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確実に、その場の空気は止まった。
現れるはずないと思っていた――若干浮世離れしている――人が、現れた。
パティは重苦しいその場の空気なぞ知る由もないというように、すたすたと部屋に入る。その後ろから、若干おどおどしているロッティがついてくる。
「ユーキ」
「……パティ」
パティメートはまた、目を細めた。
「やっぱり似ていない」
「え?」
「ロッティ」
「は、はい!」
有希の問いかけはパティメートの耳に届かなかったようだ。唐突に名前を呼ばれたロッティはびしり、と固まる。
「準備を」
一瞬えっという顔をしたロッティは、しばらくぽかんとしていたが、何かに気付いたようでにんまりと笑む。
「――はい、ただいまお持ちしますね」
ロッティはふふっと笑った。笑うロッティと目が合うと、ロッティが嬉しそうに笑みかけてくる。ロッティはうふふと笑いながら部屋から出て行った。
「オイ」
パーシーが怒気を露にしている。
「アンタ、なんでここに来れたんだよ」
パティメートはちらりとパーシーを見て、それからふいと視線を流す。
「オイ! 聞いてんのかよ! 兄貴!」
パティメートはぼんやりと窓を見つめている。
「…………私は第一王子だから」
どこかを見つめながら、呟いた。
「出なくても良かった」
「……何言ってんだよ」
パティメートは、立っていた騎士に声を掛ける。騎士は短く返事をし、姿勢を正す。
「しばらくの間、パースウィルを外へ」
「っざけんな!」
いきりたつパーシーに、どこまでも冷静だ。
「ユーキの頬は?」
「っああ俺だよ! 俺がやったよ! それがどうかしたかよ!」
パティメートはすたすたと歩き、ソファへ座る。
「後悔したら入っていい」
「っだよ! んだよそれ!」
「パースウィル様、ホラ、行きましょ? ホラ」
パーシーはなおも吼えていたが、騎士がずるずると連れて行ってしまった。
(…………なに、いまの?)
一連の流れにあっけに取られる。
「パティって、実はとっても権力者なの……?」
今は打って変わって、天井と壁の境を見つめたまま動かない。有希の知っているパティメートの姿だ。
「マルキーは、どちらかというと身分よりも年齢を重視しているからな。兄王子というだけで力があるんだろう」
ルカが小さく言った。
ソファに腰掛け、伺うようにパティメートを見る。
「パティ?」
パティメートの反応はない。
(無視ですか)
この感覚も、今はどこか懐かしい。
あれから色々あった。色々ありすぎて、遥か昔のことのようにも思えてくる。それがなんだか可笑しくて、くすくすと笑う。ルカが眉間に皺を寄せたが、気にせず笑った。
パティメートを恨んだ日もあった。罵声を浴びせた事もあった。
「パティ」
しばらく待つと、パティメートがゆっくりとこちらを見た。それを見て、有希は深々と頭を下げる。
「ごめんなさい。――あたし、パティに酷いことを言った。……ずっと、謝りたかったの」
頭を上げて、パティメートを見る。表情は相変わらず変わらないままだが、ぱちぱちと瞬きを繰り返している。どうやら驚いているらしい。
(やっと言えた)
自己満足でしかなかったが、それでも有希の肩は幾分か軽くなる。
「違うと」
「え?」
「違うと、言えばよかったと今は思っている」
(……何に?)
思い出せないでいると、パティメートは言った。
「マルキーの民は、有希が死んでも幸せにはならなかった」
「!」
『ここに居るみんなは、あたしが死ぬことで、喜ぶのかなぁ』
そう言ったのは有希で、わからないと答えたのはパティメートだ。
「お願い、忘れて……なんか恥ずかしすぎて頭おかしくなりそう」
有希という人間が一人死んだとしても、皆が幸せになることなんてありえないのに。
「言えて良かった」
そう言うと、パティメートは音も無く立ち上がる。
「…………うん」
扉がノックされ、控えめな声と共にロッティが入ってきた。
「パティメート様、ご準備整いました」
有希は目の前のカップを見ながら、絶句していた。
目の前にあるのは、ソーサーの上に置かれた一つのカップ。その中にはなみなみと――表面張力というものの影響で、カップよりも少しだけこんもりとしている――注がれたお湯。そしてゆったりと開いてく花の蕾。
パティメートはポットをロッティに手渡した。パティメートと同じミトンを嵌めたロッティは、にこにこと笑いながらそれを受け取る。
花は目の前でじんわりと開いていく。
(…………なんで?)
なんでこんな状況になっているんだろうか。
ロッティがにこにことワゴンを運んできたかと思うと、パティメートが茶器の準備をはじめたのだ。カップを取り出し、ソーサーを取り出し、花の蕾――茶葉をカップへ入れ、沸いた湯を注ぐ。
緩慢に、だけれどひとつひとつ丁寧に行う姿をロッティは嬉しそうに眺め、ルカは押し黙り、有希は目をぱちくりさせていた。
「ふふっ」
堪え切れなかったのだろう、ロッティが吹き出した。
「ロッテ……?」
あなたはこの出来事をどう思っているの。この珍事の理由を知っているのか。問うように聞くと、ロッティはころころと笑った。
「ユーキさん、パティメート様にスープを渡された事、ありますか?」
「え?」
(スープ?)
そんなもの、あっただろうか。しばらく考えて、ケーレの塔での出来事を思い返した。
「…………あ」
渡される食事についていたスープは、大抵殆どが零れていた。
「パティメート様、気にしていたみたいで練習したんですよ。――上手に出来るようになったので、次はユーキさんにお茶を淹れるって言って」
「そう、なの?」
パティメートを見ると、何を考えているのかわからない顔で、有希の前に置かれたカップに視線を注いでいる。
「あ、ありがとう…………」
「今日は大成功でしたね、パティメート様」
少しでも動かしたなら、確実に表面張力は決壊しソーサーに流れるであろうこれが、大成功なのか。
ロッティとパティメートを交互に見つめたが、二人とも異論がなさそうだった。ちらりと横を見ると、ルカの眉間の皺が一本増えている気がした。
「あ、あの……パティ……?」
パティメートの視線が、ようやくカップから有希に移った。
「あたし、今日……大事な話があって」
言うと、パティメートは二三度瞬きをして、ロッティに告げた。
「ロッティ、茶を、二人」
「へっ? あっ、は、はい! 花茶でいいですか?」
パティメートは一切反応をしなかった――ように見えたが、ロッティは肯定だと受け取ったようで、いそいそと準備をはじめていた。パティメートはまた思考がどこかへいってしまったようで、目が虚ろだ。
「…………ルカ、ルカ」
肘でルカをつつくと、ルカも何を考えているのかわからない仏頂面だ。
「あのさ、ヴィヴィとの話――パティにしていいかな」
ずっとずっと、考えていた。
リビドムを返してもらう為に、できることはなんでもしたいと。
世界には三国なければ壊れてしまうだなんて信じてもらえないかもしれないが、それでも言わないよりも言ったほうがいいと思った。
「好きにしろ」
「うん、ありがとう。なんか言い漏らした事あったら補足してね」
ルカの眉間に皺が寄った。仏頂面よりも、こちらの顔の方が良いと有希は思う。