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行こう。
そう言ったはいいけれど、現実問題といてどうしたものだろうか。
パティメートの用意した建物の厨房で、食事を作りながらぼんやりと考える。
アドルンドに行く。行って、オルガーの気持ちを知りたい。
けれど、有希は今この場から離れることができない。マルキーの十日熱患者は多い。そのすべてを救おうとしたら、どれくらいの時間が掛かるだろうか。
薬の製法は渡してある。しかし現状での薬には限りがある。生成された薬がいつ頃出回るのかも未定だ。それまでは、有希が必要なのだ。
マルキーからリビドムを返してもらった後、リビドムに戻らなければならない。
リビドムに戻ってからの事は、想像もつかない。
有希は飾りでも王女となり、統治することになるのだろうか。
そうしたら――いつアドルンドへ行くことができる?
いつオルガーに会うことができる?
オルガーを憎んでいるはずのルカが、彼と話をしたいと言ったのに。
初めて聞いた、ルカの願いなのに。
知らず知らずのうちにため息が出てしまう。
「んだよ、ため息なんかして。――不便なことでもあんのか?」
「!?」
驚いて鍋をかき混ぜていた手が止まる。厨房の入り口に、パーシーが立っていた。
「パーシー……忙しいんじゃないの?」
パティメートを軟禁していたパーシーは、その間戦争を止めさせようといろいろな試みをしていたらしい。
たとえば、救援物資の停止など。――それが兵士たちの生死に関わる事だったとしても、あの時のパーシーは戦いを止めることに必死で気づかなかったらしい。そして今はあちこち走り回り、その支援を必死に行っている。
「まぁな。けど、折角アンタがいるんだ。顔を見に来る暇くらい作るに決まってんだろ」
「そんなに心配しなくても、ちゃんと治療の手伝いはするし、逃げたりもしないよ? マルキーの人たちも優しいし」
今も厨房を手伝ってくれている侍女が数人いる。パーシーの登場で現在は手が止まっているが。
「や、……そういうんじゃなくってな……」
パーシーは何かに苛立っているようだった。前髪をわしわしと掻き、大股で厨房に入ってくると、有希の腕を掴んで言った。
「来い」
「えっ」
「どうせ朝からなにも食ってねぇだろ」
「でも、みんなの晩ご飯作らないと」
「アイツらの晩飯より、テメェの食事を考えろっつの。アンタが倒れたら元も子もねぇだろうが。話ついでにメシ食いに行くぞ」
パーシーは強引に腕を引っ張り、有希はずるずると引きずられるように厨房を後にした。
連れられたのはパーシーの私室のようだった。ソファに座ってしばらくしたら、パーシーが指示をしたのだろうか、食事が大量に運ばれてきた。
食えとせっつかれるまま料理を口に運んだ。パーシーはそんな有希の姿を見ながら、同じ料理を口にしていた。
おおかた食べ尽くした所で、計ったように食後の茶が運ばれてきた。
茶を飲んでほっと息を吐き出した所で、パーシーが満足げにほほえんだ。
「食ったか?」
「おなか破裂しそうなくらいに。――それで、言ってた話って何なの?」
話ついで。パーシーはそう言って有希を連れて来た。満足げに笑っていたパーシーの顔が、次第に神妙な顔つきになる。
「アンタが……ユーキが、リビドムを取り戻したい理由を教えてくれ」
「え……」
「あん時は俺、頭に血ィ上ってて……」
ばつが悪そうに口ごもり、一瞬目を伏せる。それからまっすぐと有希を見る。群青色の瞳が、その濃さを増したような気がする。
「兄貴に言われて、そっからずっと考えてて。……思ったんだ、理由があんじゃねぇのかって」
(リビドムを取り戻したい、理由)
「だってアンタ、利己的な事で動かねぇじゃん」
ずきんと、心臓が痛んだ。
利己的な事。
有希は先ほどまで、利己的な事で悩んでいたのではなかったろうか。
「なぁ、なんか理由があんだろ?」
――理由。
自分の居場所がわからなくて、やるべきことがわからなくて苦しかった。
やっと見つけたものが目の前にあるのに。
(あたしは、リビドムを取り戻さなきゃいけないのに)
そうすることが、今一番正しい事だというのもわかっているのに。
(何で、こんなに苦しいんだろう)
気持ちがぐちゃぐちゃで、考えがまとまらない。
「……おい?」
声をかけられ、はっと顔を上げる。
「パーシー……」
「俺には話せない事、なのか?」
弱くかぶりをふって、違うと告げる。
「リビドムがなくなったせいで、この世界の均衡が崩れたの」
「……は? 均衡」
「うん。その均衡が崩れたせいで、今この世界には地震が起き、魔物が現れているの」
有希はヴィヴィに言われた事を――魔女という存在を含めないで――かいつまんで、パーシーに伝えた。
「……だから、あたしはリビドムを取り戻さなきゃいけないの。それで……争いが起きたとしても、この世界を元に戻す為に」
それは、自分自身に言い聞かせるもののようだった。
ほかの事を考えてはいけない。
リビドムを取り戻す事を考えなければいけない。
でなければ。
(いたい)
キリキリと心臓が痛い。
「……国が、何をもって国としているか」
「え」
「アンタは王が居ることだと言ってたが、それは違う。王は守人にすぎないんだ」
「……もり、びと?」
あぁ。そう言うパーシーはとても苦々しい表情を浮かべている。
「国が国である象徴が無くなったが為に、世界が傾いているというのなら、原因はリビドムじゃないかもしんねぇ……」
「パーシー?」
「オレ、アドルンドでアンタに会っただろ。あん時、伯母様の見舞いに行ったって言っただろ?」
「……うん。臣下の目通しなしで渡せたんだよね」
「あぁ。…………あれの中身な。オレも見れてねぇんだけど。――もしかしたら、ソレかもしれねぇ」
「!?」
「オレもその象徴っていうのが何なのかわかんねぇから確証はないが、あんな時期に……それにオレに直々に伯母様に渡させるっつぅのが気になってたんだよ……」
「だって、それって国の象徴なんでしょ!? どうして」
パーシーが忌々しげに大きな声を出す。
「しょうがねぇだろ! 父上はっ! ……あの人はどっかおかしくなっちまってんだから」
眉間にしわを寄せ、吐き捨てるように言う。
「あの人は、何でもかんでも伯母様の言いなりなんだよ。あの人が右と言えば、真実が左だとしても右だと信じる。――オレ達が何を言っても通じねぇんだよ……」
「パーシー……」
「って、アンタに言っても仕方ない事だな。悪いけど、忘れてくれ」
「うん……」
国が国である象徴。
それが、アドルンド王妃の元にあるという。
アドルンド王妃。
ルカを使って、ヴィヴィを呪い殺そうとした人。有希が治した人。ヴィヴィが殺そうとしていた人。オルガーの母親。
その人が、持っているかもしれない。
(何の為に?)
元はと言えば、どうして王妃はヴィヴィを殺そうとしたのだろう。
(魔女が嫌いだから?)
本当にそれだけなのだろうか。
『アタシがやろうと思っていた事が成し遂げられなかった』
ヴィヴィが成し遂げようとしていたこと。それは世界を戻すこと。
ヴィヴィは、王妃を殺すこととは言っていなかった。けれど、それを有希が邪魔したという事は言っていた。
有希がやったことは、王妃の治療だ。
(……王妃が、関与している事は確かだ)
「王妃は……何をしようとしているの?」
世界が壊れる程の、なにを。
「わっかんねぇよ……オレだって、父上達がやろうとしてることがわっかんねぇから、こんな悩んで……」
言って、パーシーがはっとする。
「悪ぃ。アンタに言っても仕方のない事だっつうのに、オレ……アンタにこんなカッコ悪ぃトコばっか見せてるな」
「……ううん。大丈夫だよ」
頭がごちゃごちゃしていて、何も考えられないのが本音だ。
「いろいろ、教えてくれてありがとう。――これからの事、考えるのに参考になった」
(もしかしたら、アドルンドに行けるかもしれない)
そうしたら、このズキズキ痛む心や、もやもやを解消できるかもしれない。
「ご飯とお茶、ごちそうさま。美味しかった」
「あっオイ!」
立ち上がると、パーシーに右手首を掴まれた。
「え?」
「これからって……アンタ、これからどうするんだよ」
これから。
「そんなの……わかんないよ」
こんなにぐちゃぐちゃな状態では、答えなんて出るはずがない。
それなのに、パーシーは安堵の表情を浮かべている。
「そっか……あのさ、アンタさえ良ければ、だけど、」
「あっ」
掴まれた手にはまっている指輪が、淡く光る。
――ルカが、探している。
「行かなきゃ」
言葉が、口をついて出ていた。
そういえば、長いこと居座ってしまっている。侍女達が見ていたとはいえ、誰にも断って出てきていない。
また、怒られてしまう。
「パーシー、あたし」
見ると、パーシーがとても怖い顔をしていた。
真剣なまなざしで、射るように有希をみている。
「なぁ。聞きたいんだけど」
「……なに?」
「アイツ……あの騎士とは、どんな関係なんだよ」
「どんなって……」
だから、と苛ついた声でパーシーが言う。
「ただの主従なのか、それ以上なのかって聞いてんだよ」
(それ以上)
それは、契約のもう一つの意味。
「なっ」
顔がぼっと熱くなる。
「ち、ちが――」
ずきんと心臓が痛む。
違う。
確かに違う。
有希とルカは恋仲ではない。
だが将来を――一生付き合う仲だといった。
そして。
(あたしは……言いたくないの……?)
それは、どうして。
考えれば考えるほど、顔が熱くなる。
考えてはいけないと思うのに、胸の高鳴りが止めてくれない。
「わ……わかんない……」
泣き出したいほど、心が苦しい。
ふるえる声で答えると、パーシーの手に力がこもる。
「わかんないって……なんだよソレ!」
「った……パーシ……っ」
ぐっと、手を引っ張られる。
群青色の瞳が、煮えるように揺れている。
この目には、見覚えがあった。
『あんな男やめて、俺にしませんか?』
そう言ったトウタも、こんな目をしていた。
「オレは……」
わかっている。
この目はこの後、有希が困るような事を言う。
わかっている。
わかっているのに、逃げ方を、有希は知らない。
「パーシー、痛い」
誤魔化すように言ったのに、一切通用しない。
「オレは、アンタに傍に居てほしいんだよ! オレが王族だとか、アンタがリビドム王女で奇跡の少女だとか関係なくて、アンタに……カスガユーキに、傍に居て欲しいんだよ!」
言葉が、何一つ出てこない。
「違うって言えよ。……言ってくれよ」
頭の中は真っ白で、ただただ、言葉以上に想いを伝えてくる瞳に釘付けられている。
「オレの傍に居てくれよ……」
かすれた声が、有希の心臓をひっかく。
何故だかたまらなく、ルカにあいたいと思った。