付いている。
「はぁ……」
重苦しい気持ちを吐き出すように、ため息を吐く。
体中から酸素が抜け出たような気持ちになる。
ひゅうっと冷たい風が通り、冷たさで体が震える。
雪の降る夜に、厚手とはいえ長袖一枚で出歩く――しかも汗をかいている――のは自殺行為だろう。
「…………もどろう」
ここがどこかもわからないが、有希たちのあてがわれた建物は城の近くにある。城は目立つのでとりあえず城を目指したらいいだろう。
首から垂れる汗を右手でぬぐう。
「……っ」
動かした手がツキンと痛んだ。
先ほどパーシーに思い切り掴まれた手だ。
(パーシー……)
次に会った時、どんな顔をしたらいいのだろうか。
どんな顔をして、何を言えばいいんだろう。
何事もなかったかのように振る舞ってしまおうか。
(そんなの……できないよ)
絶対に思い出してしまう。無理だ。
「はぁ……」
積もった雪が足首ほどまである。足元を見つめながら、滑らないように足を踏み出す。
寒さに首をすくめ、建物の角を曲がる。
曲がった所で、目の前に人の足が見えた。
正確には、足と、義足が。
見覚えのある義足に顔を上げると、大きな男の後ろ姿があった。
「リフェ?」
男が振り返る。男はやはりリフェノーティスだった。水晶の明かりに照らされた顔は、とても驚いたものだ。
「ユーキ? どうして、こんなところへ……?」
「あはは、ちょっと散歩してたら迷っちゃって」
見ると、リフェノーティスの向こう側に、男が三人ばかり立っている。彼らもおのおの水晶を手にしている。兵の中に彼らを見たことがある。
リフェノーティスが眉間に皺を寄せた。だがその顔は一瞬で困った顔に変化した。
「散歩って……そんな格好で?」
リフェノーティスは自分のマフラーを取ると、有希の首に巻き付けた。次いで、自身の上着も脱ごうと手を掛ける。
「い、いいよ! 大丈夫だから!」
「あなたが大丈夫でも、私が大丈夫じゃないの。――ああ、汗までかいて」
リフェノーティスは有希に上着を掛けると、ボタンを順に掛けてゆく。
「ねぇ、何の話をしてたの?」
「大した事ではないわ」
(――嘘)
じっとリフェノーティスを見る。
「リフェ」
さっきまでどくどくと心臓が高鳴っていたのに、急に平静を取り戻したようだった。
「――あたし、リフェの事好きなの。これから何かが起きた時に、このことでリフェの事疑いたくない」
「……ごめんなさい、話せないわ」
ボタンを掛け終えた手が離れる。
「私の事はいくらでも疑ってくれてかまわない。だから話さないわ。――行って」
リフェノーティスが振り返り、後ろの男たちへ言う。
「待って!!」
目の前にはリフェノーティスが立ちふさがっている。
「ユーキ、お願い。これはあなたの為なの」
「そんなのいらない! あたしは、なにも知らされないのはイヤ!」
リフェノーティスの横をぬけようとするが、通る際に腰に手が回った。細身の腕は信じられない腕力で、軽々と有希を持ち上げる。
「行って!」
再度のリフェノーティスの声で、男たちが走ってゆく。
その内の一人が手にしていたものが、水晶の明かりに照らされて揺れた。
――あれは。
「風邪を引いてしまうわ。戻りましょう」
いつかのように、肩に担がれる。
「…………ねぇ、リフェ」
たなびいていた。
か細いものが束ねられていた。
長いもの。おそらく色は、黒だ。
――あれは。
「あれは、誰の髪の毛?」
リフェノーティスの足が止まる。
長くて黒い髪の持ち主。
有希の知っている人間の中では、一人しかいない。
「…………トウタさん?」
リフェノーティスの足が動き出す。
「ねぇ、あれ、トウタさんの髪だよね? なんで?」
目の前にあるリフェノーティスの背中に問いかける。返事はない。
「ねぇ、どうして黙ってるの? ちがうよね!?」
返事はない。
「ねぇってば!」
握ったこぶしでリフェノーティスの背中を叩くが、びくともしない。
「うそでしょ……」
声がわなわなと震える。
「ねぇリフェ! トウタさんはどうしたの!? 追いかけてきてるんなら、途中で会ってるよね? リビドムに帰したの?」
言っている事が支離滅裂だ。
「お願い……答えてよ……どんな答えでも、受け止めるから…………」
縋るように背中の服を握る。
「――リビドムへ、帰すのよ」
「…………」
ひややかで、つめたいリフェノーティスの声が背中に響く。
「下る山の中腹で彼を見つけたわ。――身体の殆どは魔物に食い散らされて、かろうじて残った頭部と服、それからあの長髪でトウタだと判断したわ」
淡々とした口調でのそれに、有希の思考は停止する。
「…………ぁ」
喉が震える。
やりようのない虚無感に塗りつぶされる。
声という声は出ずに、ひしゃげた咆哮のようなものだけが出る。
「あ、あ、あああああああ――――っ」
リフェノーティスの背を両手で思い切り掴む。それを引っ張って、叩きつけ、ひたすら叫んだ。
涙は、不思議と出なかった。