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姉。
ルカは今、確かにそう言った。
「お姉さん……が?」
「俺には姉が一人いた。父親の違う、王族の人間ではない姉だ」
「……聞いたこと、ある」
「母が姉を身篭っている間に王宮へ入ったため、王の子ではない。だが姉も王宮で育ち、母と共に暮らしていた。姉はないもののような扱いを受けていた俺とよく遊んでくれた――姉が外へ出る事は無かったがな」
「それも……知ってる」
「母が死に、父とは関係の無かった姉は用済みとでもいうように嫁ぎに出された」
「……うん」
「だが姉は、行かなかったんだ。――いや、行ったんだがすぐに帰ってきた」
「……帰ってきた?」
「髪色を変え、別人へと成り済まし、俺の侍女として仕えると言ったんだ」
「…………それって」
「一人になった俺が不憫だったんだろう。俺の母親はどこの女と知れない――身分なんてものが無い魔女だしな。世継ぎももう既に居た。価値のないガキだからな。魔女は髪色まで自在に操れるらしいな」
なんと答えていいのかわからずにいたら、ルカは仏頂面のまま、有希に――正確には、テーブルに垂れた有希の髪の毛に――手を伸ばす。
一房掴んで、引っ張りながら指で梳く。有希の首筋あたりに、引かれる感覚がする。
「――唯一俺という人間を認めてくれた存在を失いたくなかった。だから守ろうと誓った」
またルカの手が有希の髪にのびる。思い出に触れるような仕草に、心臓がしめつけられる。
「その後の顛末はお前も聞いているだろう」
「……」
顛末。それは、オルガーがルカの姉を殺したということ。
毛先を指にからませる。引っ張られた首筋がぞわりと粟立つ。
「ルカ……」
話してくれなかった理由が、わかってしまった。
人形のように美しい顔の下に、苦しいという感情を押し殺している。なんでもないという顔をしながら、本当はとてもとても苦しんでいるのだ。
わかってしまった。何も言ってくれなかった理由が。
(……思い出しちゃうからだ)
「俺がダンテ殿の所へ行っている間――唯一事情を知っていた兄様に姉様を頼んだんだ」
「……オルガ……が?」
言うと、ルカが小さくあぁと答えた。
「兄様は俺――俺達の面倒をよく見てくれていたんだ。勉学の間を縫ったり、時折抜け出しては一緒に遊んだんだ。誰も来ない泉付近が、俺達の遊び場だった」
有希は絶句した。
(ならどうして――)
どうして、殺したりしたの。
「……ごめん」
それを一番知りたいのはルカだ。
ろくろく調べられもせず、真実は権力の下に放り投げられているのだ。
「ルカ……」
ルカは有希の髪を引っ張る手を止めた。そして肘を立てた手の甲に額を預けると動かなくなった。
「…………わからないんだ」
「…………なにが?」
「二人がしたこと」
泣いているように見えた。
「――――俺はあの時から、動けないままだ」
うつむいているだけで、泣いてなんかないってことはわかる。
けれど、泣いているように見えた。
彼もまた、疑問を抱えて一歩も進めないでいるのだ。
「ルカ……」
そっと手を差し出し、ルカの手に添える。
いつだか有希が泣き出した時、そうしてくれたように。
両手でルカの手をきゅっと挟む。
「ね? 二人は、何をしたの? ――話したら少しは楽になるよ?」
「話しても意味がないだろう」
ばっさりと切り捨てられてしまったが、なぜだか有希の頬には笑顔が浮かぶ。
「意味はあるよ――話してくれたら、あたしが嬉しい」
「…………なんだそれは」
「不謹慎かもしれないけど、ルカがあたしに頼ってくれてるような気がするから」
(あ)
ルカが顔を上げた。眉間に三本ほど皺が寄っている。
(かわいくないなあ)
もう一度念押しのように、ねっと言うと、ルカがため息を吐き出す。
有希に包まれた手のうち片手引き抜く。そしてその手が有希の片側の手を掴む。お互いがお互いの片手を両手で抱く形になる。そしてまたルカは額を擦り付ける。――今度は有希の手の甲に。
(わ、わ!)
どこか甘える動物のような仕草に心臓がきゅっと縮まる。
さらさらの前髪が手をくすぐる。
「頼っている訳ではない」
「…………」
「言わないとお前はまた怒って――泣くだろう」
(言ってる事と! やってる事が!)
心の中で叫ぶ。本当に叫んでしまうと、やっと近くに来てくれたルカがまた行ってしまいそうで。
「……うん、泣くかも」
ふっとルカが鼻で笑う。
笑ったかと思うと、またふと真顔に戻った。
「……わからない。兄様が姉様を何故殺めたのか、姉様は何故仕方ないと言ったのか」
(仕方ない?)
ルカの言葉を途切れさせないように、小さく相槌を打つ。
「姉様は知っていたんだ。兄様が起こす行動も、自分自身がどうなってしまうかも。……知っていたのに……なぜ」
手を握る力に篭る。少し痛かったが、それはルカの痛みだ。
今まで誰にも言えなかったであろう、ルカの抱えた重荷。
「お姉さんは、なんて言ってたの……?」
問いかけると、また手を握る力が強くなった。
「………………」
「…………ごめん。言いたくないなら、」
「自分がどうなるかはわかっているし、それは自分が望んだのだと。兄様を、この世界を頼む……と」
事が起こる、少し前に姉様が言ったんだ。
ルカはそう言って、また黙りこんだ。
(…………そんな)
前の主人――姉の存在がルカの中でどれだけ大きいものだったのか、今ならわかる気がする。
自分の存在を唯一認めてくれる人。それはこの世界で有希にとってのルカだ。
ルカは呼んでいた。
いつか酔いつぶれた時も、十日熱で寝込んでいた時も。
――ねえさま、と。
「(ひどいよ)
それなのに、ルカを置いて死んでしまった。置いていかれたルカがどんな思いをしたのか、想像できただろうか。
自分が居なくなった後のルカがどうなるのか、考えただろうか。
表情だって滅多に変わらない。苦しくても泣きたくても、何も言わないでじっとたえてる。
「…………だから、どうしてお前が泣くんだ」
気付いたら、また目からぼろぼろと涙が零れていた。
「だって、だって……」
あんまりだ。
心の中はぐちゃぐちゃで、言いたい言葉が声にならない。
「だってさぁ……」
「泣くな。泣かせるために言ったんじゃない」
はぁっと呆れ顔でため息をついたルカにはもう先ほどの悲しみで途方にくれている少年の影はない。いつもの仏頂面のルカだ。
「お前のその顔を見ていると、悩む気も失せる」
ルカが椅子から立ち上がった。これ以上話すことはないということだろうか。
「あ、あによそれ!」
睨むように見上げると、その頬にルカの手が添えられる。そしてルカの顔が近づいてくる。
「…………え?」
髪が顔にかかる。
さらりと柔らかい金髪が額をくすぐる。
次いで、目元にあたたかくて柔らかい感触。
ちゅ、という音が目尻から聞こえた。
(………………え?)
何が起きたのだろうか。
目尻には未だ温かなぬくもりが残っている。
もう片方の目尻も、ルカの親指によって涙を拭われる。
ぽかんと開いた口が閉じない。はたから見たらさぞかし間抜けな顔をしているだろう。
(今、なに? え?)
何が起きたのか理解できずに、呆然とルカを眺めていると、ルカはふっと鼻で笑い、有希から離れる。心なしか満足げだ。
(え? え?)
眉間に皺を寄せ、壁を見つめながら考える。時折ルカを見上げ、なんら変哲の無い顔を見て、もう一度壁に目をやる。
(今、なに? え?)
「泣き止んだな」
「お、お陰様……で?」
びっくりしすぎて涙も引っ込んだらしい。有希は目尻に手を遣り、首を傾げる。
(何? これは何なの? え、なんでこんなにルカは普通なの? 普通っていうか! なんていうかさぁ!!)
頭を抱えたくなる。こういう時、自分はこの世界の人間ではないと痛感する。騎士の契約も然り。
「涙で酷い顔になってるぞ。洗ってきたらどうだ」
「!?」
慌てて両手で顔を覆う。乾いた涙が顔につき、ぱりぱりしている。
鼻も啜りすぎで真っ赤になっているだろう。
急にはずかしさがこみ上げてきて、耳までかあっと熱くなる。
「~~~~っバカ! バカルカ!」
「いいか、他言は無用だからな」
「わかってる! バカ!」
言い捨てて、洗面具のある部屋まで走って出て行く。
「それからな、アドルンドの城には願い事が叶うと言われている泉がある」
「え?」
「それが理由だ」
「え、え? 何が」
ルカが意地悪くわらっている。
「いいから顔を洗え。鼻水たれてるぞ」
はっと鼻を手で押さえ、ルカを睨みつける。
「バカ! バカ! バカルカ! もう泣かないから、また話してよね!?」
大声を出したら、鼻水が勢い良く垂れ、口に入りそうになった。慌てて口を噤み、ルカに背を向けて部屋を飛び出す。
有希が出て行った背中を見届けると、ふぅと息を一つ吐いて、背もたれに寄りかかる。
なぜ有希にあんな事を言ったのか、よくわからなかった。
言ってもどうしようもないなのに。
(だが――――)
二階の部屋を開けて、扉を閉める音が聞こえる。
乱暴に洗面具を準備する音、水差しの置かれる音。
(自分の為に泣かれるというのは、悪くないものだな)
その音に耳を傾けながら、ルカは目を閉じた。