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紫の瞳  作者: yohna
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 その宿屋は、飲料がセルフサービスだった。食堂とは別に給湯室のようなところがあって、お茶やホットミルクが自由に飲めた。

 お湯を沸かしながらぼんやりと過ごす。

 夜もだいぶ更けているらしく、番頭も船を漕いでいる。

 湯が沸いたらしく、ぐつぐつと音が鳴る。あわてて茶葉を入れたポットにお湯を入れる。

 何もかもが静止したように静かで、なんだか神聖な気分になる。自分がやっているお茶汲みでさえ、神聖な儀式のようにも思えた。

 茶葉が開くのを待ち、カップに移す。綺麗な飴色のお茶が芳しい匂いと共に湯気を立てる。

 お茶が冷めるのを待ちつつ、ポットを洗う。

 突然、乱暴に扉を開ける音が聞こえた。静寂の世界に突如やってきた音に驚いて肩が跳ねる。

 給湯室からひっそりと顔を出すと、そこにはフラフラと歩くルカが居た。

「!?」

 何かあったのだろうか、と、飛び出す。揺れる身体を支えようと両手を伸ばす。番頭は物音に気付かなかったのか、とうとう机に伏して寝ている。

「だ、だいじょうぶ?」

 誰かに襲われたのだろうか。怪我は無いだろうかと身体を見回すと、むっとするような甘い香りがした。

「――あぁ、お前か」

 肩に手が触れる。見上げると、ルカがこちらを見ている。

「大丈夫か?」

 何が。と、思う間もなく「すまなかった」と言われた。

「もっとお前をよく見ていれば良かった。嫌だといわれても店の中に連れ込めばよかった」

 攫われたことを、心配してくれていたのかと思うと、涙が出そうな程嬉しい。

(怖かった。けど)

「あたしも、ごめんなさい。自分が狙われているって危機感、もっと持てばよかった」

 何故だろう。するすると素直に言葉が出てくる。じわりと目に涙が浮かぶ。

「――そうか」

 言葉を発して微笑んだルカの目がうつろだった。有希はぎょっとした。

「え、ちょっと、大丈夫?」

 覗き込むように正面から見上げると、甘い香りと共に酒の匂いがした。

(よ、酔っ払ってんの?)

 初めて見るルカの酩酊姿に面食らう。しかし、このむせるように甘い匂いはなんだろうか。

 眉をひそめていると、ルカの大きな手が後頭部に回る。

「うぇ?」

 あっという間に有希はルカの腕の中にすっぽりと入っていた。

 有希の首元に熱い吐息がかかる。そのくすぐったさにざわりと粟立つ。

「ちょっ何してんのっ」

 さらりとした金髪が首をくすぐる。鎖骨あたりにやわらかいものが押し当てられる。そこにあるのは、ルカの唇。

「〜〜っ」

 息が止まるほどに顔が真っ赤に染まるのがわかる。思わず手がルカの顔を押し上げる。

「な、何するのよ!」

「泣きそうだったから慰めてやろうかと思ったのだが……」

 にやりと笑った顔で、有希の手を掴んではずす。空いたほうの手でまた頭を抱き寄せると囁く。

「ずいぶんと意地の悪いことをするのだな」

 聞いたことも無いほどぞっとする色っぽい声に、跳ね続けていた心臓が躍る。頭がくらくらとするほどの甘い香りが鼻腔いっぱいになる。

 背中を撫でる仕草が、ただ撫でるだけではないものを孕んでいる。

「よ、余計なお世話よ!」

「つれないな、あの時誘ったのはお前の方だというのに」

 かぁっと顔が熱くなる。

(さ、さそっ誘ったって)

「誰と間違えてるのよっ!」

 両手を突っぱねて距離を取り、平手でルカの頬を叩く。パシンと小気味よい音がして、また静寂が訪れた。

 有希は後ずさり、肩で息をしながら躍動している心臓に手をあてる。ルカは叩かれた姿のまま立ち尽くしている。

(もしかしなくても、そういう店に行ってたのかな)

 自分には当分縁が無いであろう雰囲気に、真っ赤になった有希は戸惑いを隠せないで居る。

 突然、ルカがぐらりと揺れて膝から崩れ落ちる。そのまま身体が前に傾ぐ。あわてて近づいて支えると、呆然としている顔があった。

 いつもの仏頂面とは少し違う、表情のない顔だった。

「ねぇ、ちょっとしっかりしてよ。大丈夫?」

 話しかけても焦点は有希には合わず、ルカは呆然としている。

 困り果てていると、人形のように表情のない顔の口もとだけが動いた。

「どうしても……」

「え?」

 もう一度問いかけると、素直にルカはぽつりとこぼした。

「どうしても、あなたが消えない」

 もう一度背中に腕が回る。だが、振りほどくことが出来なかった。背中をきゅっと握った手が、あまりにも頼りない。

「あなたはいつも微笑んだままで、いくら呼びかけても返事をしてくれない」

 誰のことを言っているのだろう。酔っ払って有希のことを誰かと間違えているのか、それとも、独り言なのだろうか。

「呼んで下さい……」

 消え入りそうなほどに頼りない声がする。有希はルカのこんな姿を見たことが無かった。いつも不遜で自己中心的で、何を考えているのか分からなくて周りの人を振り回している。そんなルカしか見たことが無かった。

 あなた。とは誰のことなのだろうか。こんなに脆くてボロボロになったルカの姿を知っている人。こんな姿を見せても良いと思われている人。

 有希は今まで出会った人を思い当たるが、そんな人は思い浮かばなかった。

「ルカと、呼んでください」

(そんな事言われても)

 有希はルカの名を一度も呼んだことがなかった。どう呼んでいいのかわからなかったからだ。さんづけで呼ぶべきか、それとも呼び捨てするべきか。そんなことも聞けないほど、ルカのことを知らない。

 自分がルカの名前すら呼ぶ事の出来ない存在だと思うと、キリリと胸が痛んだ。

 何かを堪えるような瞳が有希を捕らえる。瞬間、動けないほどの強い視線に、息が止まる。

 ルカは泣きそうな顔をしていた――正しくは無表情だったが、有希から見ればとても泣き出しそうな顔だった。

「ぁ……る、ルカ……」

 喉から絞り出るように声が発せられる。どうしたら物悲しい顔をやめてくれるのかと、ぎゅっと抱きしめる。

「ルカ、ルカ。もう大丈夫だから」

 大丈夫だから、そんな悲しい顔をしないで。

 有希は知っていた。あの顔を。

(泣いてしまいたいのに、泣くことが出来ない顔だ)

 まるで鏡を見ているようだった。悲しいのに、苦しいのに、それを表面に出すことの出来ない。だからこそ強張る不器用な表情。

 いっそ泣いてしまえばいいのにと、泣けない自分も彼に思う。

「泣かないで……ルカ」

 有希の背中に回った腕が、痛いほどに有希を抱きしめた。


 気が付くとルカは有希に抱きついたまま寝入っていた。

 有希はどうしたらいいのかわからず途方に暮れていると、有希が居ないことに気付いたアインと、そのアインに起こされたナゼットがやってきた。

 そして、ルカは二人に担がれて寝室に行った。

「悪い癖なんだ。あんなんなるのが」

 ナゼットが頭を掻きながら言った。大仰なほどの溜息をアインはついた。

「僕が覚えてる限り、ここ数年はありませんでしたよ。――ユーキ、ルカ様に変なことされませんでしたか?」

「変なこと?」

 ぽかんと見上げると、顔を赤くしたアインが言葉に詰まる。

「えぇと、その。あの、無事ならいいんです」

(あぁ、そういうことか)

 アインの言いたい事を理解した有希も、ぼっと赤くなる。

「だ、大丈夫。……でも、よくああいう所行くの?」

「その――なんだ。そういう気分になるっていうのはあんだよ」

 何かを忘れてしまいたい時なんかな。と、ナゼットが付け足す。それにすばやく反応したアインが、ナゼットを睨む。

「そういうことは、情操教育上ユーキに良くないので言わないでいただけますか」

 まるで有希の兄のような口振りに、笑みが浮かぶ。ナゼットは「あ、すまん」と頭を掻いていた。

「あはは」

 有希は思わず笑った。笑ったが、空虚なそれはどこまでも空虚だった。心のどこかでは持て余すような感情が燻っていた。

 何かを忘れてしまいたいとき。それは、ルカが「あなた」と言っていた人なのだろうか。

「――バカルカ」

 部屋の出際に、有希は小さく呟いた。


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