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心がざわざわと落ち着かない。
泣きたくて、逃げ出したくて、立ちすくむことしかできない。
「……悪ィ。こんな事言うつもりなかったのに……」
悪いとパーシーは笑ったが、それは有希が戸惑わないようにとの配慮なのだろう。
だって群青の瞳は、そう語っていない。
――こたえてくれ。
こんな雰囲気とは無縁だったのに。
それは有希にとってはフィクションのようなもので、身近に起こりうるものではないと思っていた。
それは有希の体質の問題であったからで、それが解消されたらいつか自分の身にも起きるだろうとは思っていた。
いつかは。
いつかはいつかであり、決して今来るものではないものなのだと高をくくっていた。
そんな自分を叩いてやりたいとおもった。
「…………い」
暴力のような視線にからめとられてしまいそうで。
「い、いいいい行かなきゃ! 行くね!」
気付ばそう叫んでいて、パーシーの腕を払い、扉に体当たりして転がるように飛び出た。
有希がいた部屋がどこの建物なのかもわからなかった。
ただただ、頭に上った熱を振り払うように走った。
走って、曲がって、走って、走って。
そうして人にぶつかった。
ぶつかった反動で後ろによろめく。倒れそうだったのに倒れていない。
右腕を掴まれ、腰に手を添えられている。
「あ……っ」
後方に傾いていた身体は、掴まれた手に引っ張られたおかげで倒れることは無かった。
掴まれた有希の右手と、その人の手は淡い紫に光っている。正確には、有希の指輪と、鎖に繋がれた指輪が。
「――ちゃんと前を見ろ」
白いため息とともに吐き出される声はよく知っているものだ。
(――――ルカ)
「なんて格好で出歩いてるんだ」
「え?」
「手が冷えている」
(手?)
きゅっと右手を掴まれる手に力が篭もる。そして今現在の体勢がいかに恥ずかしいものであるかに気づく。
腰を捕まえられている。身体は密着している。
抱かれている腰へ回っている手に、ぐっと引き寄せられる。
「ユーキ?」
耳に声が掛かる。
途端、パーシーが先ほど言っていた言葉が頭によみがえる。
――ただの主従なのか、それ以上なのかって聞いてんだよ。
「…………っ!!」
気づいた時には、ルカを両手で突き飛ばしていた。
ルカはびくともせず、有希だけが後ろにたたらを踏んだ。
「ごめ……」
探しに来てくれていたのに。
心配してくれたのに。
あいたいと思っていたのに。
心臓はどきどきと高鳴り、身体はかっかと熱い。ルカの顔がまともに見れない――もっとも、夜闇の中ではぼんやりとしか見えないが。
「ごめ……ん」
触れられていた右手が熱い。
寒いはずなのに、火照った体にはその寒さが丁度良いらしく、冷たさを感じない。
「ごめん!」
気付けば、有希は踵を返して走り出していた。
――熱くて熱くて仕方がない。
頬にあたる風が、それらを冷やしてくれたらいいのに。
ルカは追ってこなかった。