16
その宿屋は、飲料がセルフサービスだった。食堂とは別に給湯室のようなところがあって、お茶やホットミルクが自由に飲めた。
お湯を沸かしながらぼんやりと過ごす。
夜もだいぶ更けているらしく、番頭も船を漕いでいる。
湯が沸いたらしく、ぐつぐつと音が鳴る。あわてて茶葉を入れたポットにお湯を入れる。
何もかもが静止したように静かで、なんだか神聖な気分になる。自分がやっているお茶汲みでさえ、神聖な儀式のようにも思えた。
茶葉が開くのを待ち、カップに移す。綺麗な飴色のお茶が芳しい匂いと共に湯気を立てる。
お茶が冷めるのを待ちつつ、ポットを洗う。
突然、乱暴に扉を開ける音が聞こえた。静寂の世界に突如やってきた音に驚いて肩が跳ねる。
給湯室からひっそりと顔を出すと、そこにはフラフラと歩くルカが居た。
「!?」
何かあったのだろうか、と、飛び出す。揺れる身体を支えようと両手を伸ばす。番頭は物音に気付かなかったのか、とうとう机に伏して寝ている。
「だ、だいじょうぶ?」
誰かに襲われたのだろうか。怪我は無いだろうかと身体を見回すと、むっとするような甘い香りがした。
「――あぁ、お前か」
肩に手が触れる。見上げると、ルカがこちらを見ている。
「大丈夫か?」
何が。と、思う間もなく「すまなかった」と言われた。
「もっとお前をよく見ていれば良かった。嫌だといわれても店の中に連れ込めばよかった」
攫われたことを、心配してくれていたのかと思うと、涙が出そうな程嬉しい。
(怖かった。けど)
「あたしも、ごめんなさい。自分が狙われているって危機感、もっと持てばよかった」
何故だろう。するすると素直に言葉が出てくる。じわりと目に涙が浮かぶ。
「――そうか」
言葉を発して微笑んだルカの目がうつろだった。有希はぎょっとした。
「え、ちょっと、大丈夫?」
覗き込むように正面から見上げると、甘い香りと共に酒の匂いがした。
(よ、酔っ払ってんの?)
初めて見るルカの酩酊姿に面食らう。しかし、このむせるように甘い匂いはなんだろうか。
眉をひそめていると、ルカの大きな手が後頭部に回る。
「うぇ?」
あっという間に有希はルカの腕の中にすっぽりと入っていた。
有希の首元に熱い吐息がかかる。そのくすぐったさにざわりと粟立つ。
「ちょっ何してんのっ」
さらりとした金髪が首をくすぐる。鎖骨あたりにやわらかいものが押し当てられる。そこにあるのは、ルカの唇。
「〜〜っ」
息が止まるほどに顔が真っ赤に染まるのがわかる。思わず手がルカの顔を押し上げる。
「な、何するのよ!」
「泣きそうだったから慰めてやろうかと思ったのだが……」
にやりと笑った顔で、有希の手を掴んではずす。空いたほうの手でまた頭を抱き寄せると囁く。
「ずいぶんと意地の悪いことをするのだな」
聞いたことも無いほどぞっとする色っぽい声に、跳ね続けていた心臓が躍る。頭がくらくらとするほどの甘い香りが鼻腔いっぱいになる。
背中を撫でる仕草が、ただ撫でるだけではないものを孕んでいる。
「よ、余計なお世話よ!」
「つれないな、あの時誘ったのはお前の方だというのに」
かぁっと顔が熱くなる。
(さ、さそっ誘ったって)
「誰と間違えてるのよっ!」
両手を突っぱねて距離を取り、平手でルカの頬を叩く。パシンと小気味よい音がして、また静寂が訪れた。
有希は後ずさり、肩で息をしながら躍動している心臓に手をあてる。ルカは叩かれた姿のまま立ち尽くしている。
(もしかしなくても、そういう店に行ってたのかな)
自分には当分縁が無いであろう雰囲気に、真っ赤になった有希は戸惑いを隠せないで居る。
突然、ルカがぐらりと揺れて膝から崩れ落ちる。そのまま身体が前に傾ぐ。あわてて近づいて支えると、呆然としている顔があった。
いつもの仏頂面とは少し違う、表情のない顔だった。
「ねぇ、ちょっとしっかりしてよ。大丈夫?」
話しかけても焦点は有希には合わず、ルカは呆然としている。
困り果てていると、人形のように表情のない顔の口もとだけが動いた。
「どうしても……」
「え?」
もう一度問いかけると、素直にルカはぽつりとこぼした。
「どうしても、あなたが消えない」
もう一度背中に腕が回る。だが、振りほどくことが出来なかった。背中をきゅっと握った手が、あまりにも頼りない。
「あなたはいつも微笑んだままで、いくら呼びかけても返事をしてくれない」
誰のことを言っているのだろう。酔っ払って有希のことを誰かと間違えているのか、それとも、独り言なのだろうか。
「呼んで下さい……」
消え入りそうなほどに頼りない声がする。有希はルカのこんな姿を見たことが無かった。いつも不遜で自己中心的で、何を考えているのか分からなくて周りの人を振り回している。そんなルカしか見たことが無かった。
あなた。とは誰のことなのだろうか。こんなに脆くてボロボロになったルカの姿を知っている人。こんな姿を見せても良いと思われている人。
有希は今まで出会った人を思い当たるが、そんな人は思い浮かばなかった。
「ルカと、呼んでください」
(そんな事言われても)
有希はルカの名を一度も呼んだことがなかった。どう呼んでいいのかわからなかったからだ。さんづけで呼ぶべきか、それとも呼び捨てするべきか。そんなことも聞けないほど、ルカのことを知らない。
自分がルカの名前すら呼ぶ事の出来ない存在だと思うと、キリリと胸が痛んだ。
何かを堪えるような瞳が有希を捕らえる。瞬間、動けないほどの強い視線に、息が止まる。
ルカは泣きそうな顔をしていた――正しくは無表情だったが、有希から見ればとても泣き出しそうな顔だった。
「ぁ……る、ルカ……」
喉から絞り出るように声が発せられる。どうしたら物悲しい顔をやめてくれるのかと、ぎゅっと抱きしめる。
「ルカ、ルカ。もう大丈夫だから」
大丈夫だから、そんな悲しい顔をしないで。
有希は知っていた。あの顔を。
(泣いてしまいたいのに、泣くことが出来ない顔だ)
まるで鏡を見ているようだった。悲しいのに、苦しいのに、それを表面に出すことの出来ない。だからこそ強張る不器用な表情。
いっそ泣いてしまえばいいのにと、泣けない自分も彼に思う。
「泣かないで……ルカ」
有希の背中に回った腕が、痛いほどに有希を抱きしめた。
気が付くとルカは有希に抱きついたまま寝入っていた。
有希はどうしたらいいのかわからず途方に暮れていると、有希が居ないことに気付いたアインと、そのアインに起こされたナゼットがやってきた。
そして、ルカは二人に担がれて寝室に行った。
「悪い癖なんだ。あんなんなるのが」
ナゼットが頭を掻きながら言った。大仰なほどの溜息をアインはついた。
「僕が覚えてる限り、ここ数年はありませんでしたよ。――ユーキ、ルカ様に変なことされませんでしたか?」
「変なこと?」
ぽかんと見上げると、顔を赤くしたアインが言葉に詰まる。
「えぇと、その。あの、無事ならいいんです」
(あぁ、そういうことか)
アインの言いたい事を理解した有希も、ぼっと赤くなる。
「だ、大丈夫。……でも、よくああいう所行くの?」
「その――なんだ。そういう気分になるっていうのはあんだよ」
何かを忘れてしまいたい時なんかな。と、ナゼットが付け足す。それにすばやく反応したアインが、ナゼットを睨む。
「そういうことは、情操教育上ユーキに良くないので言わないでいただけますか」
まるで有希の兄のような口振りに、笑みが浮かぶ。ナゼットは「あ、すまん」と頭を掻いていた。
「あはは」
有希は思わず笑った。笑ったが、空虚なそれはどこまでも空虚だった。心のどこかでは持て余すような感情が燻っていた。
何かを忘れてしまいたいとき。それは、ルカが「あなた」と言っていた人なのだろうか。
「――バカルカ」
部屋の出際に、有希は小さく呟いた。