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有希は顔を真っ赤にしながら、半ば恥ずかしさを誤魔化すように、紅茶に息を吹きかける。
(知らなかったもん! 誰も教えてくれなかったもん!)
目の前には呆れ顔で紅茶に次々と砂糖を入れていくルカ。そして茶器の片付けをしながらロッティはどこか慌てている。
「ユーキさん、違う国にいらっしゃったんですから、無理ないですよ。元はといえば、私が勝手に勘違いしちゃったんですから!」
「いや……ロッティは普通の反応をしたんだから、気にしなくていいよ……っていうか、忘れてくれたら嬉しい……」
どうやらこの世界では、寝間着で異性の部屋を訪れるのは、そういう間柄でのやり取りらしい。
(いや、日本でもそうなのかもしれないけどさ、なんていうか……)
自分はこちらに来て、日本の常識すら忘れてしまったのだろうか。
「そ、そんなことより! ルカ! あたしさ、思ったんだけど!」
「なんだ」
スプーン六杯の砂糖をつぎ込んだ紅茶をかき混ぜながら、ルカに生返事を返される。
(もう!)
どうしたらこの熱意が伝わるだろうか。両手でテーブルをだんっと叩く。スプーンが皿から落ち、砂糖で嵩増しされていたルカのカップから、紅茶が零れる。
「お姉さんとオルガってさ、恋人同士だったんじゃないかなって!」
テーブルに落ちたスプーンが小刻みに揺れている。
「…………は?」
「だから、お姉さんと、オルガがね!」
「いやお前が言わんとしていることはわかる」
ルカも驚くだろうと思っていたのに、未だに呆れ顔だ。
「だがそうだとしても、兄様が姉様を殺めた理由にはならないだろう。痴情の縺れか?」
「そ、そうだよね……」
結局、自分は何の回答も出せていない。
夜中にルカとロッティを呼びつけて、この有様だ。
「ごめん……」
ルカが呆れ顔ではぁっと息を吐き出す。
「大体、兄様よりも姉様の方が年齢が上だぞ」
そんな事ありえないとでもいうような口調だ。
「恋愛に年齢は関係ないよ!」
涼やかに紅茶を啜るルカをきっと睨む。
「やっぱり二人は恋人同士で、何かがあったんだよ! それで……」
お姉さんは、殺されてしまったんだ。
「何か……な」
ルカが何か考え込んでいる。
「だって言ってたもん。オルガ」
「……兄様が?」
「どうしてこうなったのか、自分も知りたいって。だからきっと本意じゃなかったんだよ」
「………………兄様が?」
「うん。リビドムのお城で、王族しか入れないって所に迷い込んだ事があるの。その時に、ルカの居場所を教えてもらったんだけど……」
あの時、オルガに伝言を渡された。思うようにしなさいと。
「……ルカを治してやってって、言われた」
お兄さんの顔をしていた。
いつか見た、冷酷で残忍な影は微塵もなかった。
「ねェルカ。あたし、オルガがとっても悪い人だって思えないの。なんでだろう。怖い人だって、残酷な人だって思うのに、それでもあの時泉で会ったあの人が、本当の姿なんじゃないかなって思っちゃう……」
もっと話をしたいと思う。あの時は話もできなかった。
「やっぱり、二人は恋人同士だったんだよ…………」
どうしてこうなったのか。
その言葉は、何を指しているのだろうか。
どうしてこうなったのか。
そう言っていた彼は、どうしたかったのだろうか。
「いやにこだわるな。何か確信でもあるのか」
うんうん考え込んでいると、ルカが生あくびをしている。
「だって、お姉さんの花って、あたしと同じ場所にあるんでしょう?」
「……あぁ」
「だったら、どうしてその花も、場所も、オルガは知ってたの?」
ルカの表情が固まる。台所の奥で、ガシャンと何かが割れる音が聞こえた。
「!? ロッティ!? どうしたの!?」
立ち上がり、伺うように見ると、ロッティが手から皿を落としたそうだった。足元に割れた陶器が落ちている。
「花……魔女……?」
「え?」
ロッティが食い入るようにルカを見つめている。
「お姉様が……魔女?」
「ロッティ?」
駆け寄り、ロッティの肩を軽く揺する。ロッティはしばらく呆然としていたが、はっと我に返ると、しきりに謝りながら、足元の陶器を拾い始めた。酷く顔色が悪く、青ざめている。
「す、すみません。すぐ、すぐ片付けますから!」
大きな破片から摘んでゆくその手が震えている。
「ロッティ……?」
(なに……?)
花、魔女。
ルカの姉が魔女だとして、何があるのだろうか。
振り返りルカを見ると、ルカも何かに気付いたようで神妙な顔つきをしていた。
「ルカ?」
「った……」
見ると、ロッティが指を怪我していた。人差し指の指先から、ぷっくりと血が盛り上がっている。
「ロッティ、大丈夫!?」
「す、すみません、すみません……」
「いいから、手! 手、かして」
強引に手を引き、有希の両手で包み込む。
「何かあったの? 顔色悪いよ?」
「いえ……なんでもありません……」
「ユーキ。気にするな」
「気にするなって?」
「マルキーの人間は魔女を畏怖している。俺が魔女の子供だから恐れているのだろう」
有希の手がほの白く光る。光が消え、手を離すと、ロッティの指から傷が消えていた。ロッティが目を丸くして指を見ている。
「あ……え……ユーキさん……?」
「ん?」
「安心しろ。ユーキは魔女ではない。その能力はリビドム王家の力だ」
ルカの声にロッティが肩を震わせる。
「片付けは俺達がやる。部屋で休んで落ち着くと良い。――驚かせてすまないな」
「いえ! いえ……片付けは、わたしが」
有希へ小さく謝辞を述べ、ロッティは手早く片づけを終えると、そそくさと出て行ってしまった。
一連の動作は本当にすばやくて、なんだか悲しくすらなってくる。
「どういうこと……」
呆れたルカの声が、ため息と共に吐き出される。
「お前……魔女として散々迫害されたんじゃないのか?」
「それって、ヴィヴィ……伝説の魔女として扱われてたからじゃないの?」
違うな、とルカが言う。
「マルキーでは魔女という存在は、害であり脅威だ。薔薇の魔女だからだという謂れはない」
「そう……なんだ」
「ああ。お陰で気付かされた」
「え?」
ルカは椅子に座りながら両手を組み、空になった紅茶のカップを見つめている。
「兄様の母――王妃は、マルキーから嫁いできているんだ」
マルキーから。
そういえば、いつか会ったパーシーも言っていた。マルキー王の姉なので、見舞いに来たのだと。
「その王妃に育てられた兄様は、魔女に対してどう思ったんだろうな」
もし。
もし、本当に二人が恋人同士だったなら。
もし、オルガも魔女を畏怖していてたら。
もし、もし。
――姉が、魔女だと気付いてしまったら。
「…………っ!!」
考えただけで、戦慄が走る。
それは、殺めてしまう理由になってしまうのではないだろうか。
「ルカ……」
心臓がずきずきと痛い。
本当に痛いのはルカなのに。
有希からはルカの背中しか見えない。
その背中が、さみしくてたまらない。
本当にさみしいのはルカなのに。
どうやったら、ルカの痛さを、寂しさを、苦しさを取り除いてあげることができるだろう。
有希には、何をしてあげることができるだろう。
一歩、二歩。ルカへと歩み寄る。
どうやったら、このひとのことをわかってあげられるだろう。
「……話を、したいな」
椅子の背に手を掛ける。ルカは振り向かない。
白に近い金髪が、今は橙の明かりを浴びて、太陽のようなオレンジ色になっている。
手を伸ばし、頭に触れる。細く柔らかい髪が気持ちいい。
指からひそかなぬくもりが伝わる。
どうしたらこのひとの痛みをわかってあげることができるだろう。
ルカの後頭部に、自分の額をこつんと当てる。
両肩に肘を乗せ、ルカの顔の前で腕を組む。ルカが苦しくならないように、でもルカの近くにいられるように。
「いこ」
はじめて、聞いた気がした。
ああする。こうする。そうやってルカは有希に指針を与えてくれていたけれど、それはそうするべきだという言葉であって、ルカの気持ちではなかった気がする。
「あたしも一緒に行くから」
だから一人で苦しまないで。
一人で抱え込まないで。
暖炉の薪が、ジジッと音を立てて、終わりを告げている。
有希の吐息で、ルカの髪がふわふわと揺れる。
視界のはしで、ルカが組んだ手を放した。その手は有希の腕にかけられ、ぎゅっとルカの胸元に引き寄せられる。
「――――あぁ」
頼む。
小さく小さく発せられた言葉に、余計心臓がしめつけられる。
ルカが今泣いているなら、その涙を拭ってあげられるのに。
どうしてこの人は涙を流さないのだろう。
どうしてこの人は、弱さを見せてくれないのだろう。
それが、悔しくて悔しくてたまらない。
 




