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どのように戻ってきたのか、記憶がない。
気付いた時にはロッティの先輩――セイムの――宿屋に戻ってきて、二階の部屋にいて、椅子に座っていた。
目の前にはルカが立っていて、有希は上着も脱がず、ルカの手を握ったまま座っていた。上着についていた雪が溶けたのだろう。椅子の周りにはぽつぽつと水滴がたれていた。
「……あたし」
呟くと同時に、はっと思い出した。
『マルキー王が戻られるまでの間、あたしはこの国の人たちの十日熱の治療に尽力しようと思ってる。――手伝ってくれるよね』
そう言い捨てて、戻ってきたのだ。呆然としているパーシーや、戸惑いを隠せない騎士や、立ち尽くしているリフェノーティスを置いて。
「…………あたし」
くやしくてくやしくて、たまらなかった。
あんなに一生懸命考えて、決めて、大変な思いをしながらここまでやってきたのに。
(翌日って)
微塵も、微塵も期待されていなかったのではないか。
「翌日って……なんなの」
有希の決意はなんだったのだろう。苦労はなんだったのだろう。――有希の為に命を落とした騎士は――なんだったのだろう。
眉間に力がこもる。
鼻と目の奥がつんと痛い。
泣くまいと眉間に、唇に、身体に力を込める。
(泣くな、泣くなバカ)
それまで一言も言葉を発さなかったルカが、ぽつりと言った。
「…………よく堪えたな」
その言葉で、堪えていた涙がぶわっとあふれる。嗚咽なのかしゃっくりなのかわからないような音が喉から出る。
「ば、ばか! ルカの、ばか! せっ、せっかく人が!!」
(我慢してたのに!)
ずっとずっと、堪えてきていたのに。
我慢していたせいで決壊した涙はとめどない。目から、鼻から、水という水が流れ出る。
ずずっと鼻を啜って、服の袖で涙を拭う。
「って、だって……あそこじゃ……泣いちゃ、いけないじゃない……」
あそこで泣いたら全てが台無しだ。張った虚勢が崩れてしまう。
(あたしは、あの人たちの前だとリビドム王女なんだから……こんなみっともない姿、見せらんないよ)
彼らは有希にたくさんの期待を抱いているのだ。こんなに姿は見せられないではないか。
「成長したな」
「…………え?」
ルカを見上げると、ルカはが有希の目尻の涙を親指の腹で拭った。
「お前は俺より、王族らしい」
「……ルカ?」
「俺は――――」
ルカが何か言いかけて、口を噤んだ。ふっと視線を逸らし、皮肉な笑顔を浮かべる。
「上手くいったら、だったな」
「え」
「事態は保留だが、明日までの暇つぶしくらいにはなるだろう」
(上手くいったら?)
ルカの言葉を反芻し、そして自分がルカに言ったことを思い出した。
あの人の事。
その事を考えると、途端に心が冷えてゆく。
「………………いい」
ルカが少しだけ目を見開く。
「いいよ。ルカが話したくないなら聞かない」
昨晩の出来事がなかったかのように振舞っていたのは、誰のためだろうか。
ルカがその話をもうしたくないと思ったからだろうか。
有希が聞きたくないと言ったからだろうか。
いずれにせよ、お互いがお互いにその話をするのをやめようと思っていたから、何事も無かったかのようにしていたに違いないし、このまま何事もなかったように振舞うのが一番無難だとわかっている。
だけど、知りたいと思った。聞きたいと思った。
聞かなければ進まないと思った。進めないと思った。
「話してって言ったけど、強制で聞きたいわけじゃないの」
「……話せと言ったのはお前だろう」
「そうだけど……」
ルカの言う事はごもっともだ。
(だけど……そうじゃないの)
気になって、気になって仕方がないのは事実だ。
挑むようにルカを見る。つんと澄ましたようにも見える顔にふつふつと怒りが湧いてくる。
「気になるよ! 気になるけどさぁ、無理矢理聞きたいんじゃないの! ルカが話したいって思ってくれた時に話してくれたらいいなって、あたしに話してもいいなって思ってくれたらいいなって! そう思ってるの! だから聞かない、聞きたくない!」
一気にまくし立てたので喉が渇いて舌がもつれる。
ルカは唖然と有希を見ている。
「相当な言いザマだな」
「うるさい! 事実なんだからしょうがないでしょ!?」
「実のないくだらない話だ」
「くだらないのかくだらなくないのかはあたしが決める」
ルカが盛大にため息を吐いた。それが有希の怒りを増長させる。
「なによ!」
「……いや、前にもこんな事があったと思ってな」
有希の向かいの椅子に座り、机に肘をついて手のひらに額を乗せ、ルカははぁっと息を吐いた。
「ここで俺がお前の言う事に従わなかったら、またお前は飛び出して、マルキーの奴らに捕まるのか?」
「しないよそんなこと! もうルカと離れるなんてやだもん!」
ふーふーと肩をいからせながら言うと、ルカが一瞬面食らったような顔をした。
「なによなによなによ! いっつもそうやって、はぐらかして……」
溜まった言葉が出尽くすと、今度はむなしさがやってくる。
ルカに触れたいと思っているのに、必死に手を伸ばしてもルカに届かない。
今さっき、あんなにも近くに居たはずなのに。
悔しくて、悲しくて、むなしくて。
「大事なことは……何も言ってくれないしさ…………」
契約の理由。いつか言うと言ってくれた。待っていてくれと言っていた。
「待つって、いつまで待てばいいのよぉ」
一度ゆるんだ涙腺はがたついているようで、泣きたくないのに、涙があふれてくる。
「もぉやだ……」
なんでこんなに胸が痛むのだろう。
なんでこんなにかなしいのだろう。
なんでこんなにさみしいのだろう。
「話してくれたっていいじゃん」
言ってくれたのに。
「これから、ずっとずっと一緒にいるんでしょぉ? なら今言ったって、後で言ったって変わんないじゃん」
横隔膜が跳ね、ひぐっひぐっと嗚咽がこぼれる。
泣くまいと奥歯を噛みしめるが、くやしいことに涙は止まらない。
何度も手のひらで擦って涙を消そうとするが、あとからあとから涙はこぼれ、服の袖ばかりが濡れてゆく。
「……何故泣くんだ」
「じなないよ。るがのばが」
ずずっと鼻を啜る。喉の奥はつんと痛いままだ。
「泣くような事か?」
「ううさい! みだいでよ!」
きっと今泣いてぐちゃぐちゃな顔をしているだろう。
ルカに背中を向けて、袖で涙を拭う。
背中の向こうでルカが小さくため息を吐く音が聞こえた。
目が熱い。
泣いたからか、怒って頭に血が昇ったからか、頭がどこかぼうっとする。
お互いが動かないまま、どのくらい時間が経っただろうか。
涙は止まったが、鼻水はまだ止まらない。しんとした部屋の中で時折有希が鼻を啜る音だけが響く。
「泣くな」
ため息まじりにルカが言った。
「お前が泣いても俺は止め方を知らない。――どうしたらいいのかわからなくなるだろうが」
「知らない! そんあの自分で考えてよ!」
目尻に残っていた涙を拭う。袖が冷たい。
「言ってもどうしようもない話だ」
「ききたい」
ルカが大きくため息を吐き出した。
「わかっているんだ。――――俺も、いい加減やめないといけないんだ」
(やめる?)
一体、何を。
そう尋ねる前に、ルカは自分から言った。
「逃げる事を、な」
(逃げる)
どきんと心臓が鳴る。
いつかトウタが言っていた。ルカは自分自身から逃げていると。
「お前はどこまで知ってるんだ?」
手で顔を覆い、ルカは苦いものを吐くかのように言葉を出す。
「……ルカの侍女だったことと、年上だったっていうことと、……オルガに殺されたっていうこと」
小さくナゼットか。という声が聞こえたので、頷く。
「それから、これは多分なんだけど――魔女だった」
「ああ。――――相違はない」
「……そう」
(違うのに)
そういうことを聞きたいんじゃないのに。
ルカが話してくれるかもしれない。そこまできたのに、怖気づいてしまった自分は聞けずにいる。
その人の事をどれくらい好きだったの。
その人の事をどれくらい愛していたの。
その人の事はどれくらい大切だったの。
何も聞けない自分は、指輪を撫でながらルカの言葉を待つしかできない。
そんな自分が情けなくてしょうがない。
「今から言う事は誰も知らない。アインもナゼットもだ。――いいか、何があったとしても顔や態度に出すなよ。出さないと誓えるか」
「……誓う」
そうか。
そう呟いたっきり黙ってしまったルカは、息が詰まりそうなほどたっぷりと時間を置いてから、小さく小さく呟いた。
「あの人は…………俺の、姉様だ」
「――――――え?」